月の夜 1
ふっと、意識が浮上する。
何の前触れもなく、依那は眠りの海から掬い上げられた。
隣のベッドではレティがすやすやと安らかな寝息を立てている。
幾度か寝返りを打ち、眠りに戻れないことを悟って依那はそっと起き上がった。
窓の外を見やれば、まだ夜明けまでには間があることが知れる。
少し考えて、依那は音をたてないように注意しながら部屋を抜け出した。
寝静まった廊下には灯りはなかったが、窓から入る月明かりで支障がないくらいには明るかった。その廊下をつきあたりまで進み、階段を上がる。
屋上への扉を開けると、強い風が吹付けて依那の髪と夜着の上に羽織ったショールを揺らした。
「うっわ、すっご…」
夜空に輝く二つの月と、満天の星空と。
見事な光景に思わず感嘆の声を上げる。
こんなに美しい星空を見るのは星祭りの夜以来だ。あの時は新月の夜だったから星だけだったが、満月が近いらしい夜空は驚くほどに明るい。
「…月が二つもあるからかな……」
日本では、いくらスーパームーンだってこんなに明るくはなかった気がする。
……お母さん……元気でいるかな……
ぐうっと胸が詰まって泣きたくなるのを、唇を噛んで堪えた。
リュドミュラの話を聞いたからだろうか。無性に母が恋しかった。
―――お母さん。会いたい。会いたい。会いたい。
母だけではない。こーちゃんや、なおちゃん、由美っち、宮ちゃん、友達や、近所のおじさん、おばさん、お達者クラブのじーちゃん、ばーちゃん……いろいろな人の顔が浮かんでは消える。
……駄目。泣いちゃダメ。泣いちゃ……
溢れる涙を乱暴に拭って、屋上の端まで歩く。
屋上と言っても、ここは人が来るようなところではないのだろう、柵もなく、外縁部が10センチほど盛り上がっているだけだった。
眼下には真っすぐに切り立った崖と、森。その向こうに輝く湖面が広がっている。
このお城、結構高い位置に立ってたんだな、と思いながら下を覗きこんだ瞬間。
「!」
不意の強い風に、ぐらりと足元が揺れた。
……やば!
落ちる!と思うと同時に強い手が腕を掴み、逞しい胸元に抱き寄せられた。
「………っぶねー……気をつけろ、馬鹿」
「あ……」
咄嗟に何が起きたのかわからなくて。
足元からからりと落ちた石が闇の中に消えていくのを見送って、やっと自分が助けられたのだと悟る。そのままひょいっと抱え上げられ、縁から少し離れたところへ降ろされた。
「……あり……がと…」
「…身投げじゃねーよな?」
「違うわ!ボケ!」
素直にお礼を言おうとしたのに変なツッコミを入れられてうっかり罵る。
ため息をついて、依那はその場に座り込んだ。
さっきまでのシリアスな物思いを返してほしい。
そのまま見るともなしに、隣に立ったままのアルを見上げる。
ちょっと癖のある、背の中ほどまである赤い髪が夜風に揺れる。
彫りの深い横顔、意志の強そうな、緑の瞳。秀でた額と形のいい唇、すんなりと長い首、広い肩と見た目よりずっと逞しい胸。
肩に黒い上着をひっかけ、白い夜着に包まれた身体は一見細身だが、その実、鍛え抜かれていて細マッチョというやつらしい。
腹筋割れててすごい!と一緒にお風呂入った颯太が騒いでいたが……なんで王子様なのに腹筋割れてんだろ?やっぱ傭兵団にいたりしたから?
「………月」
「は?」
「月。お前のいた世界では月は一つなのか?」
ぼそっと言われてなんのことかわからなかったが、説明されて理解する。さっきの独り言を聞かれていたのか。
「うん。月は一つで、こんなに明るくない。街中だと灯りが多くて、星もこんなに見えない」
「………そうか」
アルもその場に座り込み、ただ二人並んで月を見上げる。
「……あのさ……」
ややあって、依那はずっと聞きたかったことを口にした。
「…あたしがこっちに来た時点で界が閉じたって言われたけど…あたしたち、向こうでは…死んだことになってるの?」
「いや……」
少しためらって、アルは重い口を開いた。
「界が閉じると、向こうの世界と勇者と聖女の縁は途絶える。……つまり、最初から存在しなかったことになる」
「最初から……」
依那も颯太も、その存在自体が抹消される。
それは死ぬより残酷なことだ。
母も友人も誰一人、二人のことを覚えてすらいないのだから。
「…ただし、魔王を倒して再び界の扉を開けば…再び縁を繋げることができると言われている。召喚されたその時点へ帰すことができると」
確実だと、保証することはできないが。
「……すまない」
真っすぐに依那の目を見て、アルは謝罪の言葉を紡ぐ。
「俺は…俺たちは、この世界のため、自分たちの都合でお前たちを巻き込んだ。正直、召喚された側にも家族があって、召喚者が消えたことで、その家族にどんな影響があるかまでは、考えが及ばなかった。お前の母君が謂われない中傷を受けたのも、お身体を壊されたのも、すべて俺たちの責だ。本当にすまなかった」
「……う……」
真摯な謝罪に、とうとう依那の涙腺は決壊した。
「なんでっ……なんでよっ…なんで、…あたしたち…だったのよっ!あた…あたしたちっ…幸せ…だったのよっ!…それなのに……なんで!」
激情のまま、思いのたけをぶつける依那を、ただ受け止めるしかできない。
こんなに細い、小さい肩に……そしてこの少女の弟の、もっと小さい肩に、自分たちはこの世界という重さを背負わせてしまったのだ。
すさまじい罪悪感と、庇護欲と。絶対にこの姉弟を元の世界に帰すという決意を胸に、アルはただ嗚咽する肩を抱きしめていた。