熊、出没
最近は熊よけに鈴は使わないそうですよ、颯太くん
「もしかすると、この先、熊が出るかもしれません」
昼食の用意のため、ヨハンと水を汲みに行ったステファーノが、帰ってくるなり深刻な顔で言った。
「小川の近くの木に、爪痕がありました。それから、キノコの群生を食い荒らした跡もあります。見たところ、小型の熊だと思いますが…」
「それは…注意した方がいいですね」
「熊……」
姉弟は顔を見合わせる。小型というからには、ツキノワグマみたいなのだろうか。
「この辺にベスルトの木があればいいんだが…」
「そう思って、ヨハン殿とマルクス殿と探しましたが、この辺りにはベスルトの木はありませんでした」
「ベスルトの木の実をすり潰すと、熊が嫌いなにおいが出るのです。熊よけにつかわれるのですよ」
エリアルドが横から解説を入れてくれる。
「鈴とか鳴らしながらじゃダメかな。俺たちの世界だと、熊よけになるんだけど」
「鈴……ですか……」
颯太の意見にステファーノは考え込む。
「多分…効かないと思います。熊は好奇心の強い生き物ですから…聞きなれない音を立てれば、かえって寄ってくる恐れがあります」
「同じ熊でも、向こうとはずいぶん違うんだね…」
「まぁ、出たらその時はその時だ。すぐに対応できるように、馬は動ける奴で固めた方がいいな。王子様は坊主と代われ。ヒョロっちは団長と、でこっぱちは…そのままでいいか。先生も馬車ン中入ってもらって、勇者の坊主と代わった方がいいな」
「そうですね、お願いできますか、ソータ殿」
「もちろん!」
食事の準備をしながら、さくさくと役割分担が決まっていくが……ドワーフは人の名前を覚えるのが苦手だと言っていただけあって、何やら妙なあだ名がついている気がする。
王子様、お姫さんはいいとして、坊主がアル、先生はステファーノ、勇者の坊主が颯太で嬢ちゃんが依那。団長はエリアルドで、おそらくヒョロっちがマルクス、でこっぱちはオールバックのヨハンのことだろうか。
「糸目とハゲは、そのまんま荷馬車を頼むぞ!」
「…い…しょ…承知しました」
スキンヘッドのカノッサは平然としているが、糸目と言われたリートはちょっと複雑そうだ。
一同は手早く食事を終え、丁寧に後始末をした。
残飯のにおいとかで熊を呼び寄せてしまっては、本末転倒だ。
出発後、しばらくは何も起こらなかった。
「ステファーノ」
あたりを警戒しつつ、アルが馬車に馬を寄せる。
「熊の縄張りはどのくらいだ?」
「そうですね、そろそろ縄張りを抜ける頃だとは思いますが、油断はできません。熊が一匹とは限ら…」
「アル兄!」
ステファーノの言葉を遮って颯太が叫ぶのと、アルが顔を上げるのは同時だった。
同時に、騎士たちも左前方の藪に向かって身構える。
数瞬の間をおいて、それは藪から飛び出してきた。
「抜剣!」
エリアルドの号令で全員が剣を抜く。だが、馬車の馭者席で、颯太だけは動けないでいた。
「…………でっ………かぁぁぁぁぁぁっ!?」
その、「小型の熊」の想像を絶する大きさに。
一行の前20メートルほどの位置にうずくまり、唸り声を上げる黒い物体。
その形状は確かに熊だ。全身を真っ黒な毛でおおわれ、鋭い牙と鋭い爪を持っている。
だが、その背には背骨に沿って太い棘が生えている。
そしてその「熊」の体長、およそ3メートル!
「熊!?あれが熊!?魔物じゃなくて!?」
「熊だろ?どう見ても」
颯太の混乱っぷりに、馭者席のザギトも驚く。
「あれで小型なの!?」
「そうだな、小さいな。大きいのだと、あの2、3倍はある」
素早く馬を降りたアルが、熊に向かって剣を構える。
「気をつけろ。耐性持ちだ。魔法をはじくぞ!」
後足で立ち上がり、咆哮を上げる熊に、エリアルドとブルムが同時に斬りかかった。
だが、熊はその巨体からは信じられないスピードで後退し、二人の剣を躱す。
「ヨハン!」
「ぐうっ!」
熊は着地したと同時に、右に飛びながら腕を薙ぎ、ヨハンに襲い掛かる。その爪の襲撃を剣で防いだものの、衝撃までは消せずにヨハンは吹っ飛んだ。
「光よ!」
追撃しようとする熊の目を、馬車から身を乗り出したオルグの光魔法が襲う。
「目つぶしくらいにしかなりませんが、ヨハン!早く!」
「殿下…ありがとうございます!」
オルグが稼いだわずかの間に、ヨハンは素早く起き上がると剣を構え直した。
動きを止めた熊の背後から、ポジタムとザウトが斬りかかった。熊が咆哮する。
「硬えな!」
「やっぱり腹を狙わなきゃだめか!」
「ソータ!」
「うん!」
アルの合図で、御者台から飛び降りた颯太が、剝き出しになった熊の腹に突っ込む。
同時に飛び上がったアルが熊の首を落とした。
一瞬の間をおいて、熊の巨体が倒れる。
「…………あ………」
熊の腹に突き刺した竜の剣から、手を離すこともできず、熊の血を浴びて颯太はその場に座り込んだ。
「颯太!大丈夫!?」
駆け寄ろうとする依那を、オルグがそっと止める。
「?!」
「…大丈夫、ソータ殿に怪我はありませんよ。…今は、戦士に任せた方がよろしいでしょう」
「立てるか?」
訳が判らずオルグと颯太を見比べる依那の前で、アルが颯太を立たせ、竜の剣から手を外してやっている。
「おう、坊主も勇者の坊主も、とっとと体洗ってこい。血塗れじゃねえか」
「そうするよ」
ブルムに言われて、颯太を連れて森の中へ入っていくアルの背中を見送ることしかできない。
「オルグさん!なんで…」
「戦士には、戦士にしかわからないことがあるのです」
寂しそうに、オルグは目を伏せる。
「命を奪ったときの心の持って行き方は、命を奪ったことのある人でなければわかりません。…今は、アルに任せましょう」
「……命を……」
依那にはわからない、重い言葉にそれ以上何も言えなくて。
依那には、ただ二人が消えた方向を見つめることしかできなかった。