6話「彼女」
スピーカーから流れる停留所を告げるアナウンス。エアブレーキがシュッと鳴り傾く車内。少し硬い座席。両側に並ぶ座席が占領して狭い筈の通路は、乗車客が1人だからか寂しくも感じる。
その1人も降りて、運転手のみを乗せたバスは走って行く。エンジン音の後に残ったのは、古びた木製の屋根付きの停留所にポツンと佇む唯一の乗車客。首に大型のカメラを下げる皇真だけであった。
1歩踏み出すと靴の裏に感じる砂利、2歩目を踏み出した靴先にコツンと当たった小石が乾ききった道に転がる。暖かな陽気を遮るものが一切ない、時折気持ちの良い風が吹く田んぼ道を抜けたところで、皇真は目深に被っていたフードを外した。
木々の影に覆われている山道を登り見える、秘密基地のように自然に囲まれ存在する「ホチオウジ大学医学部病院」へ迷いない足で皇真は進む。
受付にいる年配の男性と皇真の挨拶は気軽なものだった。
「よぉおじちゃん。花粉症大丈夫か」
「いらっしゃっい。皇真君。心配してくれてありがとう。この時期になればもう平気さ」
「あ⁇ 春こそ花粉やべーんじゃねーの」
「桜は花粉を飛ばさないんだよ」
「マジか知らんかった」
タンポポのような白髪頭、まん丸の老眼鏡が似合う。くしゃりとシワを寄せた笑顔が見る者に愛嬌を感じさせる職員が朗らかに迎える。
「先に電波を発する物を預かるよ。カメラも」
渡された薄いトレーに、ポケットから電源をあらかじめ切ってあるスマホと家の電子キー。古めかしい大型のカメラを首から取って置く。おじさんが受け取ろうと手を出して「おや」と皇真を見た。
「携帯変えたんだね。連絡先も変わったの」
「……昨日、な」
「なら面会者票にも新しい連絡先書いておいて」
カウンターに滑らすように差し出された面会者票を指先で抑えて、皇真は頷く。
おじさんは皇真が書いてる間にと。預かった物に番号札をつけ。保管用の金庫に仕舞う為に、くるり椅子を回転させ立つ。
「平日にくるのは珍しいね」
「学校が午前授業だったんだ」
「そうかい。学校はどうだった。馴染めそう⁇」
備え付けのボールペンを取って必要事項を書く皇真は俯き応えた。
「まぁ、な。クラスは雰囲気よかったと思うよ」
自分の名前と新しい連絡先。面会先の部屋番号・入院者の名前を書き終え顔を上げる。
金庫の前で屈むおじちゃんを待つ間、なんとなしに眺める受付内もいつも通りだ。
額縁に飾ってある皇真には価値の分からぬ表彰状に、歴代の院長が雁首揃え見下ろしていて。白黒の院長からカラーの院長と変わる様は歴史を表している。
堅苦しい歴史の下には、何年か前に改築した時の写真も飾られており。それが雰囲気を良い意味で壊している。
今代の院長は知らないが、先代の院長は気さくな人物だったらしい。
改築中の様子が映るそこには先代院長と工事員の肩を並べる写真や、地べたで共に弁当をかきこむ姿まである。
写真が趣味だったのか定かではないが、この人とは話し合いそうだな思うのも通常だ。
ふと、遅いなと前に目をやった皇真は、おかしいと眉間を寄せた。
おじちゃんは金庫の前で屈んでいる。気のせいでなければ、さっきと寸分違わぬ姿勢で、だ。
「おじちゃん⁇」
呼びかける。反応がない。
「お、おい。おじちゃん」
もう一度呼びかけた声は、相手の耳に届くかどうかの小さなものだった。
それは皇真自身、無意識であり戸惑いを覚える。何を不安になっているのか。心配こそすれ不安がることなどない筈だ。
これでダメならナースセンターに駆け込もうと開きかけた口は。調度よく目の先にいる人物がスッと膝を伸ばし立ったことで止まった。
そしてこちらを向くその人に。皇真はギョッとすることになる。
一言で表すなら無だ。怒りの余り表情が消えた、などの話ではなく。
振り向いた顔には、感情がなかった。
「え、おい」
言葉にならない混乱が口からもれる。
(これはマズい。何がどうと説明つかないがヤバい。誰か。ナースセンター)
通路を横目で見やった
「ん⁇ 待った待った名札まだだよ」
時間にして一秒。無だった人物に感情が戻る。普通に、おじちゃんは皇真に話しかけた。
まるでゲームの一時停止をといた感覚だ。からかってるのか。頭に浮かんだ考えを、そんな人ではないと即座に皇真は否定する。
「おじちゃん、その体調わりーの⁇」
恐る恐る尋ねると、おじちゃんは一瞬キョトンとしてから優しく微笑み返した。
「大丈夫。何しろここは病院だ。定年まで働くさ」
話していて不自然なところは見受けられず、皇真は面会者用の名札を黙って首に下げた。
呆けていた、とは違う。見間違い、でもなく。
「疲れてんのか」
通り過ぎ様にナースセンターにいる看護師に会釈して進み、誰もいない通路で呟く。
「……こんな日もあるよな」
些細なことである。受付のおじちゃんの様子が多少おかしかった。それだけ。また来た時には、いつものように変わらず世間話でもしながら手続きをしてくれるだろう。
そう、変わりはしない。通路に左右並ぶドアの傍に差し込んである、患者達のプレートの名前も。
ドアをスライドして、真っ白な部屋に入った皇真に話しかける女性も
「皇真君、お疲れ様。いつもありがとう」
「いえ。すんません、今日なんも買ってくる暇なくて手ぶらできちまいました」
「ふふっ。いいのに、そんな気を使わないで」
「っす。おばさん、先週伝えてたと思うんすけど。昨日、携帯変えたんで」
皇真がメモをポケットから引き抜き渡す。受け取る女性のカサついている指先。娘を見守り早1年。艶を失ってしまった伸ばしっぱなしの白髪。
そう変わりはしないのだ。
皇真は話しかける。
「華恵。今日は花見日和のいい天気だぜ」
娘の前で哀愁をにじませた笑みを作る彼女の母親も。
「桜がさ日の光に当たってんのが綺麗で」
心電図の音。点滴が繋がるやつれた体。呼吸器に覆われた小さな顔。白いベットに横たわる、彼女も。
彼女の目が閉じているのも。「オウくん」と可愛らしく間延びした声で、皇真を呼ばないのも。
美人ではないが、思わず抱きしめたくなる赤ん坊みたいな笑顔は、青白い皮膚に隠されたまま。
皇真の幼なじみ森口華恵は。皇真が愛し。皇真が自殺に追い込んだ、彼女は。
今日も、変わらず寝ている。
「華恵、桜って花粉飛ばさないんだって。お前知ってた」
皇真は話しかける。返事がなくてもだ。
面会者用の丸椅子に座り、彼女の母「佳恵」と皇真は彼女を交え話す。
「ここなら絶対目を覚ましてくれる。なんたって意識不明の妊婦さんを救った「ホチオウジ大学医学部病院」だもの」
去年から話し続け会話のネタも尽きた。
「その妊婦さんはまだ目を覚ましてないけど、生きてる。お腹に赤ちゃんいたのに、生きている」
いつからか同じ内容ばかり話すようになった。パターン化した佳恵の話しに、皇真は静かに相槌を打つ。
「それに半年前にここで目を覚ました子がいる。その子は華恵と年も近かった。だから、絶対に……」
その子はここに入院して一カ月でだった。なんて皇真は言わない。皇真とて祈っているのだ。
早く目を覚ましてくれと。早く、瞼を開け見てくれ。早く、早く──
カーテンの隙間から覗く桜がまた、枯れてしまう前に。皇真はジッと彼女を見つめる。