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魔の手 2


 それは、ひどく甘い香りだった。

 甘い―――くどいほどに甘い、胸の悪くなるような、腐ったような香り。

 マルクスは、その香りに覚えがあった。それは、()()()()()の傍でいつも匂った香り。幾度となく体調を崩し、傍に寄るだけで嘔吐を催した、あの香り。


 「!!!」


 咄嗟にマルクスは侍女の案内でテラスに向けて歩き出したエルトリンデの手を掴み、引き戻すとともに剣の柄に手をかけた。

 「!?」

 「騎士様!?」

 驚くエルトリンデを背に庇い、振り返った侍女に剣を突き付ける。

 「……女!!名はなんという!所属は?誰の命でエルトリンデ殿を迎えに来た!」

 「マルクス!?」

 突然響き渡ったマルクスの怒声に、中庭に残っていた騎士たちも一斉にこちらを振り向いた。

 「き…騎士様……?」

 一瞬棒立ちになり、ミレーヌは自分の不利を悟ると同時に怯えた侍女の様子を取り繕った。

 「な……なにをなさいます…い…いきなり……」

 「おい!マルクス!」

 そこへ、カノッサが慌てて駆け寄ってくる。

 「どうしたんだよ!何があった!?」

 「……団長を呼んで来てくれ!早く!」

 「だ……団長を!?」

 震える侍女と殺気立ったマルクスを見比べ、状況が判らないながらもただ事ではなさそうなその姿に、騎士が二人、城内へ走る。

 「答えろ!女!」

 「ひっ!」

 「マルクス!」

 なおも怒鳴るマルクスに、カノッサも取り敢えず落ち着け、と声をかけた。見れば、詰め寄られた侍女は青くなり、恐怖で声も出せない様子だ。

 「いきなり剣を突き付けられちゃ、この姉ちゃんだって……」

 「()()()()だ!」

 だが、落ち着かせようとするカノッサを遮り、マルクスはなおも油断なくミレーヌに剣を突き付けた。

 「に…匂い?」

 「ああ!この女の香水は、あの()()()()()()()()()()()()()だ!胸の悪くなる、腐ったような甘い匂い!奴ら以外からは嗅いだことのない匂いだ!」

 「それって……」

 はっとして、カノッサもまじまじと侍女の顔を見つめた。金髪で―――これといった特徴のない、平凡な顔立ち。だが、確かに()()()()()()()()だ。

 「わ……わたし……まだ新米で……お城に上がってから日も浅くて……」


 ―――匂い!?まさか……()()()()()()()()()のに!?


 信じられない思いで、それでもミレーヌは涙を浮かべ、哀れな子羊を演じる。

 確かに、潜入のためミレーヌは香水をつけていなかった。

 だが、長い長い間アデルナーダのために香を焚き、香水を吹きかけていたミレーヌの……いや、ペルピナスたちにはその甘い香りが染みついていたのだ。


 「まあいい、団長が来れば判る話だ!奴らの目眩ましは団長には効かないからな!」

 マルクスの口ぶりに、たらりと嫌な汗が額を伝う。


 『そのまま、そいつらの気を引きなさい!ミレーヌ!』

 『姉様!?』


 必死で切り抜ける術を探すミレーヌに、アデルナーダの念話が届いた。


 『そのまま……その隙にわたくしはその女(エルトリンデ)を捕らえるわ!』


 テラスの隅に佇んで獲物の到来を待っていたアストリッドは、ゆっくりと行動を開始した。

 隠形をかけたまま堂々と中庭を横切り、マルクスの背に庇われて固唾を吞むエルトリンデに近付く。


 ―――卑しいノルドの女の分際で……


 淡く緑がかかった金髪、海色の瞳、真っ白い肌。桜色の唇も、長い睫毛も、目の当たりにするエルトリンデは映像で見た姿よりも美しく、アストリッドはぎり、と唇を噛んだ。

 世界で最も高貴なエルフの、しかもクルト族の姫である自分がこのような不細工な姿に身を窶しているというのに、蛮族であるノルドの女がこんなに美しいなんて許せない、とアストリッドはエルトリンデを睨みつける。

 だが……まあいい。

 この美しい身体は、今から自分のものになるのだから。

 この身体を乗っ取り次第、無様な抜け殻はペルピナスに喰わせてしまえばいい。聖女の結界内で起こることだもの、あの忌々しい聖女とアルタだって、この入れ替わりにすぐには気づくまい。よしんばアデルナーダの痕跡に気付いたとしても、それを追う前にコンラート様が世界を終わらせるだろう……。


 にい、と勝ち誇った笑みを浮かべ、アデルナーダはエルトリンデに忍び寄った。

 




 「救う手立て……と言われてもね。もし彼女が呪いを受けたと信じている可能性があるのなら、呪い返せばいいじゃないか?お得意だろう?」

 「だが、『祈りの方陣』は伯母上によって破壊されてしまったのだぞ!?おまけに、愛用していた呪具までも!!おかげで、あんなことに……」


 ―――伯母上?お母さまのこと?お母さまがなにか……?


 魔王の居室のすぐ外で、シャノワはぎょっとして扉に縋りついた。

 「呪具って……あの舞姫の頭蓋骨のことかい?()()()()()()殿()()()()()()の……?」

 「そうだ。エリザベートはあの髑髏を、()()()()()()から奪ったとっておきの呪具だと…()()()()()()()()のになくてはならないものだと、たいそうお気に入りだったからな…」


 ―――呪具?頭蓋骨?踊り子の魔女?わたくしと同じ名前って……まさか……それは…


 シャノワの脳裏に、大神殿で母から聞かされた昔話が蘇る。

 母と……そして父が心から愛した、稀代の舞姫。シャノワが名をいただいたひと。そして、ロザリンドのお母さま。

 ロザリンドが幼いころ、何者かに暗殺されたという彼女の頭蓋骨を、エリザベートが持っていた……ということは……


 ―――まさか……兄様が………メギド公爵家が…シャノワ様の暗殺を……?


 息が詰まる。耳の奥でがんがん脈打つ音がして、目が眩む。

 それだけではない。舞姫暗殺は、当時王太子だった父、ゼラール暗殺未遂の罪を着せるためだったという。だとしたら、父の暗殺未遂にも公爵家が―――()()()()()()()()()()()()()()の?

 父の毒殺を目論んだのは先々代のメギド公爵、宰相のダイムラー公ではなかったの?


 震えの止まらない身体を抱きしめて立ち尽くすシャノワの耳に、そのとき、それが聞こえた。

 「………まったく……カナンの王妃ともあろうお方が、あんな卑しい踊り子に心酔するなど……せめて、あの髑髏を奪おうとしなければ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()こともなかっただろうに……」


 ―――伯 母 上 ヲ 手 ニ カ ケ ル コ ト モ ナ カ ッ タ ダ ロ ウ ニ


 やれやれ、と言いたげな―――呆れを含んだその声が耳に届いた瞬間、シャノワは思わず倒れこむようにして目の前の扉を押し開けていた。

 ばん!と大きな音がして、ナイアスが入ってきた扉の正面にある、ユリの花の扉が開く。

 音に釣られるようにしてそちらを見たナイアスは、信じられぬ光景に思わず立ち上がった。


 「シ……シャノ……ワ……?」


 真っ青な顔で。

 痩せた体を震わせブルーグレイの瞳を見開いて、魔王に連れ去られ、死んだと思われていた従姉妹がそこに佇んでいた。


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