番外2 二度目の生誕
それは七年前のことだったという。
とある地方都市に生まれ育った小学生、青原光安。背丈はクラスの男子の中間ぐらい、ボサボサ頭でシャツを半分だけズボンに突っ込んで、靴はいつもかかとを潰していた。どこにでもいる、ありふれた小学生は、小学四年になったのをきっかけに、一人部屋で眠るようになった。
ごちゃごちゃとオモチャが散乱する部屋。その中央に布団を敷いて、横になれば天井に貼られた世界地図が見える。それはある種の睡眠学習を期待した、親の仕業であったらしい。
五月のある日、時期外れの寒さに震えながら布団に潜り込んだ光安は、静寂に包まれた小さな空間の中で、子どもの声を聞いた。
女の子の声。
少女と呼ぶには幼すぎる、たどたどしい声を聞いた……気がした。
空耳はそれっきり、二度と聞こえるはずはない。子どもなりに現実主義者の光安は、翌朝にはすべてを都合よく忘れて、学校に通って行った。
光安は、学校が好きではなかった。
校門をくぐるのが嫌だった。
不登校一歩手前の彼を心配して、面談も行われていたが、何が変わることもなかった。
光安は何かに不満をもっていたわけではなく、…あるいは、不満が何か自分でも知ることができず、現象としては孤立していた。会話する相手はいるが、友だちだと思ってはいなかった。
だから光安は、再び聞いてしまった。
ただ呼びかける声を。
その両者に因果関係があると、考える者はいなかった。いや、それは今でもいないだろう。何の関係もない空耳、そう考えるのが当然であった。
しかし、器としての身体のすき間を埋めるように発し始めた声。
光安にとって、それはこの世界に欠けていたパーツ。恐らく、そのような認識から、やがて彼は声の主を妹と捉えるようになった。
誰も知らない、彼の家族の誕生だった。
「おに…いちゃん?」
「そうだ、俺が、おにいちゃん、だ」
初めて会話らしい会話が成立したのは、彼が中学生になってからであった。
当時、「妹」の声を聞く条件はいくつかあり、その組み合わせによっては呼びかけに応じることがあった。
はっきりしているのは、彼の部屋で夜という条件。他に、世界地図を眺めるのも条件ではないかと、彼は疑っていたが、その確証はなかった。
中学一年の夏休みも終わった九月の半ば、もう一つ、条件らしきものを彼は発見した。そう、「妹」はなぜか木曜の夜によく現れた。
それがなぜなのか、光安は尋ねたが、明確な答えはなかった。それどころか、彼女が曜日というものを理解しているのかすら分からなかった。当時の光安が「妹」と交わせた会話は、せいぜい妹に「お兄ちゃん」と呼ばせる程度でしかなかったのだ。
「木曜の子、だから曜子だ」
「………」
「お前の名前は、よ、う。こ、だ」
「よ、う、こ、だー」
「だーは名前じゃない。よ、う、こ」
「よ、う、こ」
本当は、光安には思い当たる節があった。
二学期になり、木曜日の時間割には必ず体育が入っていた。運動がそれほど得意ではない彼は、他の曜日に比べて疲労がたまり、ぐったりしながら布団にもぐることになる。その疲労が「妹」を呼び出していると、彼は気づいていた。
しかし、それは些細な問題だった。
毎週決まった曜日に「妹」の声を聞く。それは何よりも、「妹」の実在を確信していく過程だったのだろう。曜子という名は、こうして生まれた。
そして、現在の曜子が記憶する過去も、彼女が命名された頃が最古であるらしい。
やがて光安は変わっていく。
明確に妹を意識した日から、彼が住む世界は色を変えた。
人付き合いを敬遠していた彼は、徐々に周囲との距離を変えて、一年後には世話焼きと呼ばれるほどになった。曜子の世話をしたい、そんな欲求が転じていったのは明らかだった。
曜子もまた、その声を増やしていく。
中学三年になった光安は、とうとう朝に曜子の声を聞いた。
妹はお兄ちゃんの目覚ましになった。
誰かの夢に、知らない誰かが何度も現れる。その程度の話なら珍しくはないだろう。
その知らない誰かは、自我をもっているのか。
自ら記憶し、思考する主体なのか。
曜子は、いつしかその基準をクリアしたらしかった。
中学三年の秋、曜子と名付けられて二年後のことらしかった。
「お兄ちゃん、朝だよ!」
「おはよう…」
さらに一年後。光安はうっすらと曜子の輪郭すら感じ始める。
それはもちろん、あの出逢いに始まっていた。
高校生になった光安は、「宇宙の上位にある者」のクラスメイトとなった。
互いに、ただ同じクラスにいるというだけの関係。しかし、消滅を意図していた相手を記憶し続けたバカな男は、結果として「ただのクラスメイト」ではなくなった。そんな二人の間で、曜子は成長して、とうとう二人を救ってしまった。
「いってきまーす」
「お兄ちゃん、いってらっしゃーい」
だから「宇宙の上位にある者」は、つまり私は、曜子に恩返しする。
…………違う。
光安の妹は私の妹なんだ。先に助けられてしまった妹を、お姉さんはうんと甘やかしたいんだ。
※番外3が先に公開されています。
※高校入学後の話は、前作『手のひらの宇宙』で記しています。詳細は前作のネタバレになるので割愛。




