黒の呪い 2
「……おお……ナイアス……」
佇む彼を見て、ゼラールが真っ先に感じたのは安堵だった。
これで助かる―――まだ、死ぬわけにはいかないのだから、と。
だが、ナイアスは人を呼ぶでも手を貸すでもなく、ただ華やかな笑みを浮かべてそこに立っているだけ。
「……ナイ…アス……?」
漠然とした不安がゼラールを襲った。
なにか……なにか、おかしい。
何故、ナイアスは見ているだけなのだ?何故、衛兵たちは、騎士たちは誰も王の間を護っていないのだ?何故誰も駆け付けてこない?
「ナイアス?すまぬが……手を……」
「おお、これは……申し訳ありません。伯父上」
血塗れの手を伸ばすと、ナイアスは足早に進み出てその手を取る。
そしてそのまま恭しく王の前に膝を付いた。まるで、アコレードを待つ騎士のように。
「……さあ、頃合いです。伯父上。……どうぞ、譲位を」
「……ナイ……アス……?」
ここに至って、不安ははっきりとした動揺へと姿を変えた。
ナイアスは―――たったひとりの甥は、自分に王位を譲れと迫っているのだ。おそらく、ゼラール自身の命を盾にとって。
「ば…馬鹿を言うではない!シャノワの安否も不明だというのに、何故そなたに王位を譲らねばならぬ!?第一、そなたが王になるためには、貴族会議を……」
「まだそんなことをおっしゃっているのですか。伯父上」
激痛を堪え叱咤するゼラールを小馬鹿にしながら、ナイアスはゼラールの出血を止めるべく治癒魔法をかける。
「悠長に貴族会議など開いているような時間があるとお思いですか?伯父上のお命はあと僅かだというのに。……まあ、王璽をいただくまで死なれては困りますから、血は止めて差し上げますが…」
「!!?」
その言葉に、ゼラールは弾かれたように顔を上げた。
「な……なぜお前が王璽のことを……」
「もちろん、私こそが王に相応しいと、そう望まれたからですよ。特に……お祖母様にね…」
「…………母上!!」
にやり、と嗤ったナイアスに、思わずゼラールは天を仰ぐ。
母が弟を、エイダスだけを溺愛していたのは知っていたが―――ここまで愚かだったとは……。
「……さあ、いまこそその時です。伯父上。私に王璽をお与えください。そして、退位を。私をカナンの王とするために」
「馬鹿な真似は止めるのだ、ナイアス!」
どうにか出血だけは止まった腹を押さえ、ゼラールはナイアスを窘めようと試みた。
「お前は肝心なことを判っておらぬ。たとえ王璽を得たとしても、シャノワが生きている限り、お前は王にはなれぬのだぞ?!……さあ、今ならまだ不問にしてやれる。すぐに騎士団やグラウニーが駆け付けてこよう。その前に……」
「判っておられぬのは伯父上の方ですよ」
だが、ナイアスはそれを遮り、やれやれというように軽くため息をつく。
「ことが済むまで、誰も王の間には近づけぬようにしてあります。騎士も侍従も……グラウニー候であろうとね。……伯父上は転移されたからお判りではないのかもしれませんが……」
事実、王の間へと続く大扉と控えの間の間には特殊な結界が張られていた。
それを無理に越えようとすれば……たちどころに命を奪われ、愚かな骸と成り果てるだけだ。―――大扉の敷居の上に折り重なって倒れているグラウニー候や騎士たちのように。
「それに……シャノワのことも。彼女も、私が王になることを望んでいるのですよ?」
「なんだと!?」
それを聞いてゼラールはさっと青ざめた。咄嗟に血塗れの手でナイアスの胸倉を掴み、怒鳴る。
「貴様!シャノワの消息を知っているのか!?シャノワに何をしたのだ!!」
「何をした、とは人聞きの悪い」
落ち着き払ってゼラールを押しのけ、ナイアスは胸元を払った。
「私は何もしていませんよ。シャノワは、自ら命を絶ったのです。私を王とするためにね」
「嘘だ!!」
床に倒れ込みながら、ゼラールは叫ぶ。
「嘘を言うでない!ナイアス!!貴様を王とするだけならば、婚姻により王位を継げばいいだけのこと!!それなのにシャノワが自害など……そんな軽はずみな道を、カナンの姫たるあの子が選ぶはずがないではないか!!」
「婚姻による王位継承………ですか……」
深く息をつき、ナイアスは髪を掻き上げた。
「とりあえずは……それでもいいと思っていたのですよ。私も。………伯母上が、余計なことを企てさえしなければ、ね……」
「……シンシアが……何をしたと言うのだ……?」
問いかける声が震える。
静かに目を上げたナイアスの瞳に浮かぶ光に、ゼラールは我知らず後退った。
「ご存知なかったのですか?伯母上は……こともあろうに、母を……エリザベートを、排除しようとしたのですよ。私とシャノワの婚姻が成った暁には、エリザベートを王都から遠く離れた修道院に押し込め、二度と会えぬようにね!そんなこと、させるものか……いくら伯母上とて、絶対に……絶対に許せぬ!!」
ぎりぎりと唇を噛み締め、ナイアスは叫んだ。
「たとえ誰であろうと、私からエリザベートを奪おうとするものは許さん!エリザベートは私のものだ!!彼女はこれからもずっと!ずっとあの城で、幸せに暮らすのだ!!世界一のおひめさまとしてな!!」
「ナイアス……そ……そなたは……」
「……これで……判ったでしょう?婚姻という方法が取れない理由が。私が王になるには、シャノワを廃し、王璽を受けるしかないのだ。………さあ……伯父上。王璽を私に…」
「落ち着け!ナイアス!!」
どうにか立ち上がり、ゼラールはじりじりと後退る。
「自分が何を言っているか判っているのか!?エリザベート殿は、そなたの実の母!血の繋がった親子なのだぞ!?」
「それがなんだというのです?」
ゼラールの言葉を鼻で笑い、ナイアスは一歩一歩、王を追い詰めて行く。
「シャノワもそんな益体もないことを言っていましたな。私はエリザベートを愛している。そして彼女も………大事なのは、それだけです」
「……ナイ……アス……」
驚愕とともに、ゼラールは今こそ悟った。
シンシアが、自分に黙って夢幻城へ赴いた訳を。
彼女は、この二人の忌まわしい関係に気付いていた。だから、それを確かめに行ったのだ。娘のため―――そして、未だ亡き弟を偲ぶ自分のため………誰にも、何も告げずに。
「……では……ではまさか……シンシアを殺したのも……」
「……伯父上。私はね。本当は伯母上を死なせたくはなかった……あなたとシャノワを葬ったあとも、伯母上には皇太后として平穏に暮らしていただくつもりでしたよ。それなのに……伯母上は、知り過ぎてしまった。夢幻城の秘密を、知ってはならないことを知ってしまった。そのうえ……エリザベートの邪魔をした……。あれは、不幸な事故だったのです。エリザベートとて、伯母上を手にかけるつもりはなかったのですから……」
「なん……と………では……では、エリザベート殿……が………シンシア…を……」
震えながら階を上がり、ゼラールは玉座に縋るように座り込んだ。
「…いったい……なにが……あの城に、何があるというのだ!シンシアを殺さねばならぬほどの、どんな秘密があるというのだ!!」
「……それは、伯父上が知る必要のないことですな」
かつん、と階の一番下の段に足をかけ、ナイアスが微笑んだ時。
「ああ、それはあんまりじゃないかなぁ。王様だって、肝心なところを知らないままじゃ、死んでも死にきれないんじゃない?」
そんな、優しい声がして。
「………やあ。久しぶりだね。カナン王」
いつの間にかナイアスの向こう、王の間の扉の前に佇んでいた黒髪の青年がにっこりと微笑んだ。




