結婚するなら④
「二ツ家くん、少しいいかね?」
亜里沙はオフィスの給湯室の前で、直属の上司『四万十 勇』に呼び止められた。
「はい、支店長。なにか私に御用でしょうか」
亜里沙が支店長とそう呼んだのは、柔和な笑顔が印象的な初老の紳士だった。
この男、人畜無害の爺と見せかけているが大変危険な人物である。好々爺然とした現在の雰囲気からはちょっと想像もつかないが、十数年前までは『仕事の鬼』として社内外でも広く名の知れた人物であり、特に企画に対する半端ない情熱と厳しさは当時の経営陣ですら戦慄させたと聞く。
彼が長年在籍していた東京本店の企画部周辺の人間にとっては、四万十は存在そのものが悪夢であり、彼が納得するまで繰り返されるリテイクの嵐……通称『蟻喰い地獄』と呼ばれる修羅場はあまりにも有名な逸話だった。
その後、多少角が取れ丸くなったのち、関東支店の支店長としてこちらにやって来てからも、その鉄腕自体にはいささかの衰えも見えず、『改心した赤鬼』『鬼仏』『鉄人40号』『リ・メイク四万十』など数々の異名で呼ばれている。
そんな上司のもと、今春から関東支店の副支店長に昇進した亜里沙は、鬼時代の四万十を知らずにいるため特に苦手意識など持ち合わせていない。むしろ亜里沙のなかでは、四万十は数少ない尊敬できる人物であり、彼の下で働くことが出来てラッキーとさえ思っていた。
「実は君に頼みがある。会ってもらいたい人物がいるんだ。今日は残業せずに定時であがったら、このホテルに立ち寄ってほしい。構わないかな?」
そう言って一枚の名刺を渡される。住所が書かれたホテルの名刺だ。世界的にも著名な一族が経営する三ツ星ホテル――そこはちょうど先日、璃々が手土産にと持参したあの苺のショートケーキを監修したパティシエールが在籍しているホテルだ。
「……お相手は、どなたでしょうか?」
取りあえず相手の名前を先に聞く。すると、四万十は笑顔でもう一枚、懐から名刺を取りだす。亜里沙は胡乱げな顔でそれを受け取り、裏を見た。
「『カトリーヌ 雅』? 占星術、タロット占いの第一人者。的中率200%! あなたの前世、占います……」
やたらキラキラした名刺を眺め、声に出して読んでみる。よりうさん臭さは増したようだ。呆れ顔の亜里沙を見ても、なおニコニコと笑顔を崩さぬ四万十は、相変わらず何を考えているのかが掴みづらい。年を経た鬼はどうやら狸に進化するらしい。
ダーウィンの進化論の絵、北京原人から人間へと変わっていく様を思い出しながら亜里沙は答えた。
「あー……、支店長。実は私、今日は予定が――」
あります、と言い終わる前にまたもや名刺を渡される。いや、違う。これは名刺ではない。
「これは、ホテルで開催中のケーキバイキングのクーポン券……?」
「偶然、取引先から貰ったんだが甘いものが苦手でねぇ。期限も間近だし、もったいないから二枚とも君にあげるよ。それと、これも。帰りは遅くなるだろうからタクシーを使いなさい」
ポンっとケーキバイキングのクーポンの上に置かれたのは、まだ未記入のタクシーチケットだ。亜里沙はため息をひとつ吐く。
「分かりました。残った仕事を加藤君に引継ぎしだい、ホテルに向かいます」
「待ち合わせはホテルの一階ロビーだ。先方様への電話連絡も忘れないようにね」
お土産はたぬきの人形焼きにしよう――そう『たい焼きは頭から齧る派』の亜里沙は心に決め、笑顔のまま去りゆく男の背を見送った。
手のひらの中で真っ二つに折れ曲がってしまったキラキラした名刺を眺め、ため息を吐く。
本日の予定――帰宅後に璃々と一緒に取り掛かるはずだったネズミの駆除は、どうやらキャンセルするほか無くなったようだ。
「と、言うわけで、今日は別に来なくてもいいから」
非常扉を開け、錆びついた階段の手摺を掴み全身に風を受ける。ぬるい風に浚われた髪を押さえつつ亜里沙はこう言った。すると、予想通り電話の向こう側から甲高い声がキャンキャンと響いてくる。
「嘘っ! 亜里沙、カトリーヌ先生に会うの!? 私も会いたい!!」
ミーハーな友人はすぐにそこに喰い付いてくる。しかし、これは非公式とはいえ立派な業務。いくら元社員であろうとも連れて行けるわけがない。
ちなみに最近、亜里沙が勤める広告代理店は忙しい。したがって、同じ会社に勤める(部署は違うが)璃々の旦那も大変忙しくしており午前様も多い。実際、本日もその連絡が来ていたし、そのため亜里沙の家にお泊りしてネズミ退治に付き合う予定だったのだ。
「無理に決まってるでしょ」
「え~~、そんなぁ~~。ブーブー!! ちょっとくらい、いいじゃないの~! わたし最近、高次くんが外泊ばっかだから、ちょっと素行とか占って貰いたいのに~」
遠い目で璃々の欲求不満気味のブーイングを右から左に流しつつ、視線は東の方角へと向けてみる。ビルとビルの合間、隙間を覗き込むように目を細めてみたが、さすがにここからあのホテルを肉眼で捉えることは叶わなかった。
あれからすぐに会社のPCを使い調べたが、カトリーヌ雅とはいま口コミで話題沸騰中のカリスマ女占い師のことらしい。最近では女性誌でもたびたび特集が組まれるほどの人気っぷりで、いまのところテレビ出演はまだゼロであるが、近年の人気急上昇ぶりからいって、この業界が放っておくはずがない。
「はあ~、占い師なんて興味ないんだけどな。私だって、代われるものなら代わってほしいわ」
謎の占い師と会うくらいならば残業して仕事を少しでも片付けておいたほうが百倍自分のためになる。
「そもそも、なんでコマーシャル部門の亜里沙が会うの?」
「……さあ?」
あの狸爺の魂胆はだいたい分かっている。他社を出し抜くためには、あらゆる伝手を使い誰より先に話題の人物を押さえておく。それはとても重要なことだ。
しかし占い師というのはある意味、大変予測不能で厄介な奴らだ。彼らの中にはすわ演技かと思いきや、意外も意外、案外天然ものが数多く存在する。こちらの意図を全く解さず、何か別の理屈で突っ走る。そんな連中もたまにはいる。
たしかに、この業界では他に類を見ない強烈な個性の持ち主は歓迎される。奇天烈な人間が重宝されることもある。だが、それもこれも限度がある。一線を超えるほどの爆弾素材であるならば、いまの御時世少しばかりよろしくない。
そのため実際会ってみて、使える素材か否か。生で食えるのか、それとも調理が必要なのかを確認する。その作業を亜里沙にしろという事であろう。
だが、璃々の言う通りコマーシャル部門の亜里沙を見極めに使うのも妙な話だ。
将来的にコマーシャルで使う可能性もわずかに……まあ、ゼロではないだろうが現時点ではまず、あり得ない。あれは知名度、イメージ、関連性などなど複合的に起用できるか判断するのだ。それに伴い動いていく金額もすさまじい。だれも占い師など自社のイメージ広告に使わない。候補に上ることすらマレなのだ。
「なんでも先方の御指名らしいから仕方がないわ。あ~あ、私も早く専業主婦になりたいな」
亜里沙はそう独りごち、返事を待たずに電話をきった。
某、ホテルの一階ロビー。すでに夜七時を過ぎラウンジはとっくにクローズしている時間帯だ。そこで、合流した二人は最上階にある落ち着いた雰囲気のバーに場所を移すことにした。
「まあ。それでは、いまのお仕事は大学卒業後ずっとなのね? その若さで副支店長なんて素晴らしいことだわ」
「ありがとうございます。ですが私など、支店長の四万十に比べればまだまだです」
マティーニを飲みながら上品に微笑む婦人に対し、亜里沙もまた営業用の微笑みを返す。
亜里沙は内心、わずかに驚いていた。イメージしてきた人物像と180度違う。
雑誌の特集に載っていた、ターバンだかなんだかを怪し気に頭に巻きつけて、やけにヒラヒラしたローブを身に纏い馬鹿でかい水晶に手をかざしている女……典型的なザ・占い師というような最上級のうさん臭さというものが、目の前の赤いカクテルドレスを着た女性からは見受けられない。むしろ見た目は上流階級の有閑マダム、所作にもいちいち品がある。
もちろん、亜里沙は心の内を表に出すようなヘマなどしない。あくまで表面上は穏やかに、さり気なく観察を続ける。当たり障りなく世間話を交えつつ、三杯目のカクテルに移ったときのこと。カトリーヌ雅がこう切り出してきた。
「勇くんから今度、○○テレビ制作の心霊番組の監修を頼まれたのよ。ディレクターの方と彼はご友人なんですって。向こうの人がちょうど、手近なところで占い師や霊媒師を探していたみたいなの」
「そうでしたか。もしかしてカトリーヌ先生と四万十――支店長は、何かお知り合い同士でしたか?」
至急の件だったのか、亜里沙は納得する一方で一瞬、ソレが支店長の下の名前だとは気がつかなかった。随分、親し気に呼ぶのだなとカトリーヌ雅に目を向ける。
「ええ、そうなの。……実は古馴染みでね。昔、わたくしが16歳で家を出るまで、わたくしたち住まいがお隣同士でしたの。――あらやだ、そんな先生なんて仰々しいわ。亜里沙さんはわたくしの占いを頼りにしに来たわけでもないのですから、そんなふうに呼ぶのはお止しになって」
少し照れたようにカトリーヌ雅は、まだハリがある頬を赤らめた。
一体何才くらいだろうか、40-50代? 年齢は公表されていない。だが、四万十と親しげな様子から彼と同じ世代かもしれない。まあ、本名すら非公開だし、亜里沙との初対面の挨拶時も『カトリーヌ雅』としか名乗らなかった。
人としてはどうだか知らないが、素材としては外見もミステリアスな設定もテレビ的にはグッドと言えるだろう。
亜里沙は頷き、先生という呼称は今後使わないようにする。
「そうなんですか。では、カトリーヌさんと支店長は幼馴染、というわけですね。支店長も隅に置けませんね、こんなお美しい方と青春を共になさっていたとは。――それで、カトリーヌさんはお引き受けなさるのですか?」
その依頼を――そう亜里沙が訊くと、少しの間、懐かしそうな表情でカクテルグラスのフチをなぞっていたカトリーヌ雅は数回、瞬きを繰り返した。まるで急に過去の夢から目覚めた、とでも言うかのような表情で頭を軽く振り、真剣な目で亜里沙を見返してくる。
「それが……迷っているのです。わたくしの占いや霊視はあるきっかけによるもの。実は最近いつも見る夢がありまして……不吉な夢なのです」
「夢……ですか? ですが、いくら不吉な夢と言っても、ただの夢にすぎないのでは。カトリーヌさんは最近寝る間もないほどご多忙でしょうから、きっとお疲れなのでは」
いきなり話の本筋と離れていき雲行きが怪しくなってくる。
これまでのところ、あまりにもマトモ過ぎて忘れそうになっていたが、この人も亜里沙には理解できそうにないスピリチュアルな世界とやらに傾倒する人種だ。はたして説得が可能であろうか?
亜里沙は自分が家と結婚する、などとスピリチュアルの極みのようなことをしておきながらも自分のことは棚に上げ、頭を回し始める。
そもそも支店長と幼馴染という気安い関係ならば、わざわざ亜里沙の人物評など不必要では。亜里沙は心の中で首をひねった。
そのとき、突如、亜里沙の右手をカトリーヌ雅の手が覆ってきた。両手でしっかりと握り込まれる。驚いて顔を上げると、
「ただの夢ではありません! そして、夢の中にいつもあの家が現れるのです。あの家……『二ツ家』家の姿が、はっきりと」
そう断言し、亜里沙に言い聞かせるようにカトリーヌ雅がゆっくり頷く。今度こそ驚きで固まった亜里沙をよそにして、彼女はこう続けた。
「今回、わたくしは勇くんに交換条件を出しました。貴女をお呼びしたのはその一つです。『二ツ家』は呪われております。貴女も危険です。どうか、その呪いを解くため、わたくしに協力させてください」
カトリーヌの瞳に嘘の色はない。本気で、本心で言っているようだ。
「わたくしを『二ツ家』家に連れて行ってください。呪いの連鎖はここで断ち切るべきなのです。お願いです、信じてください。二ツ家亜里沙さん!」
解放された右手の薬指に嵌め込まれたプラチナリング。それがバーの照明のもと妖しく照り返していた。