第一章 眠りの中で
無音。周りの音だけではない。自分が発する音も聞こえない。
無臭。鼻を刺激するものは何一つない。香りという概念を忘れそうだ。
モノがない。者も物も。ただ白色の空間が広がっていた。けれども奥行きが分からない。視覚があるはずなのに、見ているという感覚がない。
(あれ? ここに来たのは初めてじゃない?)
不意に何か思い出しそうになる。その瞬間、自我が思考がそして記憶が自分という存在に向けて流れ込んできた。
「わたしはヒロ。それは覚えている。でも、ここは何処だろう?」
「今はそれでいいんじゃない?」
何処からともなく声が聞こえる。そして、眼前の空間が歪んで一人の人物が現れた。
「きみは全てを知る必要はない。今はまだね」
その者の格好はヒロがよく目にする服装とは違う。おとぎ話や神話で語られるようなもっと古い時代のものだ。ヒロは知る由もないが、その服は秘学が魔法と呼ばれていた頃のもの。それも千年以上前の『冒険者』と呼ばれていた者たちが着ていたものに当たる。
ヒロは目の前にいる謎の人物を知らない。会ったことも見たことも聞いたこともない。けれど知識以外の何かが、目の前の人間が何者であるかを知っていると叫んでいる気がした。
「あなたは誰なんですか?」
ヒロは思わず尋ねてみる。するとその人は微笑んで見せた。見た目は自分より少し幼い印象なのに、むしろ大人びて見えた。そしてどこか親近感を覚える。
「ワタシはきみ、きみはワタシだ」
「?」
言葉の意味が分からず呆然とする。確かに髪の色も長さもほぼ同じで、顔も似てなくもないとヒロ自身そう感じる部分はある。そんな彼の周りを軽快に歩きながら話が続けられる。
「しかしアキト君は困ったことをしてくれたよ。ワタシはまだ寝ているつもりだったんだけどなあ」
そう言って歩みを止めると腕を上げて伸びをした。ヒロはその様子をただただ見ているだけだった。
「けど、ワタシが目覚めたってことは、ワタシの力が必要になったってことかな」
伸びをした後で片腕を回しているのを見ると、やはり年相応に幼い部分もあるようにヒロには思えた。そこでふと疑問が頭をよぎる。
「先程の戦いはあなたが手助けしてくれたのですか?」
「ん? ああ、あれね」
今度は見えない剣で虚空を斬っていたその人は、袈裟斬りの体勢で動きを止めた。
「そうとも言えるしそうじゃないとも言える。あの時のきみの体裁きはワタシと同じだったけど、『心の中で戦う』なんて思わないしできないよ。ていうか、正直意味が分からない」
「そうですよね」
字面だけ見ればおかしいことを言っているとヒロも気づいている。これまで会った人の中で似たようなことを口にした人はいなかった。『転生者』や過去の英雄・偉人に関する文献や調査資料でも、彼の記憶する限り、『心の中で戦う』ような人物はいなかった。常識に決して明るくないと自覚していても、非常識なことなのは分かった。
「でも全くの出鱈目だとは思わない。実際に周りの景色が変わっていたしね。あれは、きみが切り拓いていく可能性の一つ。ワタシはそう思ったよ」
「なるほど」
「そう。ワタシはワタシ、きみはきみだ」
人差し指をこちらに向けるともう片方の手を腰に当て格好つけてみせた。
「さっきと言っていることが違います」
「細かいことは気にしない!」
「はあ……」
理不尽としか言いようがなかった。ただ、言われた当人であるヒロにとって、理解の及ばないことや理不尽なことはこれが初めてではない。今回もそのようなことの一つとして深く詮索することは止めた。
「それで、ここは何処なんですか?」
「そう言われてもね、ワタシもよく分からないんだ」
「え?」
衝撃の事実にヒロは耳を疑った。登場の仕方も話し方も余裕のある振る舞いも、この場所を良く知る人物だからこそできることだと思っていた。
「分かるのはここが現実の世界じゃないってことかな」
「確かにここは現実離れしていますね」
「その証拠にほら」
白色の世界にひびが入った。何もない空間に黒い亀裂が入り、硝子が割れるように白い破片が足場に落ちていく。そして程なくして暗闇と星空の世界に生まれ変わった。
「これは一体……」
目の前で起こる現象にただ呆然とするしかなかった。
景色は変わり続けている。立っている場所は地面になり、大地を踏みしめていることが視覚的に確認できるようになった。そしてまるで霞が晴れていくかのごとく、周りに木や建物が見え始める。
「じゃあ行こうか、ヒロ」
「行こうって一体何処に?」
「もちろん、この世界を探検しに行くんだよ」
「わたしも一緒に行くのですか?」
「当然」
言われるがままヒロはついていくことにした。
夜空の下、見慣れない街の灯りに照らされた道を歩いて行く。夢か現かそれとも幻か。ヒロには何も分からなかった。