エリザベートの愉悦
時は少しだけ遡る。
黒の呪いにより王都が崩落したのと同じ頃、遠く離れた夢幻城では上機嫌のエリザベートがサンルームから摘んできた花を抱え、豪奢に飾り付けられた廊下を歩いていた。
「……ご機嫌でございますわね、姫様」
その3歩後を追従するウルリーケが苦笑するほどに、前を行くエリザベートの足取りは軽い。
「まあ!そう見えて?……でも、当然じゃない?わたくしの傷が治ったのよ!あのひとのおかげで!」
目を輝かせ、エリザベートはくるりと優雅に身を翻して見せる。
そのまま廊下の壁に嵌めこまれた巨大な鏡を覗きこみ、エリザベートは満足げにその笑みを深めた。
小粒の真珠とレースがふんだんにあしらわれ、桜色のリボンがアクセントを添える、純白のドレス。
ゆるやかなハーフアップに纏められた豊かな金髪と、それを彩る桜色のリボン。
耳許を飾る桜金剛石のイヤリング、同じ意匠のネックレス。
淡いピンクと赤の薔薇を抱えたその出で立ちは、夢のおひめさまに相応しく清純で美しい。
そして、それを纏う少女は。
「うふふ…」
満足げな忍び笑いを漏らし、エリザベートは鏡の前で自分の姿を矯めつ眇めつした。
けぶるような金色の睫毛に縁どられた、ほとんど色のない、アイスブルーの瞳。
薔薇色の頬、弧を描く赤い唇。
そして、あの恐ろしい傷が浮かび上がっていた右頬は滑らかなクリームのようにすべすべのままで、いまや傷ひとつ認められない。
「……そうよ……これでこそ、アルフォンゾ様に相応しい、世界一のおひめさまだわ……」
ほう、とため息をついて、エリザベートは自分の美しさにうっとりと目を細めた。
「……やあ。ご機嫌だね、エリザベート」
「あら!」
自分で自分に見惚れていたエリザベートは、不意にサロンの中からかけられた声に、金髪を揺らして振り返る。
「どうなさったの?お珍しいわね、あなたがこちらにいらっしゃるなんて!」
いうなり、エリザベートは抱えていた花を無造作にウルリーケに押し付けると、小走りにサロンへ駆け込んだ。
「もちろん、ご機嫌伺いにね。無事に魔女の呪いが解けたようで安心したよ、姫君」
湖を背にしたソファにゆったりと座り、香り高いお茶を楽しんでいた青年は、そう笑って駆け寄ってきたエリザベートの手を取り、恭しく口づける。
その優雅な仕草で、彼の長い黒髪がさらりと流れた。
「ええ!すっかり!!本当にあなたのおかげですわ!」
声を弾ませるエリザベートはそのまま彼の隣のソファへ腰を下ろし、見て、と言わんばかりに右の頬を彼に向ける。
「本当に……なんとお礼を言ったらいいのかしら。あんな醜い傷がこのわたくしの頬にあるだなんて……ウルリーケに治させても治させても浮かび上がってくるんですもの!!こんな顔ではあのかたが迎えに来てくださってもお会いできないって、わたくし、生きた心地がしませんでしたのよ!」
「……お役に立てて、なによりだ」
にこり、と完璧な笑顔を浮かべ、コンラートはお茶と一緒に嘲笑を飲み下した。
……エリザベートの頬に浮かんだ傷は、魂に刻まれた傷だ。
シンシアが命と引き換えに与えた一撃は、この邪悪な女の魂に、消えない傷を与えたのだ。
世界樹の剣により魂に刻まれた傷が、そう簡単に消えたりするものか。
コンラートは、ただ「魔女の呪いを解く」という名目でエリザベートの意識を魂の傷から反らしただけ。
そんなことも知らず、浮かれるこの似非姫君の愚かさが可笑しくて、緩む口許を抑えられない。
「ねえ、あなた?何かお礼をさせてくださいな。このままでは、わたくしの気が済まないわ?」
「お礼?」
影のようにコンラートに付き従うジュリアが淹れたお茶を無視し、ウルリーケに新しく淹れさせたお茶を手に、愛らしく小首を傾げるエリザベートに、コンラートはきょとんと目を丸くした。
「……そうだね。じゃあ、許可をいただこうか。この夢幻城の、ちょっとした模様替えの」
「模様替え……」
コンラートの言葉に、エリザベートは眉を寄せ、口許にカップを運びかけた手を止める。
「やはり……やらなければいけませんの?」
「ああ。そういう約束だったろう?」
「……でも……」
穏やかな、それでいて毅然としたコンラートの言葉に、エリザベートは逡巡し、やがてため息をついて口をつけることなくカップをソーサーに戻した。
「………しかた……ありませんわね。最初から、そういうお約束でしたものね」
「……すまないね、姫君」
見るからにしぶしぶ、といったエリザベートに苦笑するコンラートを軽く睨んで。
「……でも、あまり景観を損ねては嫌よ?わたくし、このお城が本当に気に入っているんですもの!!」
「判ってるよ。美しいエリザベート。ちょっぴり湖の形が変わってしまうが……そんなに酷いことにはならない。……もともと、ここにあるべきものなんだしね」
「……だと、よろしいのだけれど……」
はあ、ともう一つため息をつき、エリザベートは今度こそお茶を口に運んだ。
「それで……模様替えはいつなさいますの?」
「そうだね……あれが安定し次第……かな。あっちも今はそれどころじゃないだろうし……急いてことをし損じたら元も子もないしね」
「………だ、そうよ。お願いね、ウルリーケ」
「承知いたしましたわ、姫様」
くすくすと楽しそうに笑うコンラートをちろりと恨めしそうに見て、エリザベートが傍らの侍女にそう告げた、そのとき。
「……エリザベート!!!」
不意に、ばん!と大きな音を立て、サロンの扉が荒々しく開かれた。
「……だからさ、どうにかして夢幻城に乗り込むっきゃないと思うんだよね」
エンデミオンの王宮の奥では、颯太の指摘をようやく受け入れた亜人と人の王たちが額を突き合わせているところだった。
内心ではまだカナンの王族が魔王を匿っているという疑惑を消化できないまま、彼らはなんとか考えをまとめていく。
「む……確かに……」
「だが、どうやって?この状況でカナンにその許可を出す余裕があるとも思えんが……」
「無断で乗り込んだら、侵略と取られかねねえしなあ」
颯太の意見に王たちが顔を見合わせ、ブルムが頭を掻いた。
「緊急事態ってことでどうにかならない?」
「王都近郊なら、災害救助でも何とでも名目が立とうが……黒の呪いとは全く無関係な場所だしの…。しかも王族―――王族とされている、ナイアスの城も同然の場所よ。下手をすれば、王都陥落に乗じてエンデミオンとシナークがナイアスを討ち、カナン乗っ取りを画策したと取られかねぬわ」
「そんな……」
ラウの言葉に、依那も言葉を失う。
「ナイアスは横置いといて……この場合、誰が責任者なの?他に王族っていないの?」
「ゼラール殿の兄弟はエイダス殿だけだし、前王のゼラルディン殿の妹アーリア姫はメギド公爵家を継ぎ、ダイムラー公を婿としたがお二人に子はなく、アーリア姫ご自身も30年近く前に他界されている。それ以外の王族というと……何代か前の姫がグラウニー侯爵家とタラント伯爵家に嫁いでいるが……ううむ、グラウニー候とご子息は公務で王城にいただろうし……」
「グラウニーの父子は王城と運命を共にしたですー。タラントの家族は王都にいましたからーこれも……辛うじて王族の血を引くと言えるのはー、グラウニー領にいる幼い息子くらいですねー」
言い淀むゼメキスの傍からチュチュが口を挟んだ。
「お妃さまのことや魔王対策で、重鎮がみんな王城に詰めていたのが災いしたですー。国政に携わってた偉い人は軒並みお陀仏ですよー」
「……そう……か……」
それを聞いて、アルも眉間の皺を深くする。
その状態では、当分は国の立て直しだけで手一杯に違いない。
確たる証拠があるならまだしも―――疑惑だけで他国の、しかも王族の城を捜査するとなれば、どれほどのいらぬ混乱を招くか………。
「……ちくしょう……この大事な時に、あいつはどこへ行きやがったんだ……」
がしがしと頭を掻き、アルはここにいない、ステファーノの動向に思いを馳せた。




