エノクのたからもの 1
「大賢者エノクの……たからもの?いったいそれはなんだい?ステファーノ」
ところ変わり、始まりの場所では。
聖なる泉を前に、旅の目的を明らかにしたステファーノにナルファがその真意を質していた。
「ぼくも、実際にどういうものなのかは判りません。ただ、獣人に伝わる伝承に、そういう話があったんです。創生神……すなわち、ルルナスはエノクに友情の証として『賢者の叡智』を与えた。そして、エノクはそのお返しに、自分のたからものを……冷たい石を贈ったと」
「冷たい……」
「石……?」
思わず、ナルファと泣き止んだキッチェは顔を見合わせた。
「冷たい石……キッチェ、何か心当たりはあるかい?」
「……ううん」
片手を顎に当て、キッチェは眉を顰める。
「『賢者の叡智』をただの人間だったエノクに贈ったと聞いて、一度だけ咎めたことがあるの。そのときに、ルルナスは、代わりに良いものを貰った、と言っていたけど……もしかしたら、それがその冷たい石なのかもしれないわね……。どんなものかは聞いても教えてくれなかったけど……」
ただ、とても嬉しそうだったルルナス。
いつも生真面目で、淡々と表情の変わらないあのかたが、エノクのことを話すときだけ、幸せそうに、楽しそうに顔を綻ばせた。
それが微笑ましくて……嬉しくて、ただ見守るしかできなかったけれど……。
「……ごめんなさい。もっとしつこく、聞き出していたらよかったわね」
「いえ、そんな!」
「そうだよ!まさかこんなことになるなんて、キッチェは想像もできなかったんだから!」
素直に頭を下げるキッチェに、二人は慌てて首を振る。
「それにしても………冷たい石ってのは……?石ならそこら中にあるけど……」
話を変えるように、ナルファはぐるりとあたりを見渡した。
なにしろ、ここは洞窟の中。岩、鉱石、鍾乳石……巨大な岩石からちっぽけな小石まで、見渡す限り、石だらけだ。
「こんな中からたったひとつの石を探せと言われても……冷たいって、どのくらい冷たいんだろう。触ったらわかるのかな」
「たぶん……何らかの宝石のことだと思います」
「宝石?」
考えながら口にするステファーノに、ますますナルファは首を傾げた。
「宝石って……あれかい?金剛石とか、緑柱石とか?」
「僻地の寒村出身で、しかも目の見えなかったエノクがそんなもの持ってるとは思えないけど……」
「貴金属としての価値はほとんどないと思いますよ?ただ、宝石は冷たいと言われているんです。普通の石と違い、ひんやりと冷たいと」
言いながらぐるりとあたりを見回したステファーノは蝋燭を掲げる。
「目が見えない分、エノクは他の感覚が鋭かったはずです。だから、鉱石に含まれる原石の部分……その温度の違いに気付いた。そして、温度の高い部分を削り落とし、残った冷たい石を、大事にしていたのではないでしょうか。自分だけに判る、自分だけの『たからもの』として」
「たからもの……」
「それを、エノクはルルナスに贈ったのね……」
「でも、それがどうしてここにあると?」
ナルファはすい、と右手を掲げた。
その掌にふわりと柔らかな光が燈り、聖なる泉を照らし出す。きらり、と泉の真上にある青い水晶が光り、青い泉に光のさざ波が立った。
「ここが、ルルナス様の大切な場所だったから、ですよ」
泉の底を注意深く覗き込みながら、ステファーノは答える。
「考えてもみてください。人嫌いのルルナス神が寛げた場所は、たったふたつ。霧の森と、ここ、始まりの場所です。そして、邪竜となり、魔王と融合したルルナス神は、二度と霧の森に帰らなかった……」
「だったら……その、『エノクのたからもの』は……ここに……?」
「ええ。ここか……魔王の拠点が置かれていた、死者の島、そのどちらかだと思います」
そう言って、その青い瞳をひたり、と天井の水晶に据えたステファーノが言葉を続けようとした時。
「……ちょっと待って!」
不意に、黙り込んでいたキッチェが声を上げた。
「……ひとつだけ、答えて。傍観者。あんたは、冷たい石を……『エノクのたからもの』を手に入れて、なにをしようというの!?」
「なにを……とは?」
「はぐらかさないで。判ってるでしょう?あんたなら、あたしの質問の意味くらい!」
穏やかに応えるステファーノをじっと見つめ、キッチェは威嚇するように高く舞い上がる。
「『エノクのたからもの』は、あのかたの宝物でもあるわ!それを手に入れて、アンタはどうしようというの!それを、どう使う気なの!!」
返答次第では許さない、と言わんばかりの気を発するキッチェをじっと見つめ―――ステファーノは大きくため息をついた。
「ぼくは、傍観者です。キッチェさん。傍観し、すべてを記録するのが役目。戦いに加わることも、戦局を大きく変えることも、赦されてはいません」
そう、それが『傍観者』の役割だ。
どれほど望もうと、積極的にどちらかの陣営に肩入れすることはできない。
どれほど歯痒くとも、ただ、見守ることしかできない……―――
「ぼくには、『エノクのたからもの』を戦術的に使う気はありませんよ。ただ……ぼくは知りたいんです。『エノクのたからもの』とはなんなのか―――それを見たときの魔王……いえ、魔王の中にいる、ルルナスの反応を」
「そんな……」
「……エナさんは、ルルナスの幻を見たそうです」
詭弁だと反論しかけたキッチェは、続く静かな言葉に息を飲んだ。
「ルルナスの……まぼろし……?」
「ええ。死者の島の廃墟……大樹に偽装された泉のほとりで。自分を責めて泣き続ける、銀色がかった白い髪、白い服のこどもに会ったそうです」
「白い……髪…の……?」
それを聞いて、ナルファも顔色を変える。
うっすらと銀に輝く、背丈を超すほどの長く白い髪、純白の長衣に丈の短い、銀糸で刺繍された上着。
優しい青い目をした、7歳くらいのこどもに見える、その姿。
それは、紛れもなく在りし日の―――この、あらゆる知識を持つ傍観者ならともかく―――異世界から来たあの聖女が知るはずのないルルナスの姿だった。
「そのこどもは、すべては自分のせいだと自分を責め続け、すべて終わらせてほしい、とエナさん……いえ、エナさんの中の星女神ヴェリシアに縋ったそうです。手遅れになる前に、かれが闇に沈む前に……と」
「………そん……な……」
がくり、とナルファは膝を付いた。
堪えられない涙が頬を伝う。
「それが、ルルナスの本心なのか、憎悪に呑まれ邪竜と化したルルナスから弾き出された、エノクを想うまごころの部分なのかは判らない。コンラートと融合した今のルルナスに意識があるのか、本当に心の奥底ではそう望んでいるのかは、判らない……」
ばしゃり、と水音を立て、ステファーノは泉に足を踏み入れた。
途端にぶわりと水面が光り、凶暴なまでに濃密な神気が立ち昇る。
「ス……ステファーノ!?」
人間にはとても耐えられぬようなその濃さに、慌ててナルファが叫ぶが、ステファーノは構わずにもう一歩踏み出した。
「……でも……ぼくは、賭けてみたい。ひたすらに懺悔と謝罪を繰り返し、救済よりも消滅を望んだルルナスの優しさに。ほんとうは、エノクのところへ帰りたいと泣いた、ともだちを思うルルナスのまごころに!!だから………ぼくに力を貸してください!!大賢者エノク!!」
そう叫び、ステファーノが神気に浸食され、ぼろぼろになった手を泉の中央に差し伸べた―――その、瞬間。
「「!!」」
不意に、天井の水晶が眩い光を放った。




