ナイアス
開け放たれた扉の向こうは、薄暗い部屋だった。
細長い4つの窓には重いカーテンがかかり、灯りはすべて落とされている。
唯一の光源はどっしりした暖炉の火だけで、その揺らめく光が散らかった室内を照らし出してる。
床に投げ出された本やびりびりに破かれた書類、割れたグラス、転がる酒瓶………そして、水差しと酒瓶が置かれたテーブルの前のソファに、身を投げ出すように座る男の姿。
酒の匂いと薪が燃える匂いの籠った空気はどんよりと濁っていて、しばらくの間侍女の手が入っていないことは明白だった。
「………あらあら……若様ったら……」
その異様な光景を目の当たりにしても、たじろぐどころか得たりというように微笑むウルリーケを押しのけるようにして、アルは一歩部屋に踏み入った。
「……ナイアス」
ぐったりと身動き一つしないナイアスに声をかけると、ぴくりと指先が反応する。
「……おい。しっかりしろ、この酔っ払い」
そのままずかずか室内に踏み込むと、のろのろとナイアスは顔を上げ、ゆっくりとアルを見上げた。
「おお………これはこれは………おいでだったのか……未来の義父上どの……?」
「ざけんじゃねえ。ぶっ飛ばすぞ」
憎々し気に唇を歪め、嘲笑うかのように言い放ったナイアスの落ち窪んだ眼と、顔色の悪さに内心ぎょっとしつつも、アルはテーブルにあった水差しを引っ掴むと、その水を遠慮なくナイアスの頭からぶっかける。
「ア……アル!?」
「まあ!」
「ちったぁ頭冷えたか?馬鹿野郎が」
その暴挙に驚くロデリックとウルリーケをまるっと無視して、アルはぼたぼたと髪から雫を垂らしながらも呆然と座ったままのナイアスの襟首を掴み上げた。
「自棄起こすのは自由だがな。てめえの仕出かしたことにカタつける方が先だろうが。……ったく、腑抜けやがって……これじゃああの『世界一のおひめさま』に愛想尽かされるのも無理ねえなあ?」
「っ!!」
わざと挑発的に嘲ってやると、死んだ魚のようだったナイアスの瞳に怒りの炎が灯る。
「……貴様に……貴様に何が判る!!生まれながらにして私の欲しいすべてを持っている貴様に!!」
「ああ、判んねえな。てめえの母親と通じた挙句に国を滅ぼしかけた野郎の気持ちなんぞ」
激昂し、掴みかかってきたナイアスをぞんざいにソファへ突き倒し、アルはソファに崩れたまま唇を噛んで睨み上げる彼を見つめた。
ぼさぼさの髪、薄汚れた服、こけた頬にひび割れた唇。
虚ろな目許にはくっきりと色濃い隈ができて、頬にはうっすらと無精ひげさえ生えている。
これが―――たとえ戦場でも身嗜みを整え、香水の香りさえ漂わせていた、あのナイアスだというのか?
……正直言って、アルはナイアスが嫌いだった。
まだ社交界デビュー前のレティに言い寄り悪評を流そうとしたことも、戯れに女性に手を出し利用する不誠実なところも、アルには絶対できない、鳥肌が立つような台詞を平気で吐くところも。
だが、アルの好みに関わらず―――彼は優秀な騎士で、指揮官で、政治家だった。
気に入らないながらも、一目置く相手だったのだ。
―――それなのに……。
「………なあ、ナイアス……」
堪えられなかったため息を零し、アルは隣のソファに腰を下ろした。
「……いったい、何があったんだ。なんでこんなことになった?お前だって、好きで国を滅ぼそうとしたわけじゃないだろう?」
「………貴様に……何が判るというのだ……」
出来るだけ穏やかに話しかけるアルを睨みつけ、ナイアスは歯を食いしばる。
「私は……エリザベートを愛していた!!彼女のためなら何でもしたのだ!!伯父上たちを欺き、他国召喚に手を貸し……父すらこの手にかけた!!」
「エイダス殿を!?」
思わず声を上げたアルを鼻で笑い、ナイアスは唇を歪めた。
「ああ、そうだ!独り寝を嫌がる母に頼まれて、息子が添い寝する……それすら許さない、狭量なあの父をな!10にも満たぬ子供の添い寝だぞ!?それを……あの男は……」
そう、最初はただの添い寝だった。他愛もないじゃれ合いと、親愛のキス。だが、エリザベートを溺愛するエイダスは、それすらも許さなかった。
「エリザベートから引き離すと言われ、私にはもう、そうするしかなかった……だが、後悔などするものか!これでエリザベートは私だけのもの!もう二度と引き離されることはなく、ずっと一緒にいられる……そのために、私はそこまでのことをしてきたのだ!!……それなのに……」
白くなるほどに拳を握り締め、ナイアスはぎりぎりと奥歯を噛む。
「11年前……突然エリザベートは狂った。元より現実と空想の狭間にいるひとではあったが、完全に現実から乖離してしまった。誰のことも判らず、声も届かず……私のことすらも……何故だか判るか!?すべては、貴様の父が!太陽王と祀り上げられたアルフォンゾ王が、死んだからだ!!」
激情のまま、ナイアスはテーブルの上のものを薙ぎ払った。グラスが砕け、重い音を立てて酒瓶が転がる。
「貴様の父が無様に殺されたせいで!!……そのせいで、エリザベートは……彼女は……アルフォンゾの絵姿に縋り、永遠の悪夢の中を彷徨い続けるだけになってしまった……どんなに言葉を尽くしても、力の限り抱き締めても、彼女には目の前に私がいることすら判らない……判るか?その苦しみが!その痛みが!!貴様の父のせいで、エリザベートは地獄に堕ちたのだ!!」
「ナ……ナイアス殿!」
その勢いのまま立ち上がり、ぶるぶると拳を震わせたままアルを睨みつけるナイアスに、それまでただ傍観するしかなかったロデリックがようやく声をかける。
「しかし、今の侯爵夫人はご健勝の様子……それはナイアス殿の看病の賜物ではないのかな?」
「……看病?」
だが、取りなすようなその言葉に、ナイアスは皮肉気に片眉を上げた。
「……看病……そうですな、ある意味、それもあるかもしれぬ。……だが、一番の功労は……そこの―――殺しても飽き足らぬ、憎い男のほうだ」
「俺!?」
いきなり名指しされ、さすがにアルも驚愕に声を上げる。
「なんだそれは!?俺は何も……」
「したさ。リーヴェントとの国境で魔物を討伐し、武勲を上げた……その報せが、あれほど夢幻を彷徨っていたエリザベートを……彼女を現実に引き戻したのだ!」
それは、ほんの小さな速報だった。
隣国の、まだ少年といってもいい王子の凱旋。しかし、それを聞いたエリザベートはここ数年で初めて目を輝かせたのだ。
―――ああ……アルフォンゾ様!!やっぱり、生きていらっしゃった!わたくしの許へ、帰ってきてくださいましたのね……!!
涙ながらに、そう、頬を染めて。
「それからだ。エリザベートは、お前のことにだけ反応するようになった。……誰よりも側にいて、誰よりも尽くす私ではなく……貴様と……とっくに死んだ貴様の父のことにだけ……」
「……ナイ……アス……」
「だから私は……ダーヴィン商会に命じて、アルフォンゾだけでなく、貴様の絵姿をも集めさせた。それを渡し、貴様たちの話をするときだけ、エリザベートは私を思い出してくれた。そうやって少しずつ……少しずつ彼女を現実に引き寄せていったのだ……」
いつしか、ナイアスは項垂れ、唇を噛んでいた。
そんな彼にかける言葉など見つかるはずもなく、アルはただその声に耳を傾ける。
「私は、彼女の願いはなんでも聞き入れた。新しいドレスも宝石も……彼女に強請られればなんでも買い与えた。温もりを乞われて、アルフォンゾの代わりに彼女を抱きもした。ただひとつ……アルフォンゾに会いたいという、一番切実な願い以外は……な」
大きくため息をつき、ナイアスは疲れたようにソファに腰を落とした。
「……その願いだけは……いくらカナンの次期王と目された私にも叶えられなかった……そのせいもあって、エリザベートは余計に『おひめさまの秘密』とやらにのめり込んだようだがな……だが……誰を呪おうと、そのために誰を殺そうと、そんなことはどうでもよかった………エリザベートが……エリザベートさえ、私を見てくれるなら………」
「………ナイアス………」
それは。
まるで血を吐くような告白だった。
あまりに身勝手で悍ましい内容でありながら、この男が囚われた闇の深さを思えばそれを糾弾するのも躊躇われて。
アルはかけるべき言葉を持たぬまま、じっとその微かに震える手を見つめていた。




