猫の名は。 壱
「うーん、どうしよう」
適正サイズになったのはいいけど、知らない家に「こんにちは。可愛い家なので、中を見せてもらってもいいですか?」とは訪ねづらい。
まごまごしてたら、向こうの道を魚男が華麗な競歩で横切ったので、ギョギョッとした。
「鰈の家令ね」
行き先を見守っていると、鰈な家令は私がお邪魔したい家の扉をノックした。
出迎えたのは蛙男だ。
「蛙が帰るじゃ、なんの役どころかわからないわね」
どんな会話をするのか、茂みに隠れて、こっそり聞き耳を立ててみる。
まずは、鰈の家令が体と同じくらいのサイズの手紙を両手に、「講釈夫人へ、お后様からゲートボールへのお誘いであーる」と言った。
託された蛙男が「ありがたく頂戴いたし鱒ーるー」と返して、賞状方式で恭しく受け取ると、二匹は同時に深々とお辞儀した。
すると、どちらも飛び出した長さを計算してなかったリーゼントが絡まった。
なんのコントだ。
吹き出さないように、お口にチャックでやりすごし、顔を上げた時には家令なる鰈がいなくなっていた。
崩れ頭の蛙男はと思えば、その辺の草むらで寝そべっている。
あんなに丁寧に預かった招待状は放ったらかしだ。
「とにかく、お邪魔するにはノックからよね」
意気込んで茂みから飛び出し、玄関の前でワンピースのしわを伸ばして整える。
コン、コン。
「お嬢さん、叩いたって意味なくない?」
口を挟んできたのは、首の後ろで手を組んで寝そべっていた蛙男だ。
「あら、どうしてかしら」
「理由の一つは、取り次ぎの俺がお嬢さんと同じ外にいること。もう一つは、屋敷の中が騒がしいから誰にも聞こえないってこと」
言われてみれば、中から外観に似合わない物音がひっきりなしに聞こえていた。
誰かの鳴き声やくしゃみに、お皿やカップなんかの割れる音がお伴している。
「困ったわね。どうしたら入れてもらえるかしら」
「じゃあ、間をとって、俺がおもてなしてあげよう」
どことどこの間が採られたのか知らないけど、けだるそうに起き上がった蛙男は、おもむろに手首を掴んできた。
そして、流れるように足を払われ、ものの見事に組み敷かれて仰天した。
「ねえ、知ってる? 蛙はエステがお得意なんだ。お嬢さんは、気持ちいいことをしながら、艶々の肌になれるのさ」
ゆるく笑う蛙男は、水かきっぽい手を頬に伸ばしてきた。
しっとり、じゅんわりな潤いが浸透してくるけど、青空エステなんてリラックスできるわけがない。
「大丈夫。屋敷の中はいつでも賑やかで、外で何があっても気づかないから」
確かに、中の人には気づかれないかもしれないけれど、こんな真っ平の原っぱじゃあ、誰が通りすがっても丸裸だ。
案の定、蛙男がえくぼから別の凹みに滑り込もうとしている不埒な気配が漂ってきたので、望まない関係を迫られた時のセオリーに従って、センターど真ん中を蹴り上げてやる。
「私は家に入りたいだけ。あなたと輪唱するつもりなんて、ないんだから」
「だったら、ご自由にぃい」
団子虫並みにうずくまった蛙男の返事は震えていた。
いい気味だ。
少しは反省してくれることを願って離れたら、突然、ドアが開いて、びゅんとお皿が飛んでった。
フリスビーみたいに一直線に蛙男の鼻先をかすめて、奥の木にぶつかって砕け散る。
「なんだか、とってもデンジャラスな香りだけど、おかげで、誰も私を気にしないみたい」
開けっ放しになった玄関から覗いてみると、奥にある大きな台所に、何を作っているのか謎な煙が充満していた。
その手前では、大柄の華やかな和服を着こなす公爵夫人が椅子に座って赤ちゃんをあやしている。
「どんな家族なのかしら」
気になる台所を背伸びして見ていたら、どうやら大鍋でスープを作っているらしかった。
ついでに、騒音問題の原因がわかった。
「あのスープ、故障してるんだわ。胡椒が利きすぎなのよ」
言ってるそばから、くしゅん、えふんと飛び出して仕方ない。
時々、住人の公爵夫人も耐えきれずにくしゃみをしてるし、赤ちゃんは仕事として泣いているのか、胡椒がきつくて泣いているのか判別できない有り様だ。
あれなら、いくらあやされたって泣き止むはずもない。
この家でくしゃみをしてないのは、偏った料理人と敷物の上で寝そべっている口の大きな猫男だけだ。
しかも、猫男ときたら、こんな状況で、にやにや笑うのだから信じられない。
「もしもし、奥様」
勢いで飼い主に声をかければ、振り返った奥様は旦那様だった。
「夫人じゃなかったんですか!?」
よくよく見れば、首が太くて筋骨隆々だ。
「あら、いかにも私が講釈夫人ですよ」
「男なのに?」
「ええ、もちろん。夫の人なのだから、男に決まっているでしょうに」
夫人の言っていることは、実に正論だった。
「それで、お嬢さん。どんな御用でいらしたのかしら」
「えーと、どうして猫男は、あんなに笑っているのですか」
私のダイナは一度だってニヤニヤしたことがない。
特に理由もなく笑っているなら、しつけの問題だと教えてあげなければならなかった。
「あら。もしではなく、当たり前に笑っているだけですわよ。あれは千紗猫なのだから」
「え!? あっ、ほんとだ」
改めなくても、ごろにゃんしている猫男は幼なじみの千紗だった。
「ちょっと、こんなところで何やってるのよ」
話しかけた瞬間、がしゃんと何かが砕け弾けた。
びくっとした次には、鍋やら皿やら深皿が更に更にと飛んでくる。
がたいのいい公爵夫人は、何が飛んでこようとへっちゃらそうだけど、抱えている赤ちゃんのうぶ毛すれすれに掠め飛んでいくから、危なっかしくて見てられない。
「夫人。早く泣き止ませてあげないと、赤ちゃんが可哀想です」
だから、その筋肉で料理人を止めてくれと言いたかったのに、何を思ったのか、夫人は子守唄を歌い出した。
♪ アンタがたどこさ、卑語さ、卑語どこさ、隈なくさ、隈なく床さ、転婆さ、転婆山には女子がおってな、それを両氏が大砲で撃ってさ、二手さ、妬いてさ、繰ってさ、それを個の派でちょいとかーくす
夫人は歌いながら赤ちゃんをぽんぽん放り上げ、その度に赤ちゃんの泣き方が悪化してくから子守唄としての意味がなかった。
「さてと、そこのあなた。そんなに私のベイビーをあやしたいなら、ちょっとだけ許してあげないこともないわよ」
「ええ?」
誰もそんなことは言ってないのに、夫人がぽいっと投げて寄越したから焦ってしまう。
なんとか胸で衝撃を吸収できてほっとしてたら、夫人は「ゲートボールの支度をしなきゃね」と、ルンルンしながら出ていこうとする。
その背後から投げつけられたフライパンは、夫人の逞しい背筋に跳ね返されて、むなしく落ちていった。
「この家は働き改革をしないと駄目ね」
たぶん、料理人は疲れているのだろう。
「あと、胡椒の量もね」
ストレス過多で味覚がおかしくなっているはずだ。