結婚するなら⑥
「それでカトリーヌさん。この家の呪い、そして貴女が見た夢とやらは一体どういうものなのか、私たちに教えていただけませんか?」
この家の中でも特に亜里沙のお気に入りの部屋――なんの変哲もないが最近では珍しい、フローリングの上に薄っぺらい畳風の敷物を敷いたものではなく、きちんとい草の香りがする畳が敷き詰められた純和室の部屋で女三人が顔を突き合わせている。メンバーは、この家の主である二ツ家亜里沙、彼女の親友の結城璃々、会社の上司に紹介された占い師のカトリーヌ雅だ。
「はい。今からご説明したいと思います。ですが、わたくしの霊視をお話しする前に、まず、亜里沙さん。貴女のことをお聞きしたいのですが……。なぜ、貴女はこの家に住まおうと思ったのですか。そしてどうして、『二ツ家』という名前を名乗ることになさったのですか?」
カトリーヌ雅の瞳が真っ直ぐ亜里沙を射抜いてくる。亜里沙は中にわずかに光が映り込んでいる湯呑の中身を飲み干し、ことさら慎重な手つきでもって音を立てずにそれを置いた。璃々が常にない雰囲気の親友を心配そうな様子で見守っている。
亜里沙が口を開く。
「それは――」
(ごくりっ)
見守る三人、璃々・カトリーヌ・守が緊張のためか唾を呑みこむ音がした。
「私も――今年で28歳になりました。周囲の皆さまに助けていただき、幸いなことに仕事は順調で経済面での心配は今のところありません。ただ、お恥ずかしながら男性との確かなご縁が未だなく、また、自分の性格からして今後も結婚は難しいのではないかと感じております」
そう言って一旦、亜里沙が目と口を閉ざす。再び瞼を開けたときには、庭を、いや、もっとどこか遠くを見るような目つきで再度話し始めた。
「両親はいまさら私が結婚をせずとも何も言わないでしょう。しかしながら、女一人で今後を生きる上、必要不可欠なものが唯一つ、欠けているのではないかと感じておりました。――それは、家です。結婚しないのなら、老後の面倒を見てくれる子どももおりませんので、せめても心地よい空間で穏やかに年を取っていき、納得した場所で死にたいと思ったのです。そこで偶然、縁あってこの家を購入しました。この屋敷は初代オーナー以外に居ついた者がほとんどいないそうで、そのオーナー夫妻自体にも子供がおらず、家の中は築50年の割に痛みが非常に少ない。私は、そこを気に入りました」
亜里沙は流れるようにして胸の内を説いた。しかし、カトリーヌはあまり納得できないのか不可解そうな顔で、
「今の世の中、昔と違い30歳を過ぎて結婚なされる方もたくさんいらっしゃると思いますが? 事実、わたくしのお得意様の中でも50歳過ぎて運命の方と出会われたという方々も少なくありません。結婚する、しない、は別としましても、思いつめすぎではないかと。ましてや、亜里沙さんは美しい方ですし、事実とても男性にオモテになると貴女の上司から聞いていますよ」
と言った。すると亜里沙は照れ笑いのようなものを浮かべ、弁明するように下を向いた。
「ええ……。実は私、昔はけっこう男性にはルーズなほうでした。褒められたことではないのですが、同時期に複数の方とお付き合いをしていた経験もあり、一応、私としては全ての男性の方々と真剣に交際していたつもりではありますが、いろいろトラブルがあったことは事実なので……。どうも私の中での交際や結婚といったもののイメージが相手の方と上手く噛み合っていないようでして。そういった意味でも、自分は恋愛というもの自体が不向きであると思っています。男性と結婚しないと決めた今、無用なそれらを避けるためにケジメとして指輪と改姓手続きをしました」
事実、これまでの亜里沙のその方面での行いは、どう言い繕っても上品なものではない。傍から見れば男狂い、俗にビッチと呼ばれる有様だと知っている璃々はストローの端をずずっと吸い上げた。たくさんいる男友達をまとめて納得させるのに、ダイヤの指輪とこれまでと異なる姓とが印字された名刺は、よ~く役に立ったことであろう。
だが、カトリーヌはやはり理解が出来ない、というような表情をして首をかしげた。
「つまりは要らぬ男が寄ってこぬよう虫除け、という事ですわね。ですが、それにしたって改姓までするというのは、いささかやり過ぎというものでは?」
亜里沙は、その言葉にわずかに微笑を見せて、常ならば釣り気味のアーチの形に整えられた眉をハのじ曲げてみせた。
「こんな業界、詐欺師かペテン師かというような男性もたくさんいます。ですので念のため、という事です。あと、結婚している方がやはり仕事の面でもプラスに働くことが多いんです。新しい考えを求めるくせに、古臭い考えもいまだ蔓延しているのには辟易とされますが。ただ勝手に勘違いしてくれればラッキーくらいなもので、さらに言ってしまえば、改姓については私がもともと両親との仲が悪く、彼らとは最終的な形まで親子の縁を切ってしまいたかった。ですから、いずれは完全な他人同士となれるよう、手続きの準備だけは用意していましたから」
ペロリと舌を出して軽い口調で言った亜里沙。そんな様子を見せられ、カトリーヌはなんとも言い難いような複雑な表情を浮かべたが、まぁ一応、合点がいったという顔をした。
だが、周りで見ていた『二ツ家亜里沙』に詳しい者たちの意見はまた別だ。
(嘘だ!)
(嘘じゃねーか!)
親友のしらじらしい大ウソを、苦虫を噛みしめる代わりにストローを口で潰しながら聞いていた璃々は溜息を堪えるのに苦労していた。(ちなみにジュースはお代わりした)。
璃々とてもし、この話が真実であれば彼女の親友として、安心なような心配なような一口では言い難い複雑な心境になるのであろうが、あいにく真っ赤な嘘だと分かりきっている。
(亜里沙はこの家をマジで愛しちゃってる。それは長年そばにいた私には、よーく分かるもん)
ただ、璃々としては亜里沙が語った話の中には真実である部分も多くあった、と睨んでいる。
たとえば、虫除けと言うのは本心からだろう。ぶっちゃけ、亜里沙がいままで散々いろんな男喰いまくってはポイ捨てし、あげく、今寄ってくる男たちのことをせいぜい便所蠅くらいにしか見てないのを璃々は知っている。
なぜかは知らないけれど亜里沙は勤めている自社の男には手を出さない。だが、その分、ほかは割と来る者拒まず、去る者追わずのビッチ・パーフェクトで通してきたのだ。
(昔、興味があったので聞いたことがあるが、会社の男に手を出さない理由は「一度、痛い目にあったから」らしい)
それが今では『家命♡』なもんだから、璃々としては、やはり呪いとか洗脳とか本当にあるんじゃないかと疑ってしまうのも無理ないと思う。
また、亜里沙が家族と仲が悪く縁を切っている上に改姓手続きの準備までしていた、というのも真実なのだろう思う。璃々だって詳しくは知らないが、なにやら相当こじれた関係らしい。
(まったく、亜里沙は一体なに考えてるのかな?)
取りあえずは事前に電話で打ち合わせをした通り、璃々は特に何も言ったりしない。亜里沙のホラ話に肯定も否定もせず、ただ『いつも通り、そこにいてくれればいい』と言われていたことを実践するのみ。
(そこにいればいい! かぁ。まぁ璃々は何があっても、絶対、亜里沙の味方だから!)
「……だから、ごめんなさい。カトリーヌ先生」
璃々はストローを齧りながら、少し困った、しかしちょっと幸せそうな表情でそっと口の中で呟いていた。
一方、覗き穴から隠れて事態を見守っていた守にも亜里沙の嘘自体はすぐに見抜けた。彼の場合、璃々とは違い(一方的に)知り合ってからの期間は短くとも、図らずともここまで共に送った同居生活を通しての実績がある。密度の濃い時間――彼は『亜里沙』という人物がどんなものなのか、この短期間でよ~く理解できていた。
例えばもし、これが正式な同居であれば、守はこんな短期間で亜里沙という人物をここまで深く理解は出来なかったかもしれない。彼女は恋人だろうが家族だろうが親友だろうが、誰であれ心の中を簡単に打ち明けるような人物ではないからだ。しかし、ここには愛する夫しか存在しない(と亜里沙が思っている)この家の中では、彼女はつねにノーガード。好きなように笑い、好きなように呟き、泣いて、怒って、自由に生きていた。そう、彼女が気づいていないこの一方的な歪な関係だからこそ、彼にも分かったことがある。
(亜里沙は、本気でこの家を愛してる。多分……自分自身のことよりも)
だからこそ、この家になにやら意味不明な因縁を吹っ掛けてきたカトリーヌのことを許せないのだろう。真剣に思っている相手のことを理由なく害そうとする人物がいれば、それから必死に守ろうとするのは必然的なことだろう。なにも特別なことなんてないのだ。
(俺は、亜里沙をちゃんと止めることが出来るのだろうか――)
守は久しぶりに、心の底から他者のことで胸を痛めていたのだった。
「そうでしたか……。ぶしつけなことを伺いすいませんでしたわ。話してくださり、ありがとうございます」
「いえ……」
雅は深く頭を下げた。再び正面を切って見た彼女は、怒るでも無くわずか微笑すら浮かべていた。
「……」
気まずい沈黙がながれる。璃々は居心地悪そうに身体をわずかに揺らしている。
「……」
しかしながら、実際のところカトリーヌは気まずさより、もっと切迫した感情を持て余していた。
(――困ったわ)
雅は心の内でため息をつく。
(これでは、当初の予定のようにはいかなさそうね)
雅がバーで幼馴染と呼べる男から聞いていたのとは違い、亜里沙はまともそうな人物だ。
そもそも、雅が彼女に近づいたのは『四万十 勇』の話を聞いたからだ。この雅の幼い頃の友人であり、亜里沙の現在の上司である男が言った言葉を思い出す。
その日、雅は久しぶりに、そう三十年ぶりくらいに連絡を貰いこの男に会いに来ていた。そのとき、例の番組出演の依頼をされたのだが、おそらく男が尋ねたかったのは最初から別件の事だろう。
「二ツ家 亜里沙。あの子は優秀なんだが最近ノイローゼぎみでね。困ってるんだよ。こちらとしても何かあってからでは取り返しがつかないからな」
その前後の話は覚えていない。たしか、業界の裏話、あの女優の愛人が誰それだとか、かの政治家ののっぴきならない性癖など、下衆な話を面白可笑しく酒の肴にしていたはずだ。そんななか、こちらの心の準備などまったく意に介すことも無く、超ド級の爆弾をいきなり放ってきた幼馴染の顔が信じられないようなもの、まるで怪物のように見えたのは覚えている。
「二ツ家……!?」
「ああ……。私の部下で若いながら副支店長なんだがね。突然『家と結婚する』などと言い出してきてね。おまけにハネムーンの休暇申請まで貰いに来たんだよ。最初は質の悪い冗談かと思ったのだがね、これがどうも本気らしく名字まで変えてしまったんだよ」
男は一旦そこで区切り、雅の顔色を窺ってくる。普段は占い師をしているせいか、どんな可笑しな依頼でも――たとえ顧客たちの危険な秘密を聞かされたとしても、鉄壁のアルカイックスマイルを崩さない雅であったが、さすがに今回ばかりは取り乱さずにおれなかった。
ちなみに、亜里沙も通常ならこのような自己を危ぶまれるような言動を他人にはしなかっただろう。だが彼女も人の子。その当時は正常な判断がつかなかった。つまり、結婚したてでフワフワと浮かれきっていたのだ。
「なんで、そんな……」
「ああ、なんでだろうね? ちなみに、これが彼女が引っ越した――いや、結婚した相手の住所なんだがね。これこれ、ここ。君、見覚えはないかい?」
男は一枚の四角いメモ用紙に刻まれた文字を指して笑みを浮かべている。その簡素なメモを青いグラスと共にこちらに渡してきた。そこには、雅もよく知っている住所が記載されていた。
「あ、ああ……まさか……」
「そうだ。以前、君が住んでいた住所だ。これは、どういう偶然なんだろうね。占い師としてはどう視るかね、カトリーヌ雅先生?」
雅は答えられなかった。四万十もそれ以上は尋ねてこない。その代わり――。
「番組の返事、期待しているよ。では、失礼――」
ゆっくりと厭らしい声が耳に流される。男は洒落た腕時計をちらりと見ていた。
今にも立ち去ろうとするその背中に声を掛ける。
「待って、勇くん」
雅は決めた、今度こそあれをこの世から葬り去ると。飄々とした顔がとてつもなく忌々しく感じられる男をはっきりした声で呼び止める。
「その番組、出てもいいわよ。ただし条件があるの。その二ツ家さん、……亜里沙さん? に会わせて頂戴」
男は肩眉をピクリと動かし、ゆっくりと頷いた。
「いいだろう。だが彼女は今、休暇中だ。ああ、ハネムーンではなく精神的な疲れを労うため強制的な休暇をとらせている。また一週間後に連絡するよ。ああ、そのメモはどうぞご自由に」
男は笑顔のままハンティング帽を被りバーの扉を開け出ていった。
「相変わらずね、あの男。まったく、どこまで知ってるのかしら……」
昔から彼には敵わなかった。どこか全て見透かしたうえで、こちらの困る姿を楽し気に眺めてくるような質の悪い癖を持つ幼馴染を想い、雅は深くため息をつく。
「全部知られていたりして――。なんでわたしの近くには、ああいう厄介な男しかいないのかしら? まあ、いいわ。多分あの人、わたしには甘いもの」
勇のことは脇に置き、雅は貰ったメモを眺めてみる。その住所、そして『二ツ家』の文字。ああ、忌々しい。今頃になって、かつて必死になり葬ったはずの悪夢が甦ってくるとは。
「フフフフ、まあ、いいわ。そうよ、甦ったと言うのなら何度でも――」
殺してあげる――、そう物騒に呟いて雅は口許を三日月型に吊り上げた。
そう、雅はこの日ある人物を始末するためにこの家に来ていた。その人物とはかつての夫――『二ツ家 玲』。この家を設計し実際に形にした初代オーナーであり、妻の『雅』旧姓『家鳥 雅』に三十年前にここで殺された男のことであった。