危機 1
その扉が再び開かれたのは、小一時間が経ってからだった。
「……精霊さん?いらっしゃって?」
そっと衣装箪笥を覗き込むエリザベートに、膝を抱えて座っていた依那はゆっくりと顔を上げた。
「……エリザベート様……」
「出ていらして、もう誰もいませんから」
依那の手を引いて箪笥から引っ張り出したエリザベートは、憔悴しきった彼女を見て、驚いたように、目を丸くした。
「まあ!顔色が悪いわ!大丈夫?」
「……ええ、まぁ…」
誰のせいだ!と言いたいのをぐっと堪えて依那は頷いた。
「ごめんなさいね、さっきナイアスが驚かせたせいかしら」
寝支度なのだろう、真っ白い夜着に白いガウン、金髪をそのまま背中に流したエリザベートはそれこそ天使のように美しい。
とてもついさっきまで、息子相手にあんなことをしていた人とは思えない。
そう、息子。
さっき、ナイアスは彼女を母と呼んだ。信じられないが、彼女の言うことは本当だったのだろう。
「先ほどの方は……」
「あれがナイアスよ。わたくしのぼうや。あの子ったら、とても心配性なの。そして優しいのよ。わたくしの願い事は、なんでも叶えてくれるわ」
依那をソファに座らせて、自分も隣に腰を下ろす。
「今日は冷えるでしょう?寒くてたまらない夜は、あの子を通してアルフォンゾ様がわたくしを温めてくださるのよ」
頬を染めるエリザベートが、依那には化け物に見えた。
依那を気遣ったり、匿ったり、根本的な部分では彼女は邪悪ではないのだろう。
だが、アルフォンゾに対する悍ましいほどの執着と妄想が、彼女を狂わせた。そしてその狂気がナイアスまでを巻き込んでいる。
「…ナイアス様は……カナンの姫君とご結婚してカナンの王となるのでは……」
「ええそうよ。あの、みっともない お姫様」
頬に手を当て、エリザベートは憂鬱そうにため息をついた。
「おかしいわよね。世界で一番由緒正しい王家のお姫様なのに、どうしてあの子はあんなにみっともないのかしら。お姫様はもっと美しくて、素敵な王子様に相応しくなくてはいけないのに」
つ、と席を立ち、エリザベートは書き物机の引き出しから一枚のポートレートを持ってきた。
「ほら、ごらんになって。これがカナンのゼラール王、そして王妃のシンシア様。おふたりともご立派でしょう?それなのに、ナイアスの花嫁になる、肝心のお姫様があんなにみすぼらしいなんて。おまけに、あの子は怪力姫なんて呼ばれてるのよ!?とんでもないわ。あんな子を花嫁にしなきゃいけないなんて……ナイアスが可哀想」
友達を貶されてイラっとした依那だったが、なんとか堪えてポートレートを覗きこむ。
ゼラール王は会ったことがあったが、シンシア王妃には面識がない。シャノワの母は少々地味目だが優し気な、シャノワにどことなく面差しの似た女性だった。
「いっそ、あんな子はやめて、エンデミオンのお姫様を花嫁にしたらどうかしら?アルフォンゾ様の姪ですもの、美しくて気高いお姫様だと評判だし、ナイアスともきっとお似合いよ!…ああでも、駄目ね。それではナイアスが王になれないわ。じゃああの子で我慢するしかないのね…やっぱり、あの踊り子の呪いなのかしら…だから、早めになんとかなさいと言ったのに……」
返されたポートレートを抱きしめ、エリザベートはぶつぶつと呟いた。
「そうよ……やっぱり、あの踊り子がいけないんだわ。わたくしは、初めから気に入らなかったの。本当よ。だって、王様や王子様には、お姫様でなくちゃ……シンシア様はお姫様だからいいけれど、あんな踊り子なんて…歌姫の方だったらまだましだったのに……いいえ、駄目よ。やっぱり。卑しい踊り子なんて。本当は魔女だったのかもしれないわ……だったら、しばり首か火あぶりにしなければならなかったのに…取り逃がしたりするから…息の根は止めたといったけど、呪いをかけた後だったのかもしれないわ…」
「……エリザ…ベート…さま……?」
「そう思うでしょ?精霊さん!やっぱり、あの子は魔女に呪われているのよね?」
「さ…さあ?人間のことは私には…」
いきなり手を取って訴えかけるエリザベートに、ドン引きながら依那は言い逃れようとした……その時。
ふと依那の手に目を落としたエリザベートの表情が凍り付いた。