取引
「わ……わたくしの……願い……とは…?」
「………オルグレイ・トーレ・エンデミア」
両手を握り締め震えるシャノワの瞳を見つめたまま、ナイアスはゆっくりとそう告げる。
「……奴を救うこと。それがお前の望みだろう?そのために、なにもかも擲って、お前はこんなところまで来たのだろう?家族も、友も……国すら捨てて」
「そ………れは……っ…」
一瞬言葉に詰まり、それでもシャノワは声を上げた。
「確かに…わたくしは、あの方をお救いするためにここへ参りました。でもそれは、コンラート様にお縋りするため!兄様に……人の子である兄様に、どうしてそれができるというのです!?」
「……できるさ。魔王と盟約を結んだ、私なら…な」
ナイアスは、そう言って凄みのある笑みを浮かべた。
「私はカナンの王になる。そして、魔王の用意した傀儡の身体に乗り移り、アルフォンゾとしてエリザベートとともに生きる。……だが、その時、私のこの身体は?脱ぎ捨てた私の身体はどうなる?」
つう、と自分の喉元から心臓の上までを撫で、ナイアスはその笑みを浮かべたままシャノワに顔を近づけ、囁く。
「最初は、そのまま打ち捨てるつもりだったよ。……最初はね。……だが……この身体を、新たな器とすることができるとしたら……どうだ?従兄妹殿。お前の愛しいオルグ様の身体の代わりに、私の抜け殻を魔王の器とするのだ。そうすれば、オルグ様は解放される………どうだね?シャノワ。それこそが、お前の望み……だろう?」
「!!!」
目を見開くシャノワににい、と笑い、ナイアスはコンラートに目を向ける。
「どうだ?魔王よ。カナン王の肉体だ。王国だけではなく、王自身もくれてやろうと言うのだ。よもや、できぬとは言うまいな?」
「……ふぅん……?」
挑戦的なナイアスの視線を受けて、コンラートは僅かに首を傾げた。
「このおれに注文をつけようとは………まあ、いいだろう。無謀なのは嫌いじゃない。その度胸に免じて、約束してやろう。きみが盟約通りにカナンの最後の王となった暁には、公爵、きみの身体を乗っ取り、この黒髪のぼうやを開放してあげる、と」
喉を鳴らす猫のように、満足げなため息をついて。
コンラートは金と青の瞳を細めて嗤った。
「……兄…様……コンラート……さま……」
目の前で………魔王と従兄弟の間で取り交わされる盟約に、シャノワは気を失いそうだった。
信じられぬことの連続で、頭がついて行かない。
理性と感情の波に翻弄され、なにも考えられない。判らない。
それでも必死で考えをまとめ上げ、シャノワは震える声を絞り出した。
「……コン……ラート……さま……そ…それでは……それでは、あなたは………本当に、オルグ様を返してくださるのですか?兄様がカナン王となれば……本当に……オルグ様を……?」
「ああ。本当だよ、姫君。おれは、約定に関しては嘘をつかない。公爵がカナン最後の王となったそのときは、この身体を返してあげよう。もちろん、生きたままで、ね」
いつしか座り込んでしまったまま、必死で自分を見上げるシャノワに、コンラートは優しく微笑んで見せる。
「もっとも、無傷で……とはいかない。やればできないこともないんだけど……おれが五体満足な身体を捨てて次の身体に乗り移れないのは知られているからね。多少傷を負ってもらうことにはなるだろうね。まあ、あの聖女なら跡形もなく治せるだろうけど」
「……傷……を……」
がたがたと震えながら、シャノワは両手を握り締める。
確かに、依那がいれば、たとえ四肢が欠損していようと問題ないだろう。なにより……オルグが生きて戻る。生きて―――もう一度、光の中へ……あるべき場所へ帰れる。幸せに…なってくれる。
「で……ですが!」
逸る気持ちを押さえ、シャノワはもう一度ナイアスの顔を見上げた。
どうしても……最期に、これだけは確かめておかなければならなかったから。
「兄様は……兄様は本当にそれでいいのですか?確かに……アルフォンゾ様のお姿でなら、エリザベート様は兄様を愛してくださるでしょう。でも、それは幻影を愛するようなもの。兄様ご自身を愛していらっしゃるわけではないのですよ?」
「構わぬ」
縋るように自分を見つめるシャノワの眼差しを見返すことなく、ナイアスはきっぱりとそう断言した。
「たとえ『ナイアス』として愛されずとも、私がアルフォンゾとしてある限り、彼女は私のもの。それで十分だ!」
「そんな!兄様を兄様として愛する姫君はたくさんいらっしゃいますのに?一度そのお身体を捨てたら、二度と元には戻れないのですよ!?」
「くどい!!」
かっとして、ナイアスはシャノワを怒鳴りつける。
「他の女がなんだというのだ!私はエリザベートを愛しているのだ!エリザベートでなければ……彼女でなければ、何の意味もない!私はもう決めたのだ!これ以上の口出しは許さぬ!!」
「……っ……」
彼女でなければ……なんの…意味、も………
―――ああ……そうだ。たしかに……そのかたでなければ、何の意味もない。他の誰かでは駄目なのだ。わたくしも……きっと、コンラート様も。
小さなため息とともに、シャノワはナイアスを諦めた。
「………オルグ様は……今、この場のことを……?」
「ああ。見ているよ。おれの中でね」
シャノワの問いに、コンラートはやれやれ、というように肩をすくめる。
「……さっきから、きみを止めようと大暴れだ」
「そう……ですか」
その姿が目に浮かぶようで、シャノワはそっと微笑んだ。
あのかたはお優しいから。
こんな馬鹿な娘の自己満足でも、きっと気に病んでしまわれる……。
「では……この場の記憶を消していただくことはできまして?わたくしのことは……カナンの罪の重さに耐えかねて自害したとでも」
「へえ?」
シャノワの申し出に、コンラートは意外そうに片眉を上げた。
「いいのかい?このままなら、王子さまは生涯きみのことを忘れないでいてくれるかもしれないよ?」
「それが…嫌なのです。これは、わたくしの独善。わたくしが勝手にしでかすことですもの。あのかたには何の責任もない………憂いには…なりたくないのです」
「シャノワ殿!!!」
精神世界の寝室で、オルグは必死で叫んだ。
「止めてください!シャノワ殿!!あなたが命を捨てる必要なんてないんだ!!」
無我夢中で暴れ、なんとか拘束を振り切ろうと足掻く。柔らかい拘束布で縛られた足首が擦れ、血が滲んでいることにも気づかない。
「シャノワ殿!!やめさせてくれ!コンラート!!シャノワ殿は大事な観客だと言ったじゃないか!!」
『……それはそれは……健気だねえ。カナンの姫君』
『いいえ……ただ愚かなだけですわ。わたくしにできることは、もうこのくらいですもの』
それなのに、見せられた画像の中で、彼女は穏やかに微笑んで世界樹の剣に手を伸ばした。
「……ねえ……取引をしましょうか?」
エンデミオンの中庭では、勝ち誇ったアストリッドが婀娜めいた仕草で一同を見渡していた。
「取引……ですって?」
「そうよ、取引。今日のところは、わたくしを見逃しなさい。そうすれば……あのみっともない怪力姫は、もう少し生かしておいてあげる……。……どう?悪い話じゃないでしょう?」
「……っざっけんな!あんたの言うことなんか、信じられるか!」
「まあ!恐ろしいこと!」
怒りに拳を握り締め、自分を睨む依那に、アストリッドはわざとらしく怖がってみせる。
「……でも、いいの?わたくしを信じられないのはしかたないけれど……あの穀潰しの姫は……お友達なんでしょう?あの子がどうなっても……いいというのかしら……?」
実際のところ、アストリッド―――アデルナーダは魔王に連れ去られたシャノワがどんな扱いを受けているか、どんな状況にいるか知らない。
だが、シャノワを見下しきっているアストリッドは、誇張も含めてさもシャノワの生殺与奪権を握っているかのように振る舞った。
「忘れないでね?あの子の命は、わたくしの手の中なの。その気になれば、一瞬であの子の息の根を止めることも…わたくしには容易いのよ?」
「…エ……エナ……」
依那と同じくらい怒りながら、それでもフェリシアはアストリッドの言葉に動揺を見せる。
―――そうよ……怯えなさい。迷いなさい。どんなに強がったって、お前たちにあの姫を見捨てることなんかできないんだから。
そうしてこの場を切り抜けることさえできれば。
いったんは魔王様の許へ身を寄せ、それから黒の聖団の生き残りか配下の魔人たちに、エルフの依り代を用意させればいい。なに、エンデミオン国内に定住するノルド族のエルフもいるのだ、贅沢を言わなければ、やりようはいくらでも………
躊躇する人間たちの顔を見つめ、アストリッドはほくそ笑んだ。




