敗北
『トライシオン王よ、我らに歯向かう愚か者はそうやって地に這いつくばっているのが似合う』
土煙が風に吹かれて飛ばされた後には、左腕がなく、胸より下を失った瀕死の姿のカズキが倒れていた。普通の人なら既に死んでいる傷だが生きている。しかし、生きているだけで魔力をほぼない。戦闘ができる程の力は残っていなかった。
「はっ……その愚か者相手に他の魔王のように負けるのが怖いから、不意打ちしたんだろ? 正面から戦えば負けると思ったんだろ?」
『何を言っている? 例え正々堂々戦ったところで我が貴様に負ける道理はない。ただ仕留めやすかったからしただけだ』
カズキはあえてアヴニールを挑発するように言う。そんなことをすれば怒りを買いすぐにでも殺されるかもしれない。
今のカズキには一回扉を開くくらいの魔力しか残っていない。アヴニールは絶対カズキを逃す気はない。だからどうしようとこの状況から助かることはできない。ここで間違いなくカズキは死ぬ。
だからせめてアリスと詩織にアヴニールの注意が向かわないようにして、逃げるだけの時間を稼ぐ必要があった。
この後、人類は悪魔達に蹂躙され、人の領域を全て悪魔に奪われる。だが一人残さず全滅させることは困難だろう。悪魔に気付かれないようどこかに隠れ住めば生きていける可能性はある。
幸い魔王以外の悪魔には負けないぐらい強い。わざわざ二人の脅威になりえない人を殺すために魔王が出てくることもないだろう。
今、アリス達がどうしているかはわからない。恐怖に震え動けないかもしれないし、逃げ出す隙を窺っているのかもしれない。気になるが、カズキの意識が少しでもアリス達に向かえば、それをアヴニールに気取られる可能性が高い。
「僕を倒した後はどうするんだ?」
『わかりきったことを。勿論、人間を殺し尽くす』
「それで何が変わるってんだ? 世界中の人を全て殺したところでお前は第二位のままだ。あの第一位には勝てない」
『あの方に戦いを挑むなど愚行。それは貴様もわかっているはずだ』
「はっ、そうやって初めから諦めているから勝てねぇんだよ!」
『……もうよい。消え失せろ』
爪の先に魔力が収束し、黒い輝きが放たれようとする。
今から死ぬのに不思議と恐怖はない。
心残りとしては、アリスと詩織がこの場から逃げられたか。この先生きていけるかだ。
僕の復讐と言って無謀にも魔王と戦うなんてことはしてほしくない。残存する魔王は人の身ではどうやっても倒せるものではない。
ただ、生きていてくれたらいい。それだけで安心して死んで行ける。
……ああ、嘘だ。本当は死にたくない。嫌だ、生きていたい。力なんてなくてもいい。特別な事なんてなくていい。毎日変わりのない生活でもいい。贅沢は言わない。
だから、僕の大切な人を奪わないでくれ。まだアリスと詩織と一緒にいたい。ただそれだけのことでいい。
しかし、その願いを聞き届ける者はいない。魔王を前に無力でしかない神は救いの手を差し伸べない。
黒い閃光が放たれ、今度こそカズキを消滅させるべく迫る。
最後の瞬間、目を見開いていたからこそ、カズキの前に飛び出してきた二人の後ろ姿が見えた。
「……なんで……? なんで……なんでだよ……!」
「なんで? 決まっているでしょ! カズキさんを見殺しにしてまで生きていたくない!」
「そんな当たり前のことを言わせないで!」
アリスと詩織は両手を突っ張り魔法障壁で閃光を防いでいる。ひびが入り今にも壊れそうだったが何とか持ちこたえた。
「僕はいい……アリスと詩織だけでも逃げてくれ……! 今扉を開くから逃げてくれ! 頼むから!」
カズキはアリスと詩織に懇願して叫ぶ。
アヴニールにとって最優先目標はカズキをここで殺すこと。今ならまだ二人の人間が逃げても気にしないだろう。
だから、これが最後の機会だ。
「それは無理なお願いね。もう決めたから」
「私達が時間を稼ぐから、その間にカズキだけでも逃げて」
決意を固めた顔で微笑むと、剣を、拳を構えアヴニールに挑んでいく。
何を馬鹿な事を言っているんだ。アヴニールが僕を逃がすような下手をうつわけがない。アリス達は無駄死にだ。そんなことは、わからないわけがないだろうに。それとも奇跡が起きることを期待しているのか? そんなことは現実には起こりえないことだ。
目の前で自分を守るためにアリスと詩織が戦っているというのに何もできない。自分を殺してしまいたくなる程腹立たしい。何で僕は地べたに這いつくばっていることしかできないんだ……。
アリスが触手のような腕の下を掻い潜り、剣で弾き、腕の上を駆け、獣の頭部へ跳躍して斬りかかる。
人の背丈ほどある爪に防がれ、弾き飛ばされる。宙を舞う間に横合いから腕が迫りくるが、詩織が殴って軌道を逸らせることで無事で済んだ。
魔力が高く突出した攻撃力を持つアリスが斬りかかり、詩織は迫る腕を迎撃してサポートに徹している。うまく連携が取れている事もあって、大きな傷をまだ負っていない。しかし、アリス達もアヴニールに一撃も通せていない。
第二位相手に戦えているように見える…………そう、見えるだけだ。
実際にはアヴニールは戯れているだけに過ぎない。その証拠にアリス達の相手をしながらも片時もカズキから注意が離れることはない。それにカズキの空間操作を破った未知の能力を使っていない。
『人間の中にこれほどの力を持つ者がいるか。なかなかの余興であった。もう消え失せるがいい』
アヴニールは戯れるのをやめて殺そうと動き出す。
「やめろっ!! やめてくれ! 僕はどうなってもいい。だから彼女達を助けてくれ!」
『フハハハハハッ! 自らの命より人間の命を選ぶか。貴様は魔王として狂っている。だからこのような愚かな行いができたわけか!』
確かに悪魔なら自身の命を最優先にして、逃げるだろう。だが、僕は人間だからそんなことは死んでもできない。
『愉快、愉快だ、トライシオン王。……故にこの人間は貴様の前で殺してやろう』
言うや否や、触手のような腕が振り下ろされる。
真下にいた詩織は横跳びに回避しようとして不自然につまずく。
そして、詩織は腕で押し潰された。
「あ…………」
言葉が出てこなかった。頭の中が真っ白になったみたいに何も考えられない。
持ち上げられた腕の下には、無残にも赤く染まり潰れた詩織の姿があった。
だが、微かに右手が動いた。
生きている。その事実に暗雲に一筋の光が差し込んだようだったが、
『まだ生きているとは存外しぶとい』
また詩織に腕を振り下ろそうとする。
だが、今のカズキにそれを止めるすべはない。
アリスが止めに入ろうとするが他の腕に阻まれる。
そして、また腕が振り下ろされた。何度も何度も確実に殺すために。
詩織がいた所は赤く染まっているだけで、そこに詩織がいたとは思えない。
『まずは一人』
詩織が死んだ。
ふつふつと身体の中から感情が湧き、ドス黒い感情が溢れて噴き出す。
視線だけで殺せそうな殺意を込めて睨みつける。
「殺す……殺す、殺す、てめぇは殺す! 絶対に殺してやる!!」
『フハハハハハッ。人間みたいだな? では、次だ』
横薙ぎに振るわれた爪に対し、後ろに跳ぼうとして不自然に足を滑らせる。それでも、なんとか跳んだが回避は間に合わない。
今度こそやらせはしない!
残った魔力をすべて使い、アリスの背後に人一人がなんとか通れる程度の扉を開く。
アリスの白髪が扉に触れ、背中から扉の中に入っていく。そのまま倒れ込むように身体が飲み込まれていく。
逃がしはしないと迫る鋭い爪だが、一瞬アリスが扉の向こうに消え、扉が閉じるのが先だった。
転移できる中でここから一番遠い悪魔に侵略されていない地に転移させた。
アリスだけでも助けられて良かった。
不意に、温かい液体がカズキの顔に降り注いだ。唯一動く右手で頬に触れる。
右手は赤く染まっていた。
……なんだこれは? なんで血が……!?
背筋が震えるような不吉な予感がする。
そんなカズキの予感は的中する。
空から二つのものが落ちてきた。
カズキの近くに落ちてきたものは、アリスだった。
なんでここに……? さっき間違いなく転移させたはずだ。
いやそんなことよりも、今はアリスの安否を確認する方が先だ。
右手で地面を掴み、軽くなった身体を引き摺ってアリスの元まで進む。
途中でアリスが微かに身じろぎした。
良かった。生きているみたいだ。ところで、もう一つ何か落ちてきたけど何なんだ? 這いながらもそちらに目を向ける。
そっちもアリスだった。正確に言うと、アリスの切断された下半身だ。
地面に撒かれた血はとうに致死量を超えている。
「……嘘、だろ……」
呆然と呟く。それでもゆっくりとだが這い続け、アリスの投げ出された手を握る。その手は冷たい。
「アリス、起きてくれ。……お願いだから……なあ、起きてくれよ、アリス」
握った手が反応する。そして、うつ伏せになっている顔を上げる。虚ろな目がカズキを捉えて、最後に微笑んだ。
アリスはそれ以上動くことはなかった。
結局、僕は何も守れなかった。こんなことなら、魔王に逆らわなければよかった。魔王の一人としてなら、アリスと詩織を自分のものとすれば安全は守れた。他の人は死ぬけど、それで、二人と生きていけるならいい。
いっそ、元の世界で二人と共に生きるのも良かったかもしれない。僕は空間を操る魔王だ。元の世界に帰ることぐらいできた。魔王のいない世界で平和に暮らすこともできたのに、なんで僕はその道を選ばなかったんだろう。
僕は本当に馬鹿で愚かだ。全て失った後になってこんなことを考えるなんて。
黒い閃光がカズキとアリスを飲み込み消え去るまで、ずっと手を握り続けていた。
この後、魔王に対抗できる戦力を持たない人類は、魔王と配下の悪魔に全滅させられる、という結末になる。
『ああ、つまらない』
悪魔が支配する世界で、一人の黒い悪魔が呟く。
『私が用意した駒はこんなのに負けるとは情けない』
悪魔は足元に転がる悪魔を蹴る。触手のような腕が散らばり、獣と人の顔がついた異形の悪魔が無残な骸をさらしている。
『ああ、退屈だ。こんな世界私はいらない――だから、また始めよう。今度は私を楽しませてくれ』
そして、黒い悪魔が微笑めば世界はその法則を歪める。