クルトの悲劇 2
アルが意識を取り戻したのは、どこかの館の中だった。
「アル!」
身を起こそうとした途端、酷いめまいがして倒れこんだ身体を、母が抱き留めてくれた。
「かぁ……さま……?」
「そうよ、母様よ、アル。大丈夫?どこか痛くない?」
「だい……じょ…ぶ……」
しばらく母に抱かれていると、めまいも治まってきた。手足を動かしてみるが、異常は感じられない。母が治癒魔法をかけてくれたのだろう。
「母さま、ここはどこ?エルフの人たちは?エドワウおじさまはどうしちゃったの?」
「……アル……」
あたりを見渡すと、そこは薄暗くかび臭い部屋の中だった。
火の入っていない暖炉と、大きなベッド、古い衣装箪笥と書き物机。エミリアとアルがいるのは、石造りの出窓の腰掛だった。まるで部屋の隅に隠れるように。
「……ファティアス卿は……エドワウおじさまは、魔王に与したのです」
ためらってためらって、エミリアは重い口を開いた。
「気をつけなさい。アル。あれはもはやエドワウおじさまではありません。アルと私を人質にして、お父様を亡き者とするつもりです」
「かあ…さま…?」
信じられない言葉に、アルは目を見開いた。
「よく聞きなさい。お父様と、ラウ殿やエルフの方々がきっと助けに来てくれます。それまでは、母様の傍を離れてはいけません。絶対に母様が護ってあげますから。……でも、母様が走れと言ったら、その時は、お父様や母様に何があっても、後ろを振り向かず走って逃げるのですよ。……いいですね?」
「そんな!やだよ!ぼくが母さまを護ってあげるから!」
「駄目です。本来ならばお父様の方がファティアスより強い。……でも、魔を受け入れたファティアスはお父様より強いかもしれません。今のアルが敵う相手ではありません」
「だけど!」
「…お願い。アル。…せめてあなたは…あなただけは無事でいてほしいのです。母様の最後のお願いです。お願いだから…」
「嫌だ!そんなこと言わないで!母さま!」
「やれやれ、泣かせるね」
割って入った声に、アルは母にしがみついて振り返った。
ドアが開く音はしなかったのに、部屋の中央にファティアスが薄笑いを浮かべながら立っていた。
「こんな幼い子を泣かさずとも、私の願いを聞いてくれれば、きみとアルの命は保証すると言っているだろうに」
「お断りよ!」
アルを抱きしめてエミリアはファティアスを睨みつける。
「あっち行け!母さまに触るな!」
近寄るファティアスを精一杯威嚇すると、ファティアスは忌々し気に顔をゆがめた。
「…チビのくせに……本当に貴様はアルフォンゾによく似ているな。その目が特に」
その瞬間、ファティアスの手に黒い鉄の矢が浮かび上がり、アルの目に向けて飛来した。
だが。
アルの目の前数十センチのところで矢は蒸発した。
「!!」
驚いてよくよく目を凝らすと、自分と母を中心に、半径1メートルほどの球形の壁のようなものがあり、二人を護っているようだった。
「…王家の指輪か……どこまでも忌々しい男だ」
舌打ちして。
「まあいい。楽しみだよ、エミリア。目の前で愛しい男が八つ裂きにされるのを見れば、意地っ張りのきみも素直になるかもしれないね」
そう吐き捨ててファティアスは去って行った。
気配が消えるのを確認して、二人はほっと息をつく。
「母さま、大丈夫だよ!すぐに父さまが助けに来てくれるよ!」
「……ええ、そうね。アル」
ぐったりした母を精一杯励ますことしか、アルにはできなかった。
その男が現れたのは、次の夜だった。
気を張り続けていたエミリアがやっと少し眠り、アルが頑張ってあたりを警戒していた時。
「……きみが、エンデミオンの王子様かい?」
不意に頭上からかけられた声に驚いて顔を上げると、天井近くに金髪の若い男が浮かんでいた。
「…誰……?ハン族のひと……?」
いつも空から現れるラウを思い出して聞いてみると同時に、そうではないことを悟る。
ハン族とは気配も、存在感もまるで別物だった。
「…ああ、…きみ、判るんだ。小さいのに凄いね」
ふわりと舞い降りた男は、そう言って笑った。
金髪に金色の瞳、左目の下にほくろ。背は父くらいだろうか、細身の体を黒い騎士服に包み、人懐っこい笑みを浮かべている。
だが、彼の纏う雰囲気は爬虫類のそれだった。
「そんなに警戒しないで。ファティアスがご執心の姫君を一目見たくてさ」
ひょい、とアルの肩越しにエミリアを眺めて、男は眉をひそめた。
「……よくないな。これではフェリドが来るまで保つまい」
「……フェリド……?」
あのおっかない、エルフの王子様?
「ああ、きみのお父さんも来るんだったね。だったらなおさら、それまでは生きててもらわなきゃ。せっかくのショーに、役者が足りないんじゃ面白くないでしょ」
そう言って、男はエミリアに向かって指を伸ばした。
「やめろ!」
アルが叫ぶのと、男の指先が結界に触れるのは同時だった。
「あああああああ!!」
凄まじい音と火花が走り、母が絶叫する。
「母さま!」
ふっと結界が消え、男の指先が光ったと思う間もなく、母の身体を淡い光が包み込んだ。
「お前!母さまになにを!」
「ああ、怒らない、怒らない。きみのおかあさんは死にかけてたからね。死なれてもつまらないから、ちょっと手を貸してあげただけ。むしろ感謝してほしいくらいだなぁ」
「………っ……その……顔は………まさか……」
取り縋るアルの腕の中でエミリアは顔を上げ、男を見て蒼白になった。
「きみさ、頑張るのはいいけど、勝手に死なないでよね。君が死んじゃったら、ファティアスがすぐこの子殺しちゃうだろうし。それじゃつまんないからさ」
くっと含み笑いして目を細める。
そのおぞましさに、アルの全身が総毛立ち、がくがくと震えた。
息ができない。血が急激に冷えて手足の感覚が遠くなる。
「明日の夜。それまでは生きてて。ファティアスは近づかせないからさ。……じゃあね、ぼうや」
その言葉を残して、男の姿は掻き消えた。
「アル?しっかりしなさい!もう大丈夫だから、息をして!息を!」
母に擦られ、背中を軽く叩かれて、ようやくアルは息をつく。
「……母さま……………」
ようやく声が出るようになっても、あの男のことを訊くのすら恐ろしくて。
「大丈夫……大丈夫よ……」
「………父さま……」
母の腕の中、アルはただ父に助けを求めていた。