エリザベート
ナイアスの母、エリザベート・シェンツは「カナンの妖精姫」と呼ばれ、目も覚めるように美しい少女だった。
老齢になってからエリザベートを授かった彼女の両親は、それはそれは娘を可愛がり、醜いもの、汚いものからは徹底して隔離して育てた。
おかげでエリザベートは、13歳になるころにはまるでおとぎの国にいるように、純粋無垢で夢見る少女に育っていた。
彼女は人の悪意も欲望も知らず、ただただ美しいものやふわふわした砂糖菓子のような世界に生きていたのだ。
とびぬけて美しい彼女には、社交界デビュー前から降るほどの縁談があった。
中でも熱心だったのは、当時のメギド公爵だったダイムラー公と、第2王子だったエイダスで、ダイムラー公に至っては、50歳に手が届こうという年齢にもかかわらず、エリザベートを手に入れようといろいろ策を巡らせていた。
そんななか、エリザベートは魔物討伐のためカナンを訪れた、あの方に会う。――エンデミオン公国王太子、アルフォンゾに。
すらりとした長身、優しい声、太陽のように明るい笑顔。
目の前に現れた異国の王子は、エリザベートにとってまさに夢の王子様だった。
だから彼女は……大人たちの思惑も、自分の立場も何も知らないエリザベートは、無邪気にアルフォンゾに求婚してしまったのだ。
大好きな物語のように、おとぎ話のように…白馬の王子様が迎えに来てくれたのだと、信じて。
夢見る少女の行動は大問題となり、結果、その日のうちにエリザベートとエイダスの結婚が決まった。
年老いた両親の抗議も、エイダスの兄である王太子ゼラールの苦言も、宰相でもあったダイムラー公の前に撥ね退けられた。
彼女には何一つ知らされることなくことは進み――エリザベートが社交界デビューを迎えたその日、盛大な結婚式が行われた。
同じ少女を狙う二人の間でどんな取り決めがあったのか――その2か月後にダイムラー公が急な病で他界するまで、この哀れな少女は叔父と甥に共有されていたという。
やがて、日々が過ぎ、次の年の冬、エリザベートはナイアスを産んだ。
わずか15歳の未成熟な体での出産は母体に酷い負担をかけ、エリザベートは二度と子供の望めない体となった。
時を同じくして、アルフォンゾとエミリアの噂がカナンにも届き出し、エリザベートの精神は次第に蝕まれていった。
いつか、あの方がこの地獄のような日々から救い出してくださる。
いつか、あの方が迎えに来てくださる。
愛する夢の世界を粉々に打ち砕かれたエリザベートにとって、その思いだけが唯一の支えだったのだ。
だから、アルフォンゾがエミリアと結婚した時、彼女の心は第一の均衡を失った。
夢の中で彷徨い歩き、アルフォンゾを求める彼女を救うため、老いた母はありもしない希望を与えた。
「おまえがアルフォンゾ様と結ばれるのは、神が決めたもうた運命だ。いつか、時が来れば、アルフォンゾ様は真実の愛に目覚めておまえを迎えに来てくださる」
「だから、おまえは、いつも美しく、気高いエリザベートのままお待ちしなければ」
――いつも美しく、気高いままで。
いつまでも、あの少女のままでいなければ、あの方は迎えに来てくださらない…―――
愛娘を救うための絵空事は、そのまま彼女を縛る呪いへと変化した。
エリザベートは、出会った頃のまま時を止めようとした。何も知らぬ、アルフォンゾに恋した少女の頃へ戻ろうとした。
そして――カナン王家に伝わる、〈時の泉〉という魔法具を使用した。
〈時の泉〉は物質の劣化を止めるものと言われていたが、時間を止めるものではない。本来は水の中に入れて、その水の中で、物質を劣化させずに保存するために使用される。
それを彼女は――直径2センチほどの、その宝玉を飲み込んだのだ。
結果、〈時の泉〉はエリザベートの一部となり、確かに彼女の肉体は時を止めた。
だが、その精神は緩やかに破滅へ向かい……11年前、アルフォンゾの死をもって完全に崩壊した。
今のエリザベートは、どうにか魔法で自我を保って入るものの、せいぜい14、5歳の少女の人格しかなく、周りの出来事も知覚しないまま、夢の世界に暮らしている。
アルフォンゾの死すら、彼女にとってはなかったこととなっており……今、彼女が「アルフォンゾ」として認識しているのは、彼の忘れ形見――アルトゥールだった。
ただひとつ、彼女の世界と外界を繋ぐ窓は、ナイアスの存在だ。
自分の息子であるということも判っているか定かではないが、エリザベートにとってナイアスは大事な存在であることは間違いない。
そして、ナイアスにとっても。
誰よりも美しく、儚く、哀れで脆いエリザベートは、ナイアスのすべてだった。
だからナイアスは、聖女も、エンデミオンも、すべての計画も打ち捨てていま、ここにいるのだ。




