イズマイア先生の外交教室
15分後。
依那と颯太は、並んでサロンの片隅のソファに座らされていた。
目の前のテーブルには一応軽食とお茶が並んでいるものの、その前にはででん!とイズマイアが抱えていた本が広げられている。
「よろしいですか?明日の夜会の前に、せめて基本的な情報くらいは頭に叩き込んでくださいませ。くれぐれも!王家の方々に!恥をかかせることのないように!!」
「はいぃっっ!」
扇の三段突きに、姉弟は慌てて良い子の返事をする。
「…ねーちゃん!なにこの人!」
「わかんないわよ!でも逆らっちゃダメ!」
「そこ!黙ってお聞きなさい!」
ギッと睨まれてこくこくと頷く。なんだろう、この迫力。美人が怒るとほんとに怖い。
「まず、我がエンデミオン公国の立地から。これがわたくしたちの住むアースラ大陸。ここがエンデミオン公国です」
地図のページを開き、イズマイアは扇を使って国を指し示す。
「エンデミオン公国は大陸の南側に位置します。北の隣国がリーヴェント共和国。工業や商業が盛んですわね。大陸一の大商人、オリバー・ダーヴィン様のダーヴィン商会の本部もここにあります。ダーヴィン商会に取り扱えない品はない、と豪語する、大陸中に支店のある商会ですわ」
リーヴェント共和国の位置を示し、それからイズマイアはページをめくる。
「国家元首はアルフレド・エンバーノーグ様。貴族ではありませんが、リーヴェントでも屈指の鉱山を所有しておられます。奥方のオリビア様は慈善活動……特に獣人の保護に力を入れておいでです」
イズマイアの抱えていた本は紳士名鑑のようなもので、各国の最重要人物は肖像画付きで載っているらしい。エンバーノーグ氏とやらは、黒髪黒ひげの痩せた紳士だった。
「じゅうじん…?」
「そんなこともご存じありませんの?獣人族…人狼族とか…人猫族とかのことですわ。条件次第で獣の姿に変化したり、獣の特徴を備えた方々のことです」
「何それ!会いたい!」
「ですから!保護と申しましたでしょう!そうそうお目にかかれるものではありませんわ!」
つん、と顎を上げてイズマイアはため息をついた。
「くれぐれも、オリビア様の前で獣人を軽んじたり、興味本位で会いたいと言うのはお控えくださいませ。50年ほど前まで、獣人は奴隷同然の扱いを受けておりました。オリビア様はそんな獣人を悲惨な状況から救おうと尽力なさっているのですわ」
イズマイアは今度はエンデミオンの東側を示す。
「東の隣国はシナーク連邦国。ドラゴニュートのハン族、マーマンのブルーナ族、ドリュアスのエリン族、ドワーフのプルカ族、ピクシーのスウェラ族、ハーフリンクのジェット族、エルフのクルト族の七つの亜人国家から形成されております。亜人の中には人類と敵対している部族もありますが、シナークに所属する部族は人との共存を表明しておりますの。あまり人前に姿を現さない種族もありますが、明日の夜会には代表が出席いたしますわ」
「亜人って……ドワーフとかエルフとかって本当にいるの?!」
「いるから国家があるのですわ!わたくしの話を聞いてらして?」
「ご、ごめん」
ぺしっ!と扇の一撃がヒットする。
「多分、夜会にいらっしゃるのはハン族の王子ラウ・ハン様かプルーナ族の女王エドナ・プルーナ様、クルト族の姫フェリシア・レ・ラ・リリア様…そのいずれかでしょう。この方々は特に我が国と友好的ですから」
イズマイアが示したページによると、ドラゴニュートは竜人族でドリュアスが樹人族、ピクシーが妖精族でハーフリンクが小人族らしい。マーマンは…半魚人?!水から出て大丈夫なんだろか。
「亜人って、何か気を付けることある?文化の違いとかで」
「そうですわね…ドラゴニュートの角や、エルフの耳に触れることは、馴れ馴れしくて失礼な行為とされていますわ。くれぐれもお気をつけて」
「…むしろ、触る機会作る方が難しいよね…」
「最後に西のカナン王国。国王のゼラール・ヴォイド・レイ・カナン陛下。王妃のシンシア様、ご息女のシャノワ姫。王家の方はこのお三方ですか、ゼラール陛下の弟君にあたる方がメギド公爵家を継いでらして、そのご子息ナイアス・メギド・ル・カナン様が次期国王と目されております」
颯太のツッコミをさらっと無視してイズマイアはページをめくった。
「カナンはエンデミオンより歴史のある国で…そのためか友好国とはいえ、聖女様や勇者様がエンデミオンでしか召喚されないことを、あまり快く思っていない節があります。国王陛下はどちらかというと気弱な方なのですが、メギド公爵は野心のある方だと聞いておりますわ」
「いくつくらいの人ですか…?」
「メギド公爵は24歳、シャノワ姫は16歳。社交界にデビューして2年ほどですが、シャノワ姫は内気な方で、あまり社交界にも顔を出さないと聞いております。…この方にはちょっとした噂もありまして…」
ちょっと視線を泳がせて、イズマイアは一口お茶を飲んだ。
「カナン王家は代々、力の神ファボアの加護を受けており、時々その力を色濃く受け継いだ方が生まれると言われております。シャノア姫はその加護を色濃く受けたとされており、『カナンの怪力姫』という異名を持っておいでですわ」
「えええ……女の子にそんなあだ名はちょっと…」
「実際に怪力なの?」
「さあ……でも、小柄で…どちらかと言えば華奢な方だったと記憶しておりますわ」
「本当に怪力だったとしても、酷いよね。そんなあだ名」
依那はサンドイッチをつまみ、お茶を飲んだ。
「噂の真偽はさておき、要注意なのはメギド公爵の方ですわね。かなり恋多き方だと伺っております。聖女様もご注意くださいませ」
「……そうします」
うええ、と本気で依那は嫌そうだ。
明日、来るのかなぁ。来るんだろうなぁ。
「話を戻しますわね。カナンの西側には小国がいくつかありますが、その向こう側は不毛の大地が広がっております。数百年前の魔王と勇者様の戦いの跡とも、大規模な『穢れ』の跡とも言われておりますが、定かではありません。リーヴェントの北側は北海に面しておりまして、その向こうにあるのがジヴァール帝国。海に隔たれているためほとんど交易はありませんが、敵対国ではありません。一方、エンデミオンとカナンの南は南海に面しておりますが、その向こうにあるこの島……ここが死者の島――魔王が住むと言われている島ですわ」
「え……」
イズマイアの言葉に、依那と颯太は慌てて地図を覗きこんだ。
王都から南の海岸までと、そこから死者の島へは同じくらい。縮尺が判らないから正確な距離はつかめないが、結構な距離がある。
今まで具体的に存在が示されていなかった、魔王。それが、ここにいるというのだろうか。
「じゃあ…魔王と闘うためにはここへ行く…の?」
「……わかりません。魔王の城があるというのも伝承で、この島へ行って、生きて帰った者はいないとすら言われております」
しばらくためらって、イズマイアは依那と颯太を真っすぐに見た。
「陛下も殿下も、サーシェス神官長も、少しずつ情報をお伝えするおつもりだったのでしょうが……明日の夜会で近隣諸国からこの話が出るやもしれません。どうか、心なさいませ。お二方とも。…魔王は、現実にいるのです」
あまりにも真剣なイズマイアの瞳に、二人は返す言葉を持たなかった。