序章 最期の記憶
身体の奥から不快感がこみ上げてくる。病に侵されている訳ではなく、酒の飲みすぎでもない。そもそも今退社したばかりなのであって、酔っぱらっている方がおかしい。
時計の短針は八時を回ったところ。にじり寄る気持ち悪さで無意識に口元を手で押さえながら、高橋ヒロアキは夜の街を重い足取りで歩いていた。
「キモい。残業とかマジふざけんな」
思わず零れた独り言は誰の耳に届くことなく霧散する。
仕事は嫌いだ。本音では今すぐ会社を辞めて、自分の命とも言えるゲームの世界にどっぷりと浸かりたい。けれど、世界がそれを許さない。食べなくては生きていけないし、お金がなくてはゲームもインターネットも暮らしさえも成り立たない。
「クソッたれ」
会社に残っていたという事実が、彼の頭を怨嗟の念で満たしていた。どんなに悪態を吐いても、どす黒い感情が湧き出ては怒りの炎を激しく燃やす。憤怒に彩られた目には、周りの何者をも映さない。道行く人から奇異の視線を向けられても、ただの一度も気づかなかった。
とあるアパートの一室。その戸の前まで辿り着くと、ようやく彼の瞳に光が灯った。
「やっと、自由だ!」
鍵を取り出し、戸を開ければそこには憩いの空間が待っている。邪魔をする者などいない。スーツを脱いでラフな格好に着替えると、ヒロアキは早速パソコンを立ち上げる。起動してから準備が整うまでのわずかな時間も無駄にしない。スマホの充電をしつつ、タブレット端末でゲームアプリを開いてログインする。
「ゲームをしている時が、生きてるって感じがする」
他に誰もいない部屋で、彼の独り言が静寂を破る。勿論、どこからも言葉が返ってくることはない。一人暮らしなのだから当たり前だ。
娯楽に浸ることしばし。ヒロアキは突然、強引に現実に引き戻された。
「焦げ臭いぞ?」
彼の鼻が異常を知らせる。その場から立ち上がりキッチンへ向かうが
「?」
おかしなところは何もなかった。むしろ不快な臭いが消えてしまった。そのことに気付いた瞬間、雷に打たれたような衝撃が彼を襲った。
急いで部屋に戻る。異臭の元はやはりこの部屋だ。悪いことに、数分前よりも焦げ臭くなっている。炎上するのは時間の問題だ。直ちに消火しなければならない。
(くそ! やっぱりコンセントからか!)
身体の向きを再び180度変える。消火器なんて用意している訳がない。ろくに料理をしないのだから当然だ。ましてやパソコンやコンセントから出火するなんて思ってもみなかった。この状況で取れる策は、蛇口から水を汲んで素早く消火することだ。だが、
(消火したからどうなるというんだ?)
踏み出そうとした足が一瞬止まる。背後から火花が散るような音が聞こえる。
(どうせ買い直しだろう。それに、)
視線は床へ。片足は半歩だけ進んでその場に留まっていた。
「……それに、生きていても意味がない」
彼は笑っていた。目を見開いて、口角を無理に上げて、拳を握って。ハハッと乾いた哄笑が口から漏れる。行動を起こす気力はなくなった。
壁にもたれ掛かって、パソコンの方を見る。最初はただの異臭だったのに、今はカーテンに燃え移って赤い炎が揺らめいていた。
ヒロアキはゆっくりと目を閉じる。彼が泡沫の国へ旅立つと同時に、部屋は炎に飲み込まれた。
名前負けしないよう頑張りますのでよろしくお願いします。あとがきは余裕があれば書いていこうと思います。