結婚するなら③
――コツ……コツ……コツ……
――カツン……カツン……カツン……
――はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……
暗闇のなかで頼れるのはか細い灯り、ただ一つ。
スマートフォンの青白いLEDライトで見えるわずか10センチ先の世界。
――コツ……コツ……コツ……
――カツン……カツン……カツン……
――はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……
ガサガサガサッ!!!
ピタリと足音が止まる。
暗闇の中からほっそりとした白い腕が浮かび上がってくる。すると、周囲がわずかばかり青白い光で照らされた。その光により姿を現したのは、二人を取り囲むように置かれた黒い山のような物体。
ひぃふぅみぃ……いくつもある黒い小山は、どうやら白い布らしきものを被せられたゴミ――前の住人が残した置き土産のようだ。
カサッ……
視界の端で一つの山が揺れる。途端にその辺りが青く照らされる。二秒ほどの沈黙。再び揺れた布の陰、何者かが勢いよく飛び出してくる!
「――……!!」
音を立てて落ちていくスマートフォン。床でクルクル旋回しながら、ストロボ写真のように景色を切れ切れに映しだす。
立ち竦む二人の背後から小さく控えめにソレが聞こえた!
はっきり聞こえた! 鳴き声だ!
チュウチュウチュウチュウ!!!
「……」
「……」
「……ネズミね」
「……ネズミだね。一瞬見えたけど、まだ子供みたいだったよ」
二人はそろって息を吐きだす。
「なによ、くだらない。結局ただのネズミじゃないの。それを殺人鬼だの悪霊だのと騒ぎ立てて。ほんとにお騒がせ娘ね、アンタ!」
「なによ~! 自分だってビビってたくせにーー!」
いつの間にか腕を組んで歩いていた亜里沙と璃々。
フンっとそっぽを向き、さっと腕を振り解いたのは亜里沙のほうだ。
「私がビビるわけないでしょう。なんたってこの家は私の夫なのよ。そして、ここは屋根裏部屋といえども我が夫の一部。優しい彼が愛する妻を傷つけたりするわけないじゃない」
「え~。でもでも、『二ツ家さん』の屋根裏部屋って雰囲気悪くない? 意外と猟奇的なとこあったりして……って、あそこのあれってシルエットからしてマネキン人形じゃないの。なんだってそんなもんが一般家庭の屋根裏部屋にあるのよぅ。そんでもってあっちは、なに……わお、ピアノじゃん!」
璃々は相変わらず、亜里沙の夫兼住宅であるこの家を『二ツ家さん』と呼んでいる。本人曰く、親友の夫に対する敬意を表しているらしいので、亜里沙も文句を言ってこない。
彼女は特徴的なシルエットの布をめくり上げ、しげしげと有名なロゴマークを眺めた。そしてホコリにはまみれているが、意外とお値打ち物かも知れないグランドピアノの鍵盤蓋をそうっと開ける。
「ぎゃーーー!!」
「今度はなによ!!」
亜里沙は急に鍵盤蓋を落として尻餅をついた璃々のそばに行き、なんのためらいもなく蓋を開ける。するとそこには小さな蜘蛛が一匹いた。
「ちっさな蜘蛛ね。しかもコレ、もう死んでるわよ」
亜里沙は呆れた目で友人を見下ろし、蜘蛛の死骸をペッと捨てる。彼女は前回、蜘蛛に関してちょっとした心的外傷を負っていた。後ろでヒィっと言う情けない声が聞こえるが構わずピアノのドの部分を押さえてみた。
――ボーーーン……。
あきらかに外れた音が屋根裏に響きわたる。
ちょうど時刻は午後6時。黄昏時とも呼ばれ古来から境界の時間として気をつけるべき時間帯。窓のないこの部屋はいつだって真っ暗闇だが、それでも尋常ではない気配が周囲に漂う。
亜里沙と璃々。二人はお互いの顔を見合わせて頷き合った。
「殺人鬼も幽霊もいない。なにもなかったわ。はやくここから出ましょう」
「ああああ! 待って、置いてかないで~」
「うっとおしいわね、腕取らないでよ。アンタ、さっきから横でハァハァと鼻息煩いのよ!」
「ええええっ! 変態みたいに隣で息荒くしてたのは亜里沙じゃない! いくら私が可愛いからって~!!」
「誰が変態か! アンタいい加減、黙りなさいよ!」
漫才のように罵り合いながらも素早く、息の合った歩調で屋根裏部屋を後にする二人。
その騒がしい足音が聞こえなくなったところで、山のひとつからするっと布が滑り落ちる。
「ぶはっ! はぁ、はぁ、はぁ……。マジかよ……!! 超あせったぜ……」
先程まで布を被せられていたマネキン。それは実はマネキンなどではなかった。
自称、この家の先住民。住所特定・無職の元ホームレス。モジャモジャお鬚がチャームポイントのおじさん。なに? まだ、おじさんではない? ……年齢も不詳な男。その名も『二ツ家 守』。
偶然、かの家の初期オーナーと同じ名字をもった不法侵入者はほっと胸を撫でおろす。
「ビビらせんなよ、クソども。いや、別にビビっちゃいねえけどよ!」
膝をがっくがくさせながらも強がっている。大変、見栄っ張りな男だ。その男の足元、小さく鳴き声がする。
「おっ、チュー助! さっきはありがとな。助かったぜ」
守はしゃがみ込み、控えめに鳴き声をあげる子ネズミを持ち上げて自分の手の平に乗せてやる。子ネズミは男のされるがまま大人しくしており、その小さな頭を撫でてやると気持ちよさそうに目を閉じる。
「あいつら、ほんとしぶといよな。いままでの住人なんて三日保たず逃げて行ったのによ」
守はチュー助と一緒に用心深く女たちの後を追って一階に降りる。もちろん、鉢合わせの危険性がある表面は使わない。階段の踊り場から隠し扉に入り、この家の裏面『裏二ツ家家』と呼ばれるこの二重構造をした家の裏側住居に出る。
そう。この家はもともとが表と裏、二つの居住区域が存在している。守は勝手にこの家をミステリーハウスと名付け『表二ツ家家』と『裏二ツ家家』、二つの区域を分けて呼んでいた。
最初に守がそのことに気づいたのは、ただの偶然であった。それはこの家に初めて不法侵入したときのこと。偶然、手を突いた壁が奇跡的に隠し扉の入り口であったのだ。守はそのまま家の中に入り込み、しだいに入り浸るようになり、やがて家の主になっていった。
この裏面にも表面程ではないが、しっかりした居住スペースが確保されており、隠し部屋・隠し通路はもちろんのことバス・トイレ、ベットの置かれた寝室、書斎等が存在していた。そしてそれらが要所要所で表と裏、複雑に繋がりながら点在している。
守は長い時間をかけ、一つ一つその隠し通路やからくり扉を把握していった。この家を知り尽くした男――それが二ツ家守なのだ。
とはいっても、やはり正式な住人がいなければガス・電気も使えない。だが、雨水をためて流せばトイレも使用できるし、この家にあった缶詰などの保存食はすでに集めて隠してある。路上生活に比べれば実に優雅で最低限度の人間らしい、まともな生活が出来ているのだ。だから、守には発見されるリスクを負ってまでこの家を誰かとシェアする気など毛頭ない。新たな住居人が現れるたびに様々な嫌がらせをして、ことごとくを追い出してきた。
なので、二ツ家亜里沙が移り住んできた当初も、余裕の表情だったのだ。
「フン。俺は(嫌がらせの)プロだぜ、お嬢ちゃん。さっさと泣きべそかいて出て行きな」
不敵な顔で新たな入居者に(聞こえないよう)言い放ったのは、すでに遠い日のこと。
「やるな、お嬢ちゃん。だが、その強がりがいつまで持つかな?」
「いや、感心するぜ、お嬢ちゃん。なかなか、やるじゃないか。フッ、それなら少し本気出すか。ちびってしまっても知らないぜ?」
「フッ。やるな。……いいだろう、いまからお前を俺のライバルと認めてやろう。遊びの時間はこれでお終いだ、本気で行くぞ!」
「……チッ!」
「…………クソッ!」
「……ちくしょう、なんで出て行かないんだ!」
「……いやだ……ここは俺の家なんだ。おネガい……デテイッテ……」
「…………かゆ…………うま…………」
あ……ありのまま今起こったことを話すぜ。難易度イージーでやり始めたら突然ベリーハードになっていた。何を言っているのかわからねーと思うが、以下略。
守は予想外の強敵に心が折れかけていた。というか、すでに折れていた。
だが、守はけっして諦めない。なぜなら一人ではないから。彼には心強い友がいる。そう、子ネズミのチュー助。かの友とは第一次缶詰戦争を経て、何故か心が通じ合い真の友情で結ばれた運命の相棒同士。
その彼が慰めるように寄り添ってくる。
「分かってるって。いまは辛抱の時だって言うんだろう。地固めをして待っていれば、いずれあの化け物を追い出すチャンスは巡ってくる……。そうだろう?」
手の平の子ネズミが守に応えるかのようにチュウと鳴く。
「はははっ。まあ、水道・電気が使えるようになってからは、毎晩お前を風呂に入れてやることもできる。せいぜいあの女、上手く利用しような」
「チュチュチュー♪」
「なんだよ、急に。照れるじゃないか。……おう、俺達は最高の相棒でいつも一緒だ。な、チュー助」
裏面で守たちがイチャコラ友情を確かめ合っているなか、表面の亜里沙たちも茶の間で親交を温めていた。
いつも通り二人はお茶とお茶菓子をちゃぶ台にのせ、くっちゃべっている。ちなみに今日のお茶菓子は璃々持参のデパ地下グルメ。真っ赤な苺が乗った有名パティシエ監修のショートケーキだ。
「だから、許せないのよ」
二人の後を追って一階について来た守は、苺のショートケーキに目を奪われつつ彼女たちの話を盗み聞く。
(いいな、苺のショートケーキ。……社長時代の五年前から食べちゃいないな)
隣ではチュー助も苺のケーキにソワソワしているようだ。守はいまにも飛び出していきそうなチュー助を必死に押さえ、小声で言って聞かせる。
(堪えろ、チュー助。あとで『お供え』されるだろうから、そのときちゃんと分けてやるから!)
説明しよう、『お供え』とは亜里沙が用意する夫への食事のことをさす。
守は以前、亜里沙が仕事でいない午前中や、眠りについている深夜を狙い、冷蔵庫をこれみよがしに漁ったことがある。これは食べることだけが目的ではなく、あくまで怖がらせてやろうとしてやった、嫌がらせの一つだ。
だが翌朝、亜里沙は家の大黒柱に向かって土下座をしていた。泣きながら、「ひもじい思いをさせてごめんなさい! 私はなんて至らない妻! 許して、あなた!!」そう言ってヒシっと太い柱に抱きついていた。
守はあまりの奇行にドン引きしてその様子を眺めていたが、なんとそれから『夫への食事』を毎日毎食、亜里沙が欠かさず用意するようになっていた。それは毎朝この家の神棚に捧げられる習慣へと変化する。そして用意されたそれを守が食う。(チュー助も)
(良心は痛まないのか、だと? はぁ、なに言ってんだ。食わずに腐らせるほうが良心が痛むってもんよ)
守はそう自身に言い聞かせるように毎度箸を動かしている。
さすがに最初は毒でもはいってんじゃないのか? と疑いつつ食べていた守だったが、なにせ久しぶりの手料理だ。思わず落涙し、随分しょっぱい味噌汁にしてしまったことは一度だけではない。朝・夜は神棚へ、昼はそのまま台所に置かれた食事を毎日欠かさず与えられた男と子ネズミは、自覚症状がないがだいぶ胃袋を亜里沙に掴まれていた。
ちなみに作った食事が消えていた亜里沙の喜びようには、やはり一人と一匹、かなり引いてしまった。が、少しは罪の意識が減ったのも事実であった。まさか、亜里沙も夫への食事が不法侵入者の男とネズミに食われているとは思うまい。多少の気まずさが守にもあったのだ。
そんなこんなでうす気味が悪い女だがルームメイトとしては有りかもなと守は考え直していた。
(かなり……いや……だいぶ気持ち悪いけど)
だが、世の中そんなに甘ッチョロくは出来ていないという事を守は再び思い知らされる。苛立った女の声がこちら側にも届いてくる。
「許せるわけないじゃない。この家はあたしのもの、あたしだけのものなのよ。それなのに、あの子ネズミときたら! 一体、だれの許可を許可を得て人の旦那の体に住み着いているのよ。なんて厭らしい子! まったく、親の顔が見てみたいもんだわ。ほんとう……そんなこと……絶対、絶対、許せない!!」
亜里沙はフォークをブスッと苺に突き立てる。真っ赤な汁がじわりと白い生クリームを汚していく。
「――殺すわ、一匹残らず。ウフフ、親子ともどもこの私自ら駆逐してあげる。見ていなさいよ、薄汚いドブネズミども。病原菌の保菌者め! 害獣がぁ! 私はダーリンのためならどんな残虐非道な行いもできるの。フハハハ、ネズミごとき畜生にくれてやる慈悲など欠片も無いわ!!!」
そう言ってフォークに刺さった苺を口に放り込み、亜里沙は唇の端についた生クリームをベロリと舐める。高笑いを続ける親友を横にして、璃々はテレビに夢中になっていた。それは有名俳優の不倫発覚の一報だった。
それを青い顔で聞いていた一人と一匹。
(ななななな、……なんだと!! なんて恐ろしいことを! 野蛮人! 悪魔! やはり地獄からの使者か、あの女! ん、どうした相棒!?)
男の手の平に囲われていた子ネズミが涙目で震えている。なにかを訴えるようにつぶらな瞳で守を見上げて小声で小さくチュウと泣いた。
(相棒……大丈夫だ、心配するな。チュー助のことは俺が必ず守ってやる! 奴が動くその前に、すぐにでも俺がこの家から追い払ってやるからな。ん? そんなことはない! お前はドブネズミなどではない。うす汚くもない。病原菌なんて持っていない。そうだ、お前は誇り高き獣!! ミュー●の石鹸の香りがする清潔で素敵なイケてるネズミだ。あっ、痛! 待て、逃げるな。待ってくれ、行くな、行かないでくれ、相棒ゥ――――――!!!)
「ん? なんか物音がした気が……」
頬杖を突きながらワイドショーを見る璃々が頭を上げると、亜里沙は眉をひそめて舌打ちをした。
「ちっ! きっとあの忌々しいネズミね。……やはり、早くネズミ捕りを大人買いしてこなくてはね!」