宴のあと
後日、最終的な犠牲者の数は5万8千を上回った。
ゼラールの手配した医師や術者の懸命の処置も及ばず、手の施しようのない者が多すぎたせいだ。
しかし、それも無理のない話だった。
調査の結果、毒はジヴァールの酒と果実水に仕込まれていたことが判ったのだ。
失った祖国の味に、誰もが思わず手を伸ばすと計算したうえでの所業なのは疑いようもなく、その悪辣さに誰もが怒りを滲ませていた。
とはいえ、生き残った千人あまりは、医師たちの手厚い看護とスフィカとエルフが提供した世界樹の露により、東の離宮に設えられた療養所で少しずつ落ち着きを取り戻しつつあった。
「……グレン殿は、少し落ち着かれたようだな……」
ゼメキス王の名代としてカナン王城にグレンを見舞ったアルは、控えの間でほっと息をついた。
生死の境を彷徨うアルハルテと特に症状の酷い数人、そしてグレンは離宮ではなくこの王城で療養している。
「はっ、おかげさまで熱も下がり、少しずつ水も口にできるようになってございます」
アルの呟きに、警護のため一滴の酒も口にせず、奇禍を逃れたシオンが、深く頭を垂れた。
「ゼメキス陛下と皆さまには多大なご支援をいただき……感謝の言葉もございません」
「ああ、やめてくれ、シオン殿。当然のことをしたまでだ。俺にまで畏まる必要はない」
苦笑して手を振り、アルはそっとこの忠実な護衛隊長を労わる。
「グレン殿が軽症で済んだのは、貴殿の処置が適切だったおかげだと聞いている。主を救ったのは、紛れもなく貴殿だ」
「……ありがたき、お言葉。したが、我が君が軽症だったのは、あの酒をほんの一口しか召されなかったおかげなのです」
アルの労いにぐ、と胸を詰まらせながらも、シオンは緩く首を振った。
「皇妃様は久々のジヴァールの味に酔いしれておいででしたが、我が君はあのにごり酒というものを好まれませぬ。あの毒を仕込んだのが誰であれ、そ奴はそれを知らなかったのでしょう」
「なるほど……。アルハルテ殿の症状が重いのはそのせいですか……」
ちょうどその時、グレンの診察を終えたステファーノが控えの間に顔を出した。
「傍観者殿!我が君は……」
「今ベクスウェル伯が診察をしています。念のため、エリスの花の丸薬をお渡ししてきましたが……やはり、伯の診立てどおり、カスクが効くようですね」
はっと顔を上げ近寄るシオンを安心させるように微笑み、ステファーノはアルに向き直る。
「……つまり、23年前、ゼラール王に使われたのと同じ……そして、シャノワさんの薬酒に入れられたものと同じ毒……ニーヴヴが使われたということです」
「っ!!」
穏やかとすら言えるステファーノの見立てに、アルとシオンは息を飲んだ。
「ニーヴヴ……だと!?では…シャノワ殿の時と同じように対処できるのか?ライムとか、エリスの根の毒消しとかで!?」
「それは、ごくごく少量の場合のみです。残念ながら、致死量に近い量を摂取した場合、効く薬はカスクのみでしょう」
「そんな!!」
ステファーノの言葉に、シオンは真っ青になって叫んだ。
「ジヴァールはもうないのだぞ!?では、我が君は……薬は手に入らないのか!!?」
カスクは、ジヴァールにのみ自生するカスクトを原料とした古い毒消しだ。そのジヴァールが大地ごと滅んだ今、カスクを入手するのは絶望的と思えた。
「安心してください、シオン殿」
いつもの冷静さが嘘のように動揺するシオンを宥めるように、ステファーノが彼の肩に手を置く。
「23年前の毒殺騒ぎ以来、シンシア様の命で、カナン王城にはカスクの備蓄があるそうです。ベクスウェル伯の話では、今回の患者を治療するに足るくらいの量は確保できるとのことですよ」
「…………あ………」
それを聞いて、思わずシオンはがくりと膝を付いた。
「……で………では………我が君は………あのかたは……」
「大丈夫、助かります。グレン陛下も、アルハルテ様も、他の皆さんも」
「……たす……か……る………」
ステファーノの言葉を噛み締めるように、俯いて震えるシオンに手を貸して立ち上がらせ、アルは彼をソファへ座らせた。
祖国を、家族を失ったこの忠臣にとって、仕える主だけが世界のすべてなのだ。それを思えばこの取り乱しようも、無理はないだろう。
そのグレンが助かると知って、アルですらほっと息をつく思いだった。
「……さて、シオン殿。あの酒を持ち込んだ奴は判っているのか?」
座らせたシオンに暖かい茶を渡し、落ち着いたところを見計らってアルは声をかけた。
「……は。無様なところをお見せして、申し訳ありませぬ」
ごくり、とお茶を飲み干し、深々と頭を下げたシオンは、気を通り直したように口を開いた。
「あの酒を持ち込んだのは、ヴォードという若い貴族です。祖母がジヴァールの民とのことで、皇妃様に取り入り、かなり気に入られておりました。……父親が典医で…ジヴァールの血を引くということで冷遇されたとか……」
「ヴォード……たしか、ベクスウェル伯の前任の筆頭侍医ですね。その方は、ゼラール王毒殺未遂の折、毒を盛られていることに気付けなかったばかりか、その責をシャノワ殿と舞踊団に擦り付けようとしたのが発覚して職を解かれたと聞いていますが……」
「なんと!それはまことにございますか!?」
ステファーノの言葉に、シオンはぎょっと身を乗り出す。
「では、あ奴は皇妃様に取り入るために虚言を!?」
「それは判りません。かなり昔の話ですしね。都合のいいように曲解された話を信じ込んでいるだけかもしれない」
「それよりも、そいつは今どうしてるんだ?」
「あ奴も乾杯の酒を飲み干しましたゆえ……毒に中り、一時は命も危うかったと聞いております。今は離宮の療養所で手当てを受けているかと」
「……そうか……命は取り留めたんだな……」
毒酒を持ち込んだその男が犯人だとしても―――本人がその毒を喰らうとは思えない。それに真っ先に疑われると判っていて、堂々と毒を持ち込むだろうか……。
「……どっちにしろ、一度はそいつから話を聞かないとな……」
そう呟き、アルはそっとため息をついた。
アルたちがグレンを見舞っていたのと同じ頃。
王城の廊下を目立たぬように歩く、一人の男の姿があった。
ヴォード卿である。
医療従事者が着るような白の長衣を羽織り、タオルを抱えて歩く彼は傍目には収容された患者の許へ急ぐ従者にしか見えず、忙しく立ち働く人々の注意を引くことはない。
アルハルテが臥せっている病室の傍まで来て、ヴォードは用心深くあたりを見回した。
その頭の中に、つい先ほど―――あの方と魔法具でやり取りした会話が過る。
―――しくじったようだな、ヴォード卿?
優しい、穏やかな冷たい声であの方は言った。
―――平民どもは皆殺しにせよ、と命じたはずだが。
声を荒げるでもなく、普段と変わらない口調でそう言ったあの方に、言い訳などできようはずもなく。
彼にできるのは、なるべく事細かに状況を説明し、指示を仰ぐことだけだった。
そもそも、計画では平民はすべて死に絶えるはずだった。下戸や、女子供も皆殺しにするために酒だけではなく果実水までを用意したのだから。
それなのに、あの邪魔な―――皇帝の傍を片時も離れようとしない護衛隊長が横やりを入れたせいで、飲み物が全員に行きわたらぬうちに乾杯が始まってしまった。
おまけに、あの忌々しいの皇妃が自分を傍に呼びつけて離そうとしなかったせいで、侍女たちやグレンに飲み物を勧めることができなかった。
本来ならば、グレンも侍女たちもあの毒酒で死に、アルハルテとシオンだけを生かし、復讐心を煽り立てる予定だったのに……。
「………いや……まだだ。まだ、やりようはある……」
ぶるり、と頭を振り、ヴォードはそっと手の中に忍ばせたものに目を落とした。
それは、万が一標的が生き残った時のために、と渡された、予備の薬。ニーヴヴの粉末。
恐ろし気にそれを見やり、ヴォードは隠し持ったもう一つの薬……カスクの丸薬を飲み込む。
しっかりと薬を嚥下したのを確認し、ため息をつくと、ヴォードはアルハルテの病室へと足を向けた。
悪巧みの幕を引くために。




