猫の名は。 弐
「とにかく、赤ちゃんを連れ出すのが先決よ」
よしよしと、地味に重たい赤ちゃんを揺らしながら外に出て散歩する。
赤ちゃんというのは無条件に可愛らしい。
ただ、この赤ちゃんは、しょっちゅう鼻を鳴らしてうるさかった。
心配になって顔色をうかがうと、擬人化されてない、交じりっけなしの小豚ちゃんだった。
短い手足でジタバタ暴れるから下ろしてあげると、ぶひぶひ言わせながら森に入っていく。
「立派な野豚さんとして生きて行くのよ」
束の間の親心で見送っていたら、子豚が向かった側にある木の上に千紗猫が腰かけていた。
「何、笑ってるのよ」
「別に。相変わらず、アリスは愉快だと思ってね」
「千紗は相変わらず無神経ね。少しは責任を感じないわけ?」
「何で」
「だって、同窓会に誘ったのは千紗でしょ。だったら、こんなことになってるのも千紗のせいじゃない」
「別に、アリスが困ることなんてないだろう」
「ありよ、大有り。ここの男どもときたら、みんなスケベったらしなんだから」
「そりゃそうさ。ここは、誘惑の国だからな」
「なんですって?」
「誘惑の国で誘惑されないなんて、バカみたいだろう。アリスだって、楽しめばいいんだ。みんな、気持ちよくしてくれるよ」
「バカ言わないで。私は宇佐見君を追いかけてるの。他の生き物なんて、相手にしたくないんだから」
「あっ、そう。だったら、前に進むことだね」
「前って言ったって……」
目の前にあるのは、おもいっきり別れ道。
「どっちに行ったらいいのよ」
「アリスが、どっちに行きたいかによるね」
「私は、どっちでもいいんだけど」
「じゃあ、どっちにでもイケばいい」
「何、それ。無責任すぎない?」
「ちっとも、すぎないね。でもまあ、少しならサービスしてあげてもいいけど」
にやにやの千紗は猫の右手で手招いて、「こっちはイカれた愉快な帽子屋が住んでる」と言ってきた。
そして、今度は左の猫手で手招いて、「こっちにはイカした可笑しな三月うさぎが住んでる」と教えてくれる。
「ねえ、それって、どっちも狂ってるって意味じゃないの」
「当然だろう。ここは誘惑の国。粋がってる連中でいっぱいさ。アリスだって、活きたがってないとは言えないだろう」
「失礼ね。私はまともよ」
「おや。そいつは、おかしいなぁ。じゃなきゃ、こんなところに迷い込んだりしないはずなのに」
むかついたから木の幹を蹴ってみたけど、少しもぐらつかなくって、もっとむかっ腹になっただけだった。
「せっかくお洒落してるのに、乱暴だな」
「うるさい。千紗こそ何しに現れたのよ」
怒ってみても、千紗猫はどこ吹く風だ。
「ところで、アリス。お后ちゃんとゲートボールはやるのか?」
「え、ああ。面白そうだけど、まだ招待されてないから無理ね」
「じゃあ、次はそこで会おう」
じゃあって何よ、って言い返したかったのに、肝心の千紗がいなくなったから言葉が宙に浮いてしまった。
「どんなタネの仕掛けかしら」
見破ってやろうと熱心にうろついてたら、再び千紗が出没した。
「聞き忘れたけど、講釈夫人の筋肉はどうだった?」
「どうもこうも、圧がすごくて、落ち着かないったらなかったわ」
「そうじゃないかと思ってたよ」
「ちょっと、千紗。人のことをどうこう言える立場じゃないと思うんだけど」
「だったら、アリスは俺のことをどうこう言いたいってわけ?」
「違うわよ。突然、消えたり出てきたりするのは、よくないって言いたいの。心臓に悪いでしょ」
「そりゃ、失敬」
エア帽子を脱いで紳士風に挨拶した千紗は、今度はしっぽから順に、ゆっくりと消えだした。
最後に残った白い歯で笑うと、今度こそ本当にいなくなった。
もう、ちゃんと戻ってこないことを確認してから、改めて進むべき道に向き直る。
「んー……三月うさぎにしようかな。生かした方がマシな気がするし、今は三月じゃないから、そんなに可笑しくなっていないはずだもの」
方向が定まったから、二股を左に曲がって歩いていく。
少しすると、二本の煙突がうさ耳にしか見えない家が見えてきた。
「まずは、大きさを合わせなくっちゃ」
さっきの家よりだいぶ見上げているので、秘蔵のきのこを取り出して、ちゃちゃっとサイズを合わせておいた。




