結婚するなら②
――おかしい。
男は焦っていた。
軋む不安定な足場を、一歩一歩綱渡りするかのように慎重に歩いていく。
――やはり、おかしい。
ベストポジションに辿り着いた男は、ゆっくりとした動作でしゃがみ込む。
地に手をつき、腹ばいになって床に這いつくばる。
男は板と板の間、ほんのわずかな隙間に目を近付けて覗き込む。
滲む汗。荒い息を整えるため、男はひとつ深呼吸をする。
滴る汗がまるでデスマスクを採るかのように床板の色を変えていく。
「何故だ。……何故っ!」
目にした光景は男に激しい怒りと動揺を与え、その身を震わせる。
上体をおこし、きつく目をつむり両手を握りしめて天を仰ぐ。
――そして、叫んだ(ただし小声)。
「何故、お前は安らかに眠れるんだーーーー!!!」
男の足元――床板を挟んだ向こう側には女の平和な寝顔があった。
うすい唇からはだらしなく涎がこぼれ、大きく枕を濡らしている。蒸すような熱帯夜。はだけた胸元からのぞくのは乳白色の大きな丸み。一般に男の夢と浪漫と呼ばれるものが胸一杯に詰まっている。
だが、男は悔し気に唇を噛みしめていた。喉から唸り声のようなものがでている。きっとコレはなにかの間違いではなかろうか――そう言うように、再度しっかりと眼下の光景を男は観察する。だがしかし。
どう見ても、快眠! スヤァと安らかに眠っておられる。
男の日々の努力。それがガラガラと崩れる音がした。
男の首がポキリと力なく下を向く。
ホコリっぽい屋根裏。そこに忍者のように潜む男。
やがて彼のお尻の近くにネズミが一匹やって来て、意気消沈している男をそっと慰めるようにチュウと鳴く。屈辱の敗北。その痛手にしばし身動きが取れぬようである男を見つめ、そしてガブリと尻を齧る。
「あいてッ」
男は今日のところは引き上げることにした。
そこから男の悪戦苦闘の日々が始まる。
「フフハハハ! どうやら今回の住居者は相当、鈍感な奴らしいな。だが、コレならどうだ? ひとたまりもないだろう。ガタガタ震えて布団をかぶって怯えるがいい。その哀れな姿――俺の目には既にくっきりはっきり浮かんでいるぜ!」
男が用意していたのは『セミの抜け殻』。茶色くて、足が6本もあって、なんとなくキモイ奴(男の感想)。
「ふん、これならばあの女も悲鳴をあげて逃げ惑うだろうな」
しかも新鮮。先程取れたばかりの取れ立てほやほや。
昨日、真夜中の庭の桑の木で見つけたセミの幼虫。ソイツは地上から30センチほど登った木の幹にしがみ付き、必死で脱皮を始めていた。男はそのセミをたっぷり二時間は見守った。背中の殻を破りじょじょに出てくるその透明な羽。
「知っているか? セミの身体は脱皮直後は白いんだぜ。今時の餓鬼どもは知らんだろうがな……」
ニヒルな笑みを浮かべ呟く男の両手には、溢れんばかりにソレが抱きかかえられていた。かく言う男も実は先程までその事実を知らなかったようだ。
両手を握り、ずっと励まし続けたセミの幼虫。儚い命を燃やすかのようにして、彼が長い苦闘の末に脱皮に成功し夜空に飛んで行ったとき。「命ってすげー」そう呟いた男の目には、うっすら涙が浮かんでいた。
以後、それまでは嫌そうな顔してノロノロ集めていたセミの抜け殻を急にキラキラした目で拾いはじめた。なんとも単純な男である。あまつ、男は力尽き仰向けに倒れていたセミを集め、庭の隅っこに埋め直した。彼はそこに小さなセミの墓を作っていたのだ。
ちなみに、死んでるかと思っていたセミが急に動きだし、しょんべんを引っかけられたときも男は泣いていた。
「俺はセミさんのお力添えを受け、お前を追い出す! 何故なら、すでにこの家は俺のものだからだ。それを俺様になんの断りもなく、あとからノコノコやって来ておきながら横取りしようなんざ、図々しいにもほどがある! そんな無法は誰が許そう、俺が許さん!」
これこそ、かの有名な『友情・努力・勝利』ってやつだろう。
最近は『(強者の仲間の)友情・(圧倒的な)血筋・(ご都合主義の)勝利』ってのに感じることもあるが、それはきっと俺が大人になっちまったせいだろう。
(とにかく、そのためにこの抜け殻をこうやって、こうしておけば――)
男は掻き集めた抜け殻を玄関まで持って歩く。
築50年。老朽化し始めた家の廊下はささいな事で音がなる。男は抜き足差し足でいつもの倍は時間をかけ、ゆっくり慎重に廊下を歩いた。そして玄関に辿り着くと、そこには一足の靴がある。
真っ赤なパンプス。――間違いなく新しい入居者の物だろう。
男はそのパンプスの中に、あろうことか抜け殻をこんもり盛っていた。
「どうだ! これを見てキャーっと悲鳴をあげることだろう!! もし万が一気がつかない……そんな超鈍感さんが相手だったとしても抜かりはない。急いで足を入れた途端、クシャァ~と踏む新感触。ギャーっと悲鳴をあげて逃げ惑うこと間違いなし! ちなみに、もし俺がそうなったら気絶するから。ちびって泡吹く自信あるから!!」
男は満足げに立ちあがり、完成した『セミの抜け殻盛り、パンプスに添えて~』を見やる。しかし、少し考えたのち再び玄関にしゃがみ込む。
「やっぱ……ちょっと、やり過ぎかもな。相手は曲がりなりにも女だし。本気を出し過ぎるのも大人げないか……」
小さく背を丸め、パンプスに入れた抜け殻を丁寧に取り出していく。そして、ソレを再び抱えて玄関の扉の前に持って行く。そして今度はピラミッドのように高く積み上げ始めた。
体育祭の組体操の人間ピラミッド。あれのセミバージョンである。
「こんなもんか」
じゃーん、そう言いながら男は再び満足げに立ち上がる。目の前には扉越しに朝日を浴びて輝く、作品名『セミに寄せて、いまピラミッドをおもふ……』が誇り高くちんまりある。それを見て、納得したように男は頷く。
「よし! これであの女もエジプトパワーでこの家から逃げていくはずだ」
パンパンッと手を払いながら、ドヤァと得意げな表情のこの男。彼はこの家、『二ツ家』さんちの居候。自称するのは先住民。モジャモジャっとしたお髭がチャームポイントの押しかけ自宅警備員。
つまり、その正体は、住所特定・無職。この家に不法侵入してそのまま住み着いてしまった一文無しの元ホームレス男だったのだ。
図々しいとか、無法とか、なにやら先程言い放題ではあったが、全くもってブーメランがよく似合う男なのであった。……ちなみに『友情・努力・勝利』は似合わない。
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一方、それではこの家の正式な持ち主といえば――。
「じゃーん! 見て、コレ」
亜里沙が得意げに璃々に見せたのは、四角いショーケースに鎮座した複数のセミの抜け殻だ。縦30センチ横30センチの透明なケースの向こう、なぜか綺麗に三角形を保って積まれていた。
「うげっ。なに、コレ。セミピラミッド?」
璃々は手渡しされた透明な箱を覗きみる。
適当なようで適当ではない。よく見てみれば不揃いなセミの抜け殻を大きさごとに選別してあるのがよく分かる。大きいものを土台として使い、上にいけばいくほど小さなものを乗せてある。しかも横から見ても一直線に数ミリのズレもない。
「(これを作った奴は神経質で嫌な奴だ。絶対、お友達にはなりたくない!)」
直感的になにかを感じ取った璃々は、嬉しそうな亜里沙の顔を見てなにも言えない。
だが、はたして子供にコレが作れるのだろうか? そう疑問に感じているのだろう、謎のこだわりと情熱が垣間見えるソレを抱え、璃々は首をかしげる。
「どうしたの。誰か親戚の子にでも貰ったの?」
璃々はショーケースを持ち上げながら、亜里沙に尋ねる。
すると亜里沙はティーカップ片手にニコニコしながら、こう言った。
「それはね、マイ・ダーリンからのプレゼントなの! 一週間前の朝、気がついたら玄関に置いてあったの。素敵でしょ。ダーリンって手先が器用なのね。イヤ~ン、亜里沙、惚れ直しちゃう♡」
「――はあっ!?」
思わず璃々はショーケースから手を離す。
小さな箱は重力に従って落っこちていく。
――パリンッ
耳障りな音と同時に破片が散らばっていく。
セミピラミッドがふんわりと浮きあがり、ついでタワーの頂点からひとつ、抜け殻が転がり落ちていった。
「あっっっぶな!! あぶな! 危ないでしょーー! なんてことするのよ」
「あっち、あっち、熱~い!!」
無事だ。なんとかショーケースは亜里沙が抱え込んでいた。彼女はとっさに持っていたティーカップを投げ捨て、スライディングキャッチに成功し事無きを得たのだ。亜里沙は助かったショーケースを抱きしめ涙目でいる。
代わりに隣に投げつけられたカップの中身が璃々を襲う。この暑さの中でなぜ熱々紅茶!? とでも言いたげな璃々を冷めた目で見た亜里沙は、ケースをそっと戸棚の上に置くと、無言のまま台所のほうへと消えていった。
茶の間に残された璃々はしょげた顔でケースを見上げる。145センチしかない璃々には到底届かない場所に置かれた抜け殻たちが、一斉に璃々を見下ろしてきたような錯覚に陥ったかのようだ。空虚な目が「知っているか? セミの爪は意外と鋭いんだぜ」と語っている。いや、気のせいではない。実際、どこからともなく男の声が聞こえてきた。
「――ッひぃ!!!」
後ずさりして部屋の隅でガタガタ震えていると亜里沙がようやく戻ってくる。
「……何してるのよ?」
相変わらず冷めた目だったが、手にはタオルと雑巾、そして氷嚢を持っていた。素早く璃々は彼女の足元に縋りつく。
「亜里沙ぁ~!! ごめんなさい~、許して~」
面食らった様子の亜里沙は、呆れた顔をしながら氷とタオルを差し出してくる。
「まったく。気をつけなさいよね! ほら、早く拭って冷やしなさいよ」
二人であらかた後片付けを終えたあと、亜里沙は戸棚から再びショーケースを降ろしていた。
「あっ、もう!! 一個落っこちちゃってるじゃないのよ」
プリプリしながらケースをあける亜里沙を見て、璃々は恐る恐る聞いてみた。
「ねえ、おかしくない、それ。二ツ家さんじゃないって。誰か近所の子供の仕業じゃない? 驚かせようと悪ガキが作ったんじゃないの」
璃々がこの家を訪れるのはすでに数度目だ。彼女はいつからかこの家のことを『二ツ家さん』と呼ぶようになっていた。どうやら、親友をここまで骨抜きにしてしまった彼(?)に敬意を表してのことらしい。
ちなみに、亜里沙も『二ツ家 亜里沙』に正式に名前が変わっている。なんでも改姓手続きなるものを家庭裁判所でしてきたらしい。どういうマジックかは知らないが、本来、条件があり面倒くさい手続きのはずのそれを、結婚せずにいとも簡単にクリアしてきたようだ。さすがの執念を感じる。
……そんな彼女でも、夫欄に『家』と書かれた結婚届を受理させることは出来なかったらしいが。
「違いますー。だって、コレは鍵がかかった玄関の内側に置いてあったのよ。つまりこの家の内部のものの犯行なの。この家のもの……それは私かダーリンしかいない。ということは、これは愛ある夫から妻へのプレゼントで間違いないのよ」
自信満々にクロックスより穴だらけの超理論を披露する亜里沙。そして、続けて言う。
「それに、これだけじゃないからね」
「えっ……」
璃々は嫌な気配を感じながらも聞き返す。
「それって、どういう……」
「このセミタワーの翌日にまた玄関にあったの。今度は蛇の抜け殻がね。でもタダの抜け殻じゃないわよ。前に庭で見たんだけど、どうもこの家には白蛇がいるみたいなの。白蛇って知ってる? 神様の使いで抜け殻持ってたら運気が上がるのよ。特に金運。きっとダーリンが私のために持ってきてくれたのよ。もう、優しいんだから~!」
そのほか、毒々しい色だが焼いて食べるとめちゃ美味い幻のキノコ(レインボー色)、珍しい黒ユリ(花言葉は呪い)、あの害虫ゴキブリを食べてくれるアシダカグモ(めっちゃデカキモイ)が日替わりでプレゼントされたとか。
「なにそれ、ごんぎつね!? じゃなく、いや、おかしいって。だって明らかにそのタワーだって人の手がはいってるでしょ! この家ほかに誰かいるんじゃないの? ねえ警察に相談しようよ。なにか大変なことが起こる前に!」
真剣な表情の璃々に、亜里沙はどこ吹く風。手元のセミタワーの最上部から転げ落ちたセミを戻し「やだ、これって初めての共同作業!?」と頬を染めて呟いている。
「ねえ、真剣に聞いてよ亜里沙!」
「あっ、軍曹。お疲れ様です、いつもありがとうございます!」
そう言って、詰め寄った璃々ではなく背後の何かに向けビシっと敬礼をする亜里沙。璃々は怪訝な顔をして思わず振り返っていた。
「軍曹って誰のこ……と…………」
そのとき、家中に女の悲鳴が響き渡る。
口から泡をはき白目を剥いて倒れた女と、ため息をつき介抱しようとする女。巨大な蜘蛛は慌てたように走り去った。
そして、その一部始終をひっそり影より見守るものがいた。
「違う……お前じゃない……」
――あと俺の仕業でもない(クモ嫌い)
黄色い悲鳴を後ろにし、男は背を丸め悲しそうにそう呟いた。哀愁漂うその背中に飛び移った子ネズミも尻尾をパタリと降ろしていた。