雇われました。
金属の飾りがついた重厚なドアが音もなく開き、姿を現したのは、シャヒール・ナトゥラン公爵、その奥方であるカマリ公爵夫人、そして息子のイラジャール様だった。
スチールでしか見たことなかった公爵様は、絵の通り、さらさらの白銀の髪を肩の辺りで切り揃え、大人の色気を醸し出している。サファイアのような透き通る青い瞳も本物で、前世で出会ったコスプレーヤーなんて全然お呼びじゃなかった。
そして、カマリ様の美しさと言ったら!艶々の栗色の髪を色っぽくまとめ上げ、ほっそりとした白い首がうっとりします!それに、それに、ラピスラズリのような瞳、桜色の唇、ああ~っ、なんか私の理想がそこに立っている感じでメロメロです~ぅ。
あと、イラジャール様も、攻略対象者に成長した姿は見知っていたが、今はまだ2歳。公爵様のミニミニチュアというか、あどけなさが前面に押し出されていて、ほんとに可愛いっ!
「(……ぐひぃっ!)」
喜びのあまり、潰れたカエルのような声が出てしまったが、幸い、誰に聞かれることもなかった。声が潰れてて助かったよ。ふう。
「目が覚めましたか?」
カマリ様が近づいて手を取られる。うひゃあっ、すっごく良い匂いっ!お貴族様って感じだね。私は声が出ないため、うんうんと頷いておく。というより、ベッドから飛び降りて跪こうとしたら止められた。だって、公爵様だよ、こちとら庶民でいっ!
「貴女が注意してくれたおかげで、私も主人も息子も事なきを得ました。本当に感謝しても、し尽くせませぬ。ありがとうございます」
いえいえ、私が勝手にやったことなので、と声にならない声をあげ、ぶんぶんと首を横に振った。誰にも責任はないのですよ、と。しかも、喉の傷も痛くない。恐らくは公爵家お抱えの優秀な医師を呼んだに違いなかった。
身振り手振りで筆記用具を貸してもらい、何とか公爵様方に責任はないのだと訴えた。
「まあ、とても優美なお手ですのね」
私の書いた紙を見るや、公爵夫人が感嘆の声を上げた。お手というのは、筆跡のこと。そりゃそうよ、こちとら血の滲むような努力をしたんだからね……とは流石に言えず、ただただ謙遜して首を振った。公爵閣下が、何かを考えている様子で眉をひそめているのも気付かず。
「そうだわ、貴方!イラジャールの遊び相手に彼女を雇ってはどうかしら?」
え?!と思ったのは、私だけではないようだ。息子君も予想外といった風に顔を顰めている。だが、公爵様は、いいアイデアだと言い、あっという間に私の就職先が決定したのであった。
「(でも、私の色は……)」
そこから先は書けなかった。何だろう。言葉でなら、悪魔憑きとか幾らでも軽口を叩けるのに、文字を書こうとすると手が震えて進めない。とうとう、インクが滲んで紙に染みを作ってしまった。
でも、黒い髪と黒い瞳は、とっくにばれている。今も、黒い髪が腰まで流れ落ちているし、視界もクリアだから、何も覆われていない黒い瞳が見えているだろう。でも、カマリ様は、ベッドに腰かけ、私の頭を撫でながら楽しそうに言った。
「とても綺麗な髪よ。でも、ちょっと長いかしら?もしヘアスタイルにこだわりがないのであれば、あとで少し切りましょうか?さっぱりすると思うのだけれど。瞳も黒曜石みたいで、とっても可愛らしいわ」
優しく、労わるように髪を撫でられていると、そういえば、この世界に生まれてから頭を撫でて貰ったのって初めてかもしれないと思った。母上には叱られてばかりだったし、家は貧乏だったから私の髪をいじってくれる侍女もいなくて、毎朝、自分で三つ編みにしていた。
家を出てからは、ターバンにフード、目隠しに杖という怪しさ満点の子供だったので、誰も触ってくれる人なんていなかった。ホームレス仲間も私が面倒を見る方だったから、誰かが髪を結ってくれるなんてこともなかったし。
うえ、何だか視界が歪んできた。ヤバい、このままじゃ目から鼻水が垂れちゃう!その醜態だけは避けなければ!ぎゅっと目を摘むって、大丈夫!と3回唱えていたら、カマリ様に優しく抱きこまれた。
逆効果だよ!余計に鼻水が出ちゃうじゃん!と思いながらも決壊した涙と鼻水が止まらず、結局のところ、私は憧れの公爵様の前で醜態を晒したのであった。
それからの日々は、本当に楽しかった。息子君、いやイラジャール様と一緒に勉強し、剣術を習い、乗馬も教わった。とはいえ、前世と合わせて中身〇歳の上、かなりのシルフィーディアンだった私にとっては楽勝、楽勝!しかも、4歳も年下のイラジャール様に負ける訳がない。最初の頃こそ遠慮をしていたが、イラジャール様がムキになって挑戦してくるものだから、次第に、出し抜くのが面白くなっていった。
とはいえ、イラジャール様も攻略対象者だけあって、余裕があったのも最初だけ。油断すると、どんどん吸収していくもんだから、途中からは隠れて必死に勉強したよ。お姉さんの面目を維持する為に。
一番驚いたのは、イラジャール様が読唇術を独学でマスターしたことだった。声が出なくても、今までの習慣からか会話の時に口を動かしてしまう。それを見ているうちに、何を言っているのか分かるようになったのだとか。うわ、チートがここにいる!
なんだか、天才と秀才の違いをまざまざと見せつけられたようだった。まあ、私はただの庶民で、イラジャールは次期公爵様で、攻略対象者なんだからチートじゃなきゃね!うちのイラジャール様は、王太子にだって負けません!
おばちゃん馬鹿だと笑わば笑え。普段は生意気盛りのイラジャール様で、「ルーには負けない!」と勝負を挑んでくるのだけれど、夜は夜で、暗がりが恐いからと私のベッドに潜り込んでくる。しかも、
「父上たちに知られたら、赤ちゃんみたいって揶揄われるから2人だけのしーね!」
なんて、桜色の可愛い唇に小さな指をあててお願いされたら、ほだされちゃうよね。おばちゃん、イラジャール様のためなら何だってしちゃうよ!って感じ。……ね?!うちの子、最強に可愛いでしょ!!
正直な所、前世の私は、『イラジャール』のことは公爵様を幸せにするための駒というか、ゲームの一部としてしか認識していなかった。ここで、イラジャールに、このセリフを言ったら彼が幸せになって、公爵様も笑うかなとか、反対にイラジャールを怒らせたら公爵様も動揺するかなとか。
勿論、実際には殆ど画面に出てこない公爵様だから、そんなことを想像しながらによによしていた。……腐ってたな、自分。
でも、今は、公爵様もカマリ様もイラジャール様も、家族、っていったら烏滸がましいけど、一番大切な人たち、一番守りたい人たちだって心の底から思う。例え、自分を犠牲にしても。