それぞれの夜
「……な…なんだ?」
フローリアの真っ直ぐな眼差しに、たじろいだようなナイアスに、臆することなくフローリアは問いかける。
「あなたは……あなた様こそ、本当に誰かを愛したことがあるのですか?あの、美しいお母上ではなく、あなた様に愛を捧げた……数多の女性の、誰かを?」
―――たとえ一時でも、わたくしを愛してくださったことがあるのですか?
「……馬鹿馬鹿しい!」
だが、血を吐くようなフローリアの心の叫びなど知る由もないナイアスは、彼女の質問を無碍に斬って捨てた。
「私が愛するのは、エリザベートただひとり。他の女など……ただの道具にすぎぬ!……そう、エリザベートさえ。エリザベートさえいてくれれば、私はそれでいいのだ!」
「その、エリザベート様があなたを切り捨ててもですか!?」
「っ!!」
頑ななナイアスについ反論した言葉に、ナイアスは激昂した。
「貴様のような浅ましい魔人に何が判る!私は……私は、心から愛していたのだ!彼女だけを!!」
そう怒鳴ると同時に突き飛ばされ、フローリアは回廊に倒れ込んだ。
「そうだ……私はエリザベートを愛している……愛しているのだ!たとえ疎まれようと、彼女だけを!!」
「……ナイアス……様……」
強打した肩の痛みよりも。
捻ったらしい足首の痛みよりも。
一番痛いのは、フローリアの心だった。
……ああ……あなたは………
エリザベートを愛していると、まるで自分に言い聞かせるように言い募るナイアス。
想う相手に愛がないと判っていても縋りつくその姿は、まるで過去の自分と同じ―――ありもしない幻影にしがみつき、真実から目を背け続ける……惨めな……
不思議と、怒りも幻滅も感じなかった。
胸に去来するのは哀しみの入り混じった虚しさと、ただ、これがナイアス・メギド・ル・カナンという男なのだ、という認識だけ。
「………わたくしに……人を愛することがあるのか、とお尋ねになりましたわね」
ややあって、フローリアはゆっくりと立ち上がった。落ち着き払って侍女服の裾を払う。
「わたくしにも、心から愛するかたがおりましたわ。……ええ、愛しておりました。身も心も捧げ尽くし、そのかたのためなら大それた罪を犯すのも厭わなかった……。愚かにもそのかたの妻になれると自惚れていたのです。あのかたにとっては、わたくしなど、数多い遊び相手のひとり……いくらでも替えの効く、使い捨ての道具でしかなかったのに……」
「……ふん、当然だろうな。お前のように、醜い化け物のような女がよくもそんな身の程も弁えぬ望みを持てたものだ!」
「わたくし、は……っ」
蔑むように吐き捨てられて、一瞬フローリアはポケットの小瓶を握り締める。
だが―――
今、この男の前で元の姿を取り戻して。
美しいフローリアになって、どうするというのだ?惨めな彼の姿を嘲笑う?優しく慰めてともに逃げる………?
ひとつため息をつき、フローリアはゆっくりと首を振った。
「………そう………そうですわね。あなたはあの時も、そうおっしゃいましたわね……」
そっと小瓶から手を放す。
この男には、この奇跡を使う価値もない。
「……なに?」
小さなその呟きを拾い損ねたナイアスが訊き返すのにもう一度首を振って。
フローリアは毅然と顔を上げ、ナイアスをじっと見つめた。
「……どうか、お逃げください。魔王様のお見立てが正しければ、明日にもここは決戦の場となりましょう。エリザベート殿を連れ出すことは叶いません。あなただけでも、どうか」
「なっ…」
息を飲むナイアスを残し、フローリアは背を向ける。
「どういうことだ!明日、勇者たちが攻め込むというのか!?貴様は何を知っている!何故私に逃げろと……」
「……あなたのためではございません」
背を向けたまま、一度だけ足を止め。
「………あなたを愛した愚かな女の……フローリアの、最期の想いのためですわ」
そう告げたフローリアは、二度と足を止めることなく立ち去った。
人間だった過去の自分と、愛した男だったひとをその場に残して。
「…………フローリア………?」
途方に暮れたような、ナイアスの呟きだけが空気に溶けて―――消えた。
夜は、静かに更けていく。
地図と、スフィカの偵察映像を見比べ、遅くまで作戦を練る亜人や騎士たちの上に。
心を落ち着け、一心に祈りを捧げる小聖女たちと姫の上に。
自らの中の神と対峙し、為すべきことを見極める王子の上に。
―――覚悟を決め、剣を抱いて眠る勇者と、月を見上げる聖女の上にも。
ゆっくりと、緩やかに時は流れ。
そうして。
決戦の、朝が来た―――。




