エルトリンデの出立
「に……兄様?ナイアス兄様がどうして……?」
驚きつつも、シャノワは扉に身を寄せ、室内の様子を窺う。無作法だとか、はしたないとか、そんな考えは頭から吹っ飛んでいた。
―――まさか……兄様もコンラート様に?…いいえ、そんな、まさか!!
ナイアスが魔王と通じているなどとは夢にも思わない善良なシャノワは、心配と不安でいっぱいになりながら、必死で聞き耳を立てた。
同じころ、エンデミオン王宮の中庭では、エルフの帰郷準備が進められていた。
「お母さま、どうしてもお帰りになるの?」
中庭の中央に準備されたエルフの馬車の傍で、フェリシアが不安そうに声を上げる。
「エナたちが死者の島から戻ってからでも………」
「でも、不安がっているセレーネ様を放ってはおけないでしょう?」
エルトリンデは微笑んで、そっと娘の髪を撫でた。
出生率が著しく低いエルフにしては珍しく、つい先日、セレーネの懐妊が判明したのだ。
クルトの森はお祭り騒ぎになったが、当のセレーネは不安が大きく、今や実の姉妹のように仲良くなったエルトリンデを出産経験のある先輩として頼りにしているらしい。
「王族の出産なんて、240年ぶりですもの。初めてのことですし、セレーネ様が不安になるのも無理ないわ」
「それは……そうだけど……」
まだ不満そうに唇を尖らせるフェリシアに、エルトリンデはこつりと額を寄せた。
「お母さまなら大丈夫。万が一に備えてシェスロ殿がパレ・ト・レドまで同行してくださるし、シルヴィアも一緒なのだし。……それよりも、わたくしはあなたの方が心配だわ。だって……問題のあの方が明日、いらっしゃるのでしょう?」
「………ええ……」
不安の滲むその声に、フェリシアも躊躇いがちに頷いた。
それは、今朝がたのこと。
まるで颯太たちが死者の島探索へ出かけるのを見計らったかのようなタイミングで、北の離宮から連絡が入ったのだ。
長らく北の離宮で静養していたアストリッドが、近くカナンにあるトートベリルの領事館へ身を寄せることになった―――と。
この国を出て縁の深いカナンに行ってくれるのは願ってもないことだが、その前にゼメキス王にご挨拶を、と言われれば無碍にするのも難しい。
アストリッドがアデルナーダではないかという疑惑は大きいものの、確たる証拠が何もないからだ。
とにかく、エルトリンデの出立と日にちをずらし、どうにか調整を付けたのだが……。
「……フェリシア、やっぱり一緒に一度クルトに……」
「いいえ、大丈夫よ!お母さま!あの女が来たら、王宮の奥に閉じこもって絶対に顔を合わせないようにするから!それに、明日にはソータたちも帰ってくるんだし」
心配をかけまいと、フェリシアはことさら明るく笑ってみせた。
アストリッドの訪問に対する恐怖がないと言えば嘘になる。
だが、フェリシアはここに―――情報が真っ先に入る場所にいたかった。
つい先日、失ってしまった大事な友人。夢幻城へ向かうシンシアを止められなかった自責の楔は、今もフェリシアの心に突き刺さっている。そのシンシアのためにも―――シャノワのためにも、今はここを離れられない。離れたくない。
「………そうね。旦那様もいらっしゃることだし……王宮から出なければ、きっと大丈夫ね」
強がる愛娘をじっと見つめ、エルトリンデは優しく微笑んで見せた。
「でも、約束してちょうだい。フェリシア。絶対に無茶はしないで。あなたに何かあったら、お母さまは胸が張り裂けてしまうわ」
「もちろんよ!お母さまこそ気を付けてね?」
手を取り合い、母娘はお互いの無事を祈りあう。
「お母さまをお願いね、シルヴィア!……それにあんたもよ、シェスロ!お母さまが美人だからって見惚れてヘマしたら承知しないわよ!」
「う~わ~……なんか、ボクの扱いひどくね?」
やがて傍らで見守っていた同行者に向き直り、ずびし!と指を突き付けて言い放つフェリシアに、一瞬目をまんまるにしたシェスロが苦笑した。
「あったりまえでしょ!みんなの前でパンツいっちょにされた恨み、忘れてないわよ!」
「ちょっ…やめてやめて、お母さんの前で!!」
それ、やったのボクじゃないよね!?と慌てるシェスロと、ぎょっとするエルトリンデと、ふんぞり返るフェリシアと。
「……まあまあ、姫さ……」
大神殿での禍根がないからこそできる軽口の応酬に、笑いながらシルヴィアが取りなそうとした、そのとき。
不意に大きな爆発音と、地響きのような振動が大地を揺るがせた。
「!!?」
「な…なに!?」
「総員、警戒態勢!5人、一緒に来い!!」
「フェリシア!エリアルドを呼んで来てくれ!エルトリンデ殿は馬車の中に!」
「わかったわ!!」
中庭にいた全員がはっと城壁の方を振り返り、警備にあたっていた騎士団の一部とシェスロが音の方へ走っていく。
「エルトリンデ様はここにいてください!何事かあればすぐに出立できるよう、天馬を曳いてまいります!!」
「え……ええ」
エルトリンデを半ば馬車に押し込むようにして、シルヴィアは扉を閉めた。
魔法具でもあるエルフの馬車は、天を翔けるだけではなく守護の結界で護られてもいる。その安全地帯にエルトリンデが入ったことを確認し、シルヴィアは全速力で厩へ向かった。
「……いったい……なにが……」
残されたエルトリンデは、不安そうに身を竦ませる。
音がしたのは、今アルス神殿の再建が始められている、中央広場の方だった。
―――まさか、なにかの事故が…?いいえ、でも再建はドワーフが主体のはず……優れた技師であるドワーフが建築現場で事故など起こすわけが……
窓越しに覗けば、城壁の向こうから黒い煙が立ち上っているのが見える。
不安に駆られ、もっとよく見ようと窓に手をかけるのと同時に、不意に反対側の窓を軽く叩かれ、エルトリンデは危うく悲鳴を上げそうになった。
「……は……はい?」
おそるおそる叩かれた方の窓を開けば、そこに立っていたのは見たことのないひとりの侍女だった。
「エルトリンデ様ですね」
丁寧にお辞儀をし、侍女は確認するようにそう訊ねる。
「ええ……」
「どうやら資材置き場で爆発があったようなのです。ここは危険ですから、一旦城内にお入りください、とのことですわ」
「まあ!爆発が!?」
その言葉に驚いてエルトリンデは窓から身を乗り出すようにしてあたりを見回した。
小さい爆発音がまた聞こえ、人々の叫ぶ声が少し遠くに聞こえる。
侍女の向こうに数人、警護の騎士がいるのも見えて、エルトリンデは少し警戒を解いて馬車の扉に手をかけた。
「さ、お急ぎください。エルトリンデ様」
馬車の扉を開けようとするエルトリンデにそう言って。
金髪の侍女―――ミレーヌは口許を綻ばせた。




