新生児
生まれてから1ヶ月ぐらいは、殆ど眠っていた。いや、眠ってもいなかった。ただひたすら、あいつの顔が浮かんでは消え、その度に俺は、謝罪と懇願を繰り返していた。
許してくれ。もう一度、チャンスをくれ、と。
「……ぶよぉ、だ……ぶ、……」
誰かが、とんとん、とん、と背中を優しく叩く。どこか懐かしいリズムで揺すられていると、次第に心が穏やかになっていく。それと同時に、悲しみに歪んでいた、あいつの最後に見た顔が、柔らかく微笑んでいく。ああ、俺が好きだったあいつの笑顔だ。
「ふう、何とか寝たみたい」
「我が息子ながら手間がかかるね、まったく」
「ほんと!……でも、泣けるようになっただけ進歩だわ。以前は、息しているだけで、何の反応もなかったもの」
「今度は、ちゃんと幸せになって天寿を全うして欲しいよ」
「ええ。あの子と一緒にね」
懐かしい口調に癒されながら、生まれて初めてといって良いくらい穏やかに眠れた。
翌日、ゆっくり寝たからだろうか。ぱちっと目が覚めた。今まで幕がかかったみたいにぼんやりしていた景色が、くっきりと見え、一瞬、どこにいるか分からず、パニックに陥りそうになった。ヨーロッパの城みたいに重厚な調度品。天井には、きっと億単位はするだろう豪華なシャンデリアまである。
やがて、自分がゲームの世界に転生したことを思い出す。鏡がないから断定は出来ないが、イラジャールに生れたのだろうか。何とか起き上がろうとするが、流石、新生児だ。頭が重いうえに手足の力が入らない。寝返りも出来ない。
「ちぃあー、うぅ、ねゃあうーうぅ」
おまけに、言葉も喋れないらしい。密かに落ち込んでいると、ドアが開く音が聞こえた。聞こえただけで、首すら捻れないから誰が来たのかも分からない。新生児って、ほんと何も出来ないんだな。
「あらぁ、イーちゃん、起きたんでちゅかぁ」
俺を覗き込んだのは、どこの外国人女優かってくらい綺麗な女だった。栗色の髪を緩く巻き上げ、白い首筋が綺麗な曲線を描いている。ただ、ラピスラズリのような瞳が、面白そうに細められているのが気に食わない。
「おはよう、目が覚めたかね、我が息子よ!」
もう一人、白銀の髪を肩の辺りで切り揃え、サファイアのような青い瞳の男が覗き込む。ああ、こいつはシャヒールか。だとすれば、覗き込まれて息子と呼ばれている俺は、無事、イラジャールに転生したと考えられる。やれやれ。
ふうっとため息を吐いた途端、カマリに抱き上げられた。
「オムツかな~それとも、ぱいぱい?」
いや、どっちでもないから息子の股間(赤ちゃん仕様)を触るの止めろ。
「なんか、嫌がってるみたいだよ。抗議しているみたいだ」
「ふふ、どれだけ嫌がったって、イーちゃんの世話は私がしてるんだからね!おほほほほっ!お前の裸なんて毎日見飽きとるわっ!」
なんだ?……確か、カマリって公爵令嬢だったよな。なんか、えらい庶民的な口調だが、大丈夫なのか?それに、貴族って自分で子育てしないだろ?フツーは、乳母とかナニーとかいるんじゃないか?
「乳母じゃないって不思議がってるのかな?くくくっ、あ、眉間に皺が寄ってる」
「ふふふ、流石のカリスマも赤ちゃんじゃあねえ!」
種明かししちゃう?と言われて告げられた真実は、思いもかけないものだった。前世の父親と母親がそのまま今世も両親として転生しているなんて!
「さあさあ、オムチュ、取り換えまちょうね~!」
や、止めろ~~~っ!!!!
抵抗虚しく、オムツを取り替えられ、母乳を飲まされた。それだけなのに、メチャクチャHPが削られた。考えてもみろ。外見は赤子だが、中身が三十路男で、おまけに、両親は、中身が三十路男だと知っている。……最悪な展開だ。
しかも、一度、前世の両親だと認識したら、どれほど目の前の両親が美男美女だろうが、前世の肝っ玉母ちゃんみたいなオフクロと、ひょろ長いオヤジにしか見えなくなった。オヤジの白銀髪なんて前世と同じただの白髪に見えてくるから不思議だ。
加えてオフクロだ。外見は、まだぴちぴちの二十代前半でボンキュッボンのナイスバディ。世の男性にとってみれば理想の女性に見えるだろう。その女性の、白くまろやかな胸を栄養補給という大義名分の元、むしゃぶりつけるのだからリア充爆発しろ!と呪われても仕方ない……のだが、もうダメだ。
俺の脳は、どれだけの美女であっても、全てを前世のオフクロへと変換してしまった。前世のオフクロの、5人の子供を育て上げた迫力のある胸に、三十路男が顔を押し付けられている構図しか浮かばない。授乳が終わった後、ゲップを出すべく背中を叩かれた時には、盛大に吐き出してしまったのは不可抗力だ。俺は悪くない。絶対に。
それから、暫くの間、俺は死線を彷徨っていた。比喩ではない。母乳が飲めなくなり、便秘になった。赤子の小さな体で便秘というのはマジでヤバい。お腹がミルク以外のもので膨れているのが分かる。それなのに、この世界には粉ミルクも哺乳瓶も、おまるさえもなかった。
くそっ!ゲームの中で設定しておけば良かったと後悔するが、後の祭りだ。
そんなこんなで、オフクロの母乳が飲めなくなり、オヤジが急遽、乳母に来てもらうよう手配したが、それこそ、子育て慣れした前世のオフクロと同じような、立派なおっぱいが目の前に迫ってきたら、口をつけることなど死んでも不可能だった。
え?何で、前世のオフクロのおっぱいを知ってるかって?そりゃあ、俺の下に4人も弟妹が産まれ、一番下の弟が生まれたのは、俺が中学生の時だった。うっかり授乳中に学校から帰って来て、見たくもないのに見てしまったという訳だ。
あれは、不幸な事故だった……何しろ、転生しても脳裏に残るくらいの衝撃だからな。
結局、オフクロは面倒だと文句を言いつつも、口の小さな瓶に母乳を絞り、丸めた布で塞いだ。瓶を傾けると布に母乳が染み、それを吸うと母乳が飲めるような簡易哺乳瓶を作ってくれた。布の味がするものの、母乳自体に問題はないので何とか飲めるようになった。
歯が生えると同時に離乳食をせっつき、早々に断乳したのは言うまでもない。
トイレの方は、オヤジが業者に頼み、赤子でも使える補助便座を作ってくれた。届いた便座は、木製だったが、所々、金箔や宝石で飾りがしてあり、オヤジもびっくりしていた。なんか、適正価格が分からず、こんなもんで作ってくれと渡した金が余ったのだろう。まあ、金持ちが金を使わないと経済が回らないってヤツだな。多分。
とはいえ、その補助便座は、とても座り心地が良かった。落ちないように体をベルトで固定できるので赤子1人でも用が足せる優れものだ。と言っても、オムツの脱ぎ着だけは手伝ってもらう必要があったが、そこは妥協した。既に、風呂は問答無用で入れられているので免疫が着いたのだろう。
後に、その業者がこの世界初のおまるを販売し、大儲けしたらしい。まあ、どうでも良い話だが。
今となっては思い出したくもない黒歴史の数々だが、結果的に俺は驚異的な速さで成長していった。1歳になる頃には、自らの足で歩き、離乳食をスプーンで食べ、トイレだって服の脱ぎ着から全て一人で出来るようになった。
「ぷぷ。カッコつけちゃって!よちよち歩きに、赤ちゃんスプーン、トイレトレーニングパンツじゃん!」
「うっちゃいっ!!」
「ぎゃはははは~っ、うっちゃい、だって!うっちゃい!!」
笑い転げる両親を前に、呂律が回るようになるまで必要最低限の事しか話さないと決意する。本当は、完璧に話せるようになるまで口を利きたくもないが、どうしても急ぐ案件があった。
ゲームでは、俺が1歳の時にオフクロが殺されてしまうのだ。そして、その事件のことで、誰に転生したか分からないあいつが動く筈だから。
「おふくりょ、しゅーげきしゃれる、おーしじゅきのしんげちゅ」
「ああ、カマリとイラジャールが馬車で襲われる日だね。雄牛月の新月だったら8日だね」
オヤジの言葉に、それまで笑っていたオフクロが、ぴたりと笑い止んで真顔になった。
「雄牛月の8日って言ったら、ナレンディラ伯爵夫人からお茶会の招待が来ていたわ。学園の同級生だったから行くって返事を出しちゃったけど」
「ふむ。どうすべきかな。断りの返事を書くか、それとも、囮になって襲われる方が良いかい?」
端から見たら奇妙な光景だろう。大の大人が、赤子と真剣に話しているのだから。オヤジとオフクロ曰く、部屋の外では、ちゃんと公爵夫妻として、そつなくこなしているらしい。俺はまだ自分の部屋から出たことがないので分からないが、万一、ちゃんとやっていなくても公爵家と現国王の実弟という肩書があれば、大抵のことは問題ないだろう。
「はんにん、わからにゃい。できりぇば、おちょり、なりゅ」
隣国から嫁いだ王妃関係のヤツが犯人としたが、具体的な名前は決めなかった。その方が、謎を解明するシルファーディアンたちのSNSで活発な議論が展開されていたから。
ううむ、今になるともっとちゃんとしておけば良かったと思うが、まさかゲームの世界が別次元でリアルな世界になるとも、ましてや、そのリアルな世界で転生するなんて夢にも想像しなかったのだから仕方ない。
「囮になるなら、護衛や御者を腕の立つ奴に変えて、あと、襲撃場所は分かるかい?辺りに待ち伏せさせておこう」
オヤジと入念な打ち合わせをして、襲撃事件当日を迎えた。オフクロが、俺を抱きかかえて馬車に乗り込む。余談だが、こちらの子供服は、そのまま大人の服を小さくしたものだった。
白に銀の縫い取りがある丈の長いコートに黒いロングブーツなのだが、何しろ1歳児は3頭身である。ロングブーツっつーよりただのブーツだった。仮にも公爵家の跡取りだから、ちゃんとした外出着を着ないといけないのは分かるが、窮屈この上ない衣装だった。
コスプレ好きのあいつなら、ぎゃあぎゃあ騒ぎながら一眼レフを構えるんだろう。思い出すと自然に笑みが零れる。
最近は、もうあいつの泣きそうな顔を思い出すことも少なくなった。代わりに、俺よりちょっと年上の、生意気そうな女の子を見ると、あいつのような気がしてドキッとする。いずれにしても、近いうちに会えるだろう。会えたら何と言ってやろう。
そんな他愛もないことを考えていると、馬車が急停車した。襲撃場所に着いたらしい。俄かに、外が騒がしくなり、オフクロは、窓の外を気にしながらも、俺を胸に抱きよせ、外を見せまいとしている。
俺自身、外に出た所で何が出来るわけでもない、ただの足で纏いだと分かっているので、じっと時が過ぎるのを待った。やがて外から扉が開けられ、オヤジが姿を現した。手には長剣を持ち、服には血が飛び散っている。
「もう大丈夫だ。実行犯も捕らえたよ」
「貴方、血がっ!」
オフクロが、真っ青になりながら叫んだが、オヤジは何でもないと手を振った。
「返り血だから大丈夫。それよりも、実行犯と会うかい?」
オヤジの問いに、勿論だと頷いた。オヤジは、オフクロから俺を抱き取り、外へと連れ出す。道端には、ロープでぐるぐる巻きにされた男たちが転がっていた。
「こいつがリーダー格っぽいな」
「おまえ、なは?」
男は、口を閉じたまま沈黙しているが、突然喋り出した幼児に驚いているようだ。男を捕まえていた公爵家の警備隊長も俺が話せるとは思わなかったらしい。束の間、はっとしていたが、直ぐに気を取り戻して口を開いた。
「さっきから色々聞いているのですが、何も話しません」
「なを、いえ」
警備隊長に構わず、声に力を籠める。男は、怯えた様子でガタガタ震え始めた。
「お、俺はっ、グランパ、公国のぉっ!ぎゃああああああっ!」
男は叫び声をあげると、そのまま血を吐いて絶命した。他の男たちも次々と死んでいく。オヤジは、咄嗟に俺の目を塞いだが、俺は手を払い除け、『世界』へと命じた。
「かいしゅーしろ」
言い終わると同時に死体が消え失せ、俺やオヤジ、兵士たちの服の汚れも綺麗に消えた。ただ、一部始終を見ていた警備兵たちの目は、化け物を見るように恐怖の色に染まっていた。まあ、当然だわな。俺自身、こんな能力があるとは思ってなかったし。
「きおくを、けせ」
兵士たちは、虚ろな瞳になったかと思うと、1人また1人と倒れて行った。だが、警備隊長だけは、青ざめ、俯いている。視線を下げると腿から一筋の血が流れていた。どうやら暗器の串を自らに刺し、その痛みで俺の言葉に抗ったらしい。見上げたド根性だ。
「私は、代々、公爵家に仕える家の出自でございます。その公爵家の警備を預かる者として、この件に関しては記憶を消す訳には参りません。無論、他言は一切いたしません。我がナーレンデル家の血にかけて誓いますっ!」
オヤジは、暫く無言で隊長を見下ろしていたが、どうするかね?と俺の判断を仰ぐ。その目は、いつもの通り穏やかで、俺の能力についての動揺は見えない。ちょっとほっとして、息を吐いた。
「ちちうえの、よいよーに」
それだけ言うと、オヤジは分かったと頷き、未だ跪いている隊長へと向き直った。
もしも前世の記憶を持ったまま転生したら?しかも、それを相手に知られていたら?……特殊な性癖(笑)がない限り、生きにくいだろうな~と思いました。色んな意味で苦難の連続です。イラジャール君。