訪問者
「ナイアス!?」
精神世界で映像を見ていたオルグは、予期せぬ来訪者の姿に思わず声を上げた。
「ナイアス!なぜあなたがここにいるのです!危険ですよ!その男は魔王です!!」
そう警告するものの、オルグの声は向こうには聞こえないようで、ナイアスは優雅に騎士の礼を取る。
「……ナイアス……?」
声が届かない苛立ちと違和感に、オルグは眉を顰めた。
オルグが魔王の器として選ばれ、拉致されたことは今や世界中に知れ渡っているはずだ。
特に、カナンの王族であるナイアスがそれを知らぬはずはない。
なのに―――何故、ナイアスはオルグの姿をした魔王を前に、あのように落ち着いていられる……?まるで……魔王の居所を知っていたかのように、平然としていられる……?
「……まさ……か………」
ごくり、と固唾を飲み、オルグは白い部屋を映し続ける球体を見つめ続ける……。
「………さて。いろいろと忙しいきみがここへ来るとは……なにかよほどの事態が起こったのかな?ナイアス」
魔王の居室にて、ゆったりとカウチに腰を下ろしたコンラートが、指を鳴らした。すると、彼の左手にカウチと同じ意匠の白い一人掛けソファが出現する。
一瞬目を瞠ったナイアスが、目線で勧められるままそのソファに腰を下ろすのを見やって、コンラートはコーヒーテーブルの上に載っていた、小さなベルを鳴らした。
「お呼びでしょうか、魔王様」
待つほどのこともなくナイアスが入ってきたのとは反対にある観音開きの扉が開き、茶色の髪の魔人が姿を現す。
「ああ、お客人だ。お茶を頼むよジュリア」
「……は、はい。魔王様…」
ジュリアはナイアスを見てはっと息を飲んだが、何を言うでもなく、むしろ顔を背けて逃げるように出ていく。
それをうっすらと笑んで見送り、コンラートはじっと大聖女像を見上げるナイアスを興味深そうに観察した。
「………あれは……本物か?」
「……大聖女像のことかい?もちろんだよ。………美しいだろう?彼女自身も………胸の宝玉も」
コンラートの言葉に、ナイアスは眉を顰める。
純白の大聖女像の胸に輝く、『聖女の涙』―――それはもはや、夜明けの青というよりは、限りなく黒に近い濃紺と言えるような色だった。
「この石が…」
ちょうど言いかけたときにジュリアがお茶を運んできて、ナイアスは口を噤む。ジュリアがテーブルにお茶を並べても、ナイアスは彼女の方を見ようともしなかった。
「………まあ、お飲み。せっかくのお茶が冷めてしまう。彼女はお茶を淹れるのが上手いんだ」
ジュリアの退室を待って言葉を続けようとするナイアスを制し、コンラートは先にお茶に口をつける。憮然とした表情で、それでもおとなしくカップを口に運ぶナイアスを見て、コンラートはそっとほくそ笑んだ。
この、尊大で愚かなカナンの公爵がここへ来た理由など、一つしかない。
あの狂い咲きのおひめさま―――エリザベートに関することだ。
美しい―――そして、カナンの業を煮詰めたような、毒虫よりも悍ましい女。
血の色の闇に染まりながら、自分は純白だと嘯いている女。
コンラートとしては、エリザベート個人には道端の石ころほどの関心も抱いていなかったし、どうなろうと一向に構わない。
ただ、この狂った女のために公爵たちがどれほどのことをしでかすのかという興味と、ありったけの恨みや妬み、憎しみ、呪いを『聖女の涙』に供給してくれる存在としての利用価値を認めていただけだ。
そう、ナイアスを通じてエリザベートに下賜した『祈りの方陣』はいい仕事をしてくれた。
彼女の人並外れた黒い感情―――それを吸い出し、『聖女の涙』へ送ってくれたのだ。おかげで『聖女の涙』は随分と闇色を増し、あとわずか……ほんのわずかでその時を迎える………。
すうっと青と金の瞳を細め、コンラートはナイアスの横顔を見つめた。
一方、囚われのシャノワは。
ここが夢幻城の一角であることも、ましてや目と鼻の先にナイアスがいることも知らぬまま、窓から変わりゆく景色を見つめていた。
その手には、ジュリアが用意してくれた、青いリボンのかかった鋼の棒がある。
真っ直ぐだったその棒は、今やぐにゃりと曲がっていた。
「………まだ……本調子ではありませんが……ファボアの力が戻ってまいりましたわ……オルグ様……」
ぎゅっと棒を握り締め、呟く。姫として―――というより、女の子として、怪力を誇るのはどうかと思わなくもないが―――今の自分の取り柄はこの怪力だけなのだから、しかたがない。
カナンの罪に押し潰され、泣いて命を削るのはもうおしまい、とシャノワは決めていた。
叱ってくれたジュリアのため、世界のために戦うソータやエナのため、そしてなによりオルグのために、自分にできることをするのだと。
そう、自分はオルグを救うためにここへ来たのだ。だったら、泣いている暇など、どこにもない。
「……まずは、コンラート様にお目通りを願わなければ………」
鏡の前で身だしなみを確認し、深呼吸をひとつ。
よし、と気合を入れてシャノワは左側の扉へ向かった。
この扉が魔人でなければ通れないのは知っている。人間であるシャノワが開けば、そこには白い壁が立ち塞がるだけだ。
「……壁を破壊できるだけの力が戻っていればいいのですけど……」
再度鋼の棒を握り直し、恐る恐る扉を開けたシャノワは、目を見開いた。
「壁が……!」
そこには、行く手を遮る壁はなかった。
以前、ジュリアが閉め忘れた扉から脱出した時のように、目の前には短い廊下が伸びていた。
「……え?え?どうして……?」
廊下へ一歩踏み出し、扉と廊下を見比べてシャノワは混乱する。
なぜあの壁がないのかは判らないが―――これは、絶好の機会かもしれない。
………コンラートに会えるかもしれない。
意を決して、シャノワはそっと廊下を進み始めた。
誰かに見咎められないように用心して角を曲がり、突き当りの、ユリのような花の文様が刻まれた白い観音開きの扉に行きつく。
「…………?」
そっと押し開けようとした瞬間、中から漏れ聞こえた声に、シャノワははっと息を飲んだ。
「……なるほど。ではあのおひめさまは、その頬の傷の幻覚に苛まれ、このままだと正気を失いそうだと?そういうわけかい?」
「……ああ……」
ほんのわずかな隙間から、コンラートと誰か……低い男の声がする。
―――まあ!来客中かしら……お邪魔をしては申し訳ないわ……でも………
この機会を逃したら、またいつ部屋を出られるか判らない、という気持ちがシャノワを躊躇させる。
だが、次に聞こえてきた声がシャノワをその場に縫い付けた。
「傷自体は治っているのだ。跡形もない。ウルリーケは、エリザベートが呪いを受けたと思い込んでいるのではないかと言う。……貴殿なら、何か方法を知っているのではないか?エリザベートの思い込みを、呪いを解く方法を?」
―――ナイアス……兄様……?
それは、紛れもなく従兄弟の―――ナイアスの声だった。




