時は僕を置いていく
全校集会、ホームルーム、授業中、どんな時にでも、いつの間にか呆けていて、話が進んでいたと言う事がある。
呆けているではなく、寝ているのかもしれないが、主観では時間が跳んだように感じるのではないだろうか。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
退屈な授業も残り十分だなと、黒板を見ていたところまでは記憶している。徐々にぼやける意識の中で、白いチョークで書かれた簡単な数式が並んでいたのも覚えているのだけれど、次の瞬間には黒板は綺麗な深緑一色になっていた。
今回は夢を見なかったのか。
時間が跳んだと感じる時、自分の中で三つのうちのどれかが起こっている。
一つが夢を見ない。一つが不特定の夢を見る。一つが特定の夢を見る。
二番目と三番目はほぼ同じだと思われそうだが、正しくは三番目だけがイレギュラーで、最初の二つがレム睡眠時に起きるかノンレム睡眠時に起きるかの違いだから、一般的にはこちらが似たようなものになる。
冴えた頭で考えていたら、一人の女子生徒が近づいてきた。
「とお君、とお君。さっきの授業の最後の問題難しかったよね」
「ごめん、愛実ちゃん。ボーっとしていて、覚えてないんだ」
「またノタさんに会ってたの?」
幼馴染の西園愛実が呆れた目をこちらに向ける。
よくボーっとしている事に対してなのか、ノタさんに対してなのかは分からないけれど、眠いのだから仕方がない。
「学校に指輪は持ってきてないから、ノタさんには会えないよ」
「ノタさんは置いておいて、とお君、最近よく居眠りしてるよね。最近って言うか、高校に入学したくらいから」
「何か眠たくてね。さっきも気が付いたら休み時間でびっくりしたよ」
自分では意識していなかったけれど、高校に入学してからもう半年以上が経つ。
愛実ちゃんは高校に入学してからというが、実は中学ぐらいから度々居眠りはしていた。
徐々に回数が増え、時間も伸びてきてはいるけれど。
「良く先生に気づかれないよね。あたしもとお君が居眠りしているところ見たことないし、どうやってるの?」
「特に変わった事をしているわけじゃないんだけど」
起きていようと頑張っても睡魔に負けてしまうだけの事で、多くの人が体験するものと変わらないと思う。愛実ちゃんの手が、撫でるように頭の上に乗った。
「やっぱりとお君が可愛いからかな」
「これから伸びるんだって」
「確かに成長が止まったわけじゃないんだよね。中学生の頃はもっと小さかったし」
低身長がコンプレックスとはいえ、愛実ちゃんとは物心ついた時からやっているやり取りだから、怒りはしない。
また愛実ちゃんの言う通り、今の身長は百四十五センチほどだけれどこの一年ちょっとで五センチくらい伸びているし、希望もある。ノタさんも僕は成長が遅いだけだと言っていた。
「で、話を戻すんだけど、最後の問題とお君なら分かると思うから教えてくれないかな」
「どんな問題?」
愛実ちゃんがノートに数式を書くので、丁寧に問題を解いていく。
特に説明しなかったが、愛実ちゃんは理解できたように頷いた。
「とお君頭良いよね」
「愛実ちゃんだって成績は上の方だよね?」
「とお君授業中寝てるし、夜だって早いよね?」
「睡眠学習ってやつだよ」
嘘はついていないのだけれど、チャイムが鳴って席に戻っていく愛実ちゃんは、釈然としない顔をしていた。
*
居眠りばかりしているのに誰にも気が付かれない僕だけれど、実は気が付かれないのは居眠りだけではない。
規則正しく寝ている時にも、誰にも気が付かれた事がないのだ。
つまり、僕は今まで誰かに起こされた事がない。小学生の頃に寝坊したことがあるのだけれど、両親だけでなく担任の先生にすら忘れられていた。朝出席を取るはずなのだけれど、その日に限って僕の名前を呼び忘れていたらしい。
実は今日の授業でもまるまる一時間寝ていたものがあるのだけれど、寝ていた事を黙っていたら、愛実ちゃんにも気が付かれなかった。
部活には入っていない僕は、放課後はすぐに家に帰る。たまに愛実ちゃんと帰る事もあるけれど、部活にも生徒会にも入っているため月に一回あるかどうか。
家に帰ってからはご飯を食べて、お風呂に入って、宿題を終わらせて。
忘れないうちにノタさんの指輪を取り出す。真っ赤な石がはめ込まれた小さい指輪で、今では小指にしか嵌らない。この指輪をしたまま寝たらノタさんに会える不思議な指輪なのだけれど、嵌らなくなったら困るので、今日伝えてみようと思う。
夜十時過ぎ、眠気に負けてベッドに潜り込み、間もなく意識を失った。
ノタさんは名前をノタ・アルケミアと言い、小さい頃から僕の夢に出て来る色白で薄い茶髪に緑の瞳をした女性である。
初めて出会って十年以上になるが、全く姿が変わらずとうとう同年代になった。本人曰く不老不死だからだそうだが、夢の中の人物だからというのが実際だろう。
幼いころには夢を理解できていなくていろいろな人に話していたけれど、今となっては愛実ちゃんしか覚えていないと思う。
ふと、気が付くと木造の家のリビングに居た。中央にテーブルとソファが二つ、一つのソファの向かい側に暖炉があって、隅には作業台が一つと本棚がいくつか置いてある。一言で言うならば、異国の家のようだ。
家の主も欧州の人で、ソファに座ってお茶を飲んでいるの薄い茶髪の女性。ノタさんの存在がここが夢だと教えてくれる。
「ノタさん」
「お邪魔してるわね、透」
カップを置いてノタさんが緑色の目をこちらに向ける。
昔はこの家がノタさんの家だと思っていたのだけれど、ここはあくまでもノタさんの家を模した僕の夢の中との事らしい。だから正確には主は僕かもしれないけれど、我が夢ながら妙に設定が凝っている。
夢の中の服装は、寝る直前の服ではなくて、自分らしいと認識している格好になるみたいで、最近はもっぱら制服だ。
ノタさんがいない方のソファに座り、指輪について訊く事にした。
「ここに来るための指輪、だいぶ小さくなったんだけどどうしよう?」
「そっか、透は大きくなるものね。私が成長しないから忘れてたわ。
でも、今日明日使えなくなるわけでもないんでしょう?」
ノタさんはとても流暢に僕と同じ言葉を話す。曰く、暇だったから覚えた、との事だが昔からノタさんと一緒なので違和感は全くない。
むしろ、ノタさんのような外国の人が、外国語を話していた方が違和感を覚える。
ノタさんの問いかけに頷いて返した。ノタさんは「近々渡しに行くから」と言ってから立ち上がり、本棚に向かう。
今も眠っている僕が嵌めているであろう指輪は、ある日突然現れていた。直前で見ていた夢でノタさんが「この指輪を嵌めて寝れば私に会えるわ」と言っていた記憶があるから、ノタさんが渡したものだと小さい僕はあまり疑問には思わなかったけれど。
何冊かの本を持って来たノタさんが、ソファに座り直す。
「じゃあ、早速今日の勉強を始めるわよ。今日も授業中に寝ていたでしょ?」
「ノタさんに隠し事は出来ないね。学校では誰にも気が付かれないのに」
僕の軽口に、ノタさんは何故か愁いを帯びた瞳で返す。
しかし、ノタさんは気を取り直したように授業を始めた。
僕が勉強ができると言われる理由は言わずもがな、ノタさんが授業をしてくれるからである。幼い頃に背の小ささゆえにからかわれると話したところ、何か得意なものを作って見返したらいい、と教えてくれるようになった。
当時は運動の方が良かった。しかし、ここでは勉強くらいしか教えられない、としぶしぶ教わっていたが、お陰様で今は勉強が好きになった。とは言えノタさんの教育に慣れた今、学校の授業は退屈なのだけれど。
「じゃあ、今日の授業はここまでね」
ぱたんと教科書を閉じるノタさんにお礼を言う。本当はもっと続けて欲しいけれど、善き先生、善き姉、善き親のようなノタさんに迷惑をかけたくはない。
夢の中だから迷惑の掛かる女性がいない、と言う事は理解できているのだけれど、ノタさんだけはやはり特別なような気がするのだ。
ノタさんが教科書を本棚に戻しながら、声をかける。
「ねえ、透。起きている時間は楽しい?」
「授業は退屈だし、小さいからってからかわれるしで楽しくはないけど、昔に比べたらマシになったかな」
「透はどちらかと言えば、大きい方なのにね」
「やっぱり僕はこっちの方が好きだな。ノタさんと一緒に居られるし」
「ありがとう」
ノタさんが柔らかい笑みを浮かべる。幼い頃には母のように、小さい頃には姉のように感じていたこの微笑みは、今は僕の胸を締め付ける。
いつかノタさんよりも年上になった時、彼女は同じ表情を向けてくれるだろうか、そして僕はその笑みに何を思うのだろうか。
*
「ノタさんは、なにをしている人なの?」
「錬金術……かしらね」
「れんきんじゅっつって、なあに?」
「不思議なものをいろいろ作るのよ。で、最終的には賢者の石を作るのが目標ってところかしら」
「けんじゃの石を作ったら、どうなるの?」
ある日学校についてからホームルームまでだいぶ時間が余っていたので、ノタさんの事を思い出していた。小学生の頃だったか、「私みたいになるのよ」と返って来たのを覚えている。
目が覚めて錬金術や賢者の石について調べてみたところ、錬金術とは魔法の一種だということが分かった。賢者の石は永遠の命や膨大な知識を得る事が出来るらしく、不老不死設定もこの辺から来ているようだ。
最近はノタさん自身の話をすることは少なかったのだけれど、昔は僕が知りたがりで様々な事を教えてもらった。
自分が何年生きているか分からないけれど、不老不死になったのは十代の後半だと言う事。僕が居ない時には死ぬための方法を探している事。暇つぶしに多くの国の言葉を覚えた事など。
死ぬための方法を探していると聞いた時には死ぬと言う事を理解していなかったし、今となっては夢の話と心配していない。
それとは別に、僕が大きくなったら迎えに行くとノタさんが言っていた事も思い出した。
昔はこれを励みに生きていたな、と懐かしんでいたので気が付かなかったが、何やら教室が騒めいている。
どうしたのだろうと、辺りを見回したところ、丁度愛実ちゃんが居たので「何かあったの?」と尋ねた。
「転校生が来るんだって。女の子みたいで男子が騒いでいるんだよ。後ろの列に机が一つ増えているの、気が付いた?」
「本当だ、増えてる。でも、高校で転校生って言うのも珍しいね」
「怖い人でもあたしが守ってあげるよ」
「守るって何さ」
冗談のように笑い混じりで返すけれど、愛実ちゃんはいつも僕を守ろうとしてくれていた。始まりは小学校に入学する前だろうか。
親同士仲が良く幼いころから一緒に遊んでいたのだけれど、ある時母さんが愛実ちゃんに、身体の小さい僕を守るように頼んでいたような記憶がある。
以来、愛実ちゃんは目の届く範囲では守ってくれていたけれど、女に守られている情けない奴と裏では結構笑われていた。
愛実ちゃんの気持ちまで否定するつもりはないが結果的には逆効果で、ノタさんのアドバイスの方が有益だったといえる。
裏での事を知らない愛実ちゃんは、何かと世話を焼いていた。悪く言えば僕を甘やかしていた。
掃除でゴミ捨てに行こうとすれば横からゴミ袋を掻っ攫って捨てに行き、遠足でリュックを背負っていれば重いだろうとリュックを盗られ、僕を悪く言おう者が居たら物申しに行く。
かくして優等生西園愛実は出来上がったのだけれど、唯一勉強だけは僕の方が出来る――順位で見たら、僕と愛実ちゃんはそんなに変わらないけれど。
高校に入ってからは、愛実ちゃんは忙しそうにしているので落ち着いてきたかなと思っていたのだけれど、偶にこうやって世話焼きが顔を出す。
誰が言い出したのか分からない転校生の噂は、ホームルームを知らせるチャイムが鳴っても続き、見兼ねた担任が「はい、しずかに」と大きな声を出した。
ピタッと話し声が止んだところで、先生が話し始める。
「今日は転校生が来たので、紹介しておく。では、入ってくれ」
声に続いて、教室のドアが開かれる。現れた女子生徒は白い肌に薄い茶色の髪、一目で外国の人だと分かる顔立ちで、よく見たら瞳が緑色をしていた。
この学校の制服を着ているけれど、どう見てもノタさんにしか見えない。
夢だろうかと安易に頬を抓ってみたら痛くて、今度は目を疑う。
予想外の人物――外国人――にクラスメイトも騒ぎ始めるが、先生は無視するように黒板に文字を書いた。
「アルス・マグナさんだ。一言貰っていいか?」
「アルス・マグナと言います。言葉はちゃんと通じますので、普通に接してくれたら嬉しいです」
「じゃあ、マグナさんには一番後ろの席に座って貰おうか」
転校生の紹介は淡々と終わったけれど、僕の中に疑問が残った。アルス・マグナと名乗ったけれど、その声はノタさんのものと変わらないのだから。
しかしノタさんは夢の中の存在、偶々似ていただけと考えるのが普通ではあるのか。
クラスの視線を集める少女が新たな席に着いたところで、ホームルームが再開された。
休みに時間に入る度に、転校生の少女はクラスメイト達に囲まれていた。
僕はそれに混ざる事はせずに、遠目に彼女を見ていたのだけれど、話し方や細かいしぐさ、雰囲気とどこまでもノタさんに似ていた。
頭もよく、名前を呼びたいだけじゃないかと思う先生たちから何度も指名され、全てを完璧に答えていた――僕が寝ている時の事は分からないけれど。
放課後になっても囲まれていた彼女だったが、用事があるからと荷物を纏めて席を立つ。
教室の前方と後方に二つある出入り口の、後ろの方から出ていけば良いのに、何故か僕がいる前の方へとやって来た。
そして隣を通り過ぎていくときに、ぽつりと「居眠りしない方が良いわよ」と呟いて教室を後にする。
唖然としたが、我に戻り次第すぐに彼女を追いかけた。
僕が居眠りしている事に気が付いたのはノタさんを除けば彼女が初めてだったから。
階段に差し掛かったところで、何故か上に登っていく影が見えたので、帰ろうとしている生徒を避けつつ付いて行く。体格のせいもあってか全然追いつけないのだけれど、屋上への扉の鍵はかかっているし、四階の階段を上がってしまえば、先には屋上への扉しかない。
上へ上へ向かう彼女が屋上までの一本道に差し掛かったところで、勝ちを確信して歩みを緩めた。
息を整えつつ、屋上の扉の前にたどり着いた時、扉の前に彼女の姿はなかった。無論、すれ違った人もいない。
考えにくいが、あの目立つ容貌の人を見失ったのだろうか。様々な可能性を考察している時に、屋上の扉が開いているのではないかという結論に行きついた。
試しにドアノブを捻り、押してみる。重たい鉄の扉はゆっくりと動き始め、風が吹き込んできたかと思うと、まばゆい光が差し込んできた。
空が赤くなりかけている微妙な時間。青よりも白に近い色の空の下、茶髪の女の子が立っている。
もしかしたら、偶然扉が開いていたのかもしれない。しかしアルス・マグナと名乗った少女は明確な意思を持って、迷いも躊躇いも無くここまで登ってきていた。
それはつまり、鍵の有無に限らず扉を開ける方法を持っていた、と言う事にならないだろうか。もちろん屋上の鍵は、借りたいからと言って借りられるものではない。
一般生徒にはまず不可能な事だが、もしも彼女がノタさんであれば可能だと言いきれる。何せ彼女は魔法使いなのだから。
こちらに気が付いた彼女が、ノタさんのような微笑みを浮かべる。
「ノタさん……だよね」
「今の私はアルス・マグナよ。でも、透の夢の中ではノタ・アルケミアでもあるわね」
「ノタさん。本当に居たんだね」
思っていたよりも驚きはなかった。きっとそれは、物心つく前からノタさんと一緒にいたから。夢と言うものを理解するよりも前から、ノタさんと会話をしていたから。
「でも、どうして別の名前を名乗ってるの?」
「ノタ・アルケミアの名前で転校してきたら、透がすぐにノタさんノタさんって寄ってくるでしょ?」
「否定はできないけど……」
「無理だろうなとは思っていたけど、出来るだけ普段の透が見たかったのよ。特に居眠りをしている時を」
「何でわざわざ居眠りしている時を見たいの?」
夢から出て来てやりたいことが、人が寝ている姿を見る為と言うのも変な感じがするのだけれど。ノタさんは答える代わりに赤い石が埋め込まれた指輪を僕に握らせた。
一回り大きいが、ノタさんの指輪とほとんど同じものらしい。
「順番に説明するわね。錬金術は説明した方が良いかしら?」
「色々なものを作るんだよね。具体的に何を作れるのかって言うのは殆ど分からないんだけど、不老不死になれるようなものを作ったんだから、どんな不思議なものでも作れるんじゃないかな?」
「そう言う認識で今は問題ないわね。
透に渡していた指輪と今渡した指輪は効果としては全く同じもので、『夢への門』ってところね」
ノタさんの説明に合わせて指輪を眺める。自然の光に照らされて光る指輪が、僕にはそんなに特別なものだとは思えない。
「透は魔法使いに対して違和感がないみたいね」
ノタさんの登場や魔法という言葉に大きな反応を見せない僕に思うところがあったのか、ノタさんの話が横にそれる。
「他の人ならまだしも、ノタさんならそうなのかなって。
こうやって目の前にいるのも本当は不思議なはずなのに、むしろ日常って感じもするし。
ノタさんが制服着てるのは何か変な感じだけど」
「透が良いなら私も良いんだけれど。これから話す事が冗談だって思われたくなかっただけだから。
話を戻すわね。透に渡した指輪と私が持っている指輪が対になっていて、こっちの青い宝石が付いた方が『夢への鍵』ってところかしらね」
ノタさんが見せてくれた指輪と渡された指輪の違いは、石が赤いか青いかくらいだろう。
やはり、ノタさんの持つ指輪も普通の指輪に見える。
「この二つの指輪は私が特別に作ったもので、『夢への鍵』をした人が『夢への門』をした人の夢の中に入っていけるのよ」
「じゃあ、僕の夢にノタさんが入り込んでいたって事?」
「そう言う事ね。夢の中だから透が知らないはずの私の家も再現できたってわけ。何か質問はある?」
「そもそも、どうやって僕に指輪を渡したの? 寝ている僕にこっそり来たわけじゃないよね?」
「それに答えるには、まだ説明しないといけない事があるから後でいいかしら」
ノタさんに返答に頷く。
後からちゃんと答えてくれるようだし、急ぐことでもあるまい。
「まずは透の事からね」
「僕の事?」
想定外の言葉に頓狂な声をあげる。
「そもそも、始まりは透からなのよ」
「えっと、どういうこと?」
「透自身、自分が他の人と違うなと思う点がないかしら」
「……背が低い?」
自分で言うのは嫌だけれど、はっきりしているのはこれだと思う。
ノタさんは少し考えてから首を振る。
「透の背が低く見えるのは、あくまで結果なのよ。大本の原因があるの。覚えはない?」
問われて考えてみる。もう一つ簡単に思い浮かぶのはノタさんの存在だけれど、これは僕がどうだというよりも、ノタさんが僕の夢に入り込んでいたと言う事だから違うのだろう。
「居眠り体質?」
「プラス、それが誰にも見つからないって事ね」
最初にノタさんが、僕が居眠りしているところを見に来たのだと言っていたっけ。
でも僕が居眠りすることが、どう関係してくるのだろうか。
「分からないって顔しているわね。教えてあげるわね、透が寝ている間にこの世界で透がどうなっているかを」
「勿体つけないでよ」
自分の事だと思うと何だかじれったくて、生意気な言葉が口から出ていく。
怒っているようにも見えるだろう僕に対して、ノタさんの瞳は愁いを帯びていた。
「この世界で見たら、透は時間を跳び越えているの。
透が意識を失った瞬間に透の存在がこの世界から消えて、目が覚めた時に眠った時のまま戻ってくるのよ。
いなくなっている間、透はこの世界の人達から忘れられるわ。いいえ、透が居なかったものとして認識されているって感じね。空いた席を見た先生が、まったく気にした様子を見せなかったもの」
「だから、寝ている時の姿を誰にも見られないって事?
だとしたら、ノタさんが気が付いているのも変じゃないの?」
急に話が異次元に跳んだみたいで、全然理解が追いつかない。
とりあえず、お茶を濁す意味も込めて尋ねたが、尋ねるまでも無かったように思う。
「私はこの世界の住人ではないもの」
「この世界以外の世界があるの?」
「透は並行世界って聞いた事ある?」
「この世界によく似ている別の世界だよね。今日僕が此処に来なかった世界、みたいな感じの」
「そういう世界ばかりでもないけれど。私は、私が賢者の石を作ったために、錬金術と共に主の流れから枝分かれをして滅んだ世界から来たのよ。
主の流れっていうのはこの世界のことね。大きな木の幹から、枝が何本も分かれるのを想像してくれたらいいと思うわ」
「滅んだ?」
「ええ。そして主の流れに合わせるために滅び消えゆく一瞬を無限に引き延ばされたのが、今の私の世界。時間が無限に引き延ばされたために、成長が失われたのね。
私が成長しないのは、世界のせいではなくて、賢者の石のためだけれど。ここまでは良いかしら」
こちらを向いてノタさんが確認するけれど、良い要素は一つも無い。でも、話が少しだけ見えてきた。
「寝ている間、僕はノタさんの世界に居るんだね」
「初めて私が透を見つけたのは、透が物心つく前。散歩していたら落ちていたのよ」
「落ちていたって、何か嫌だな」
「あの状態を他の言い方をするなら、地面から生えてきたってところかしらね。
見過ごせなくて拾って帰ったんだけど、眠っているから何も出来なくてね。退屈もしていたし、指輪を作って夢にお邪魔していたの」
「つまり『夢への扉』はノタさんの世界に行った僕に、ノタさんが直接渡したもので、僕はノタさんの世界に迷い込んでいた分、成長できていないんだね。
で、僕が寝ていることに誰も気が付かないのは……」
「世界の修正力ね。私の世界にいる時、透はこの世界に認識されていなくて、居ないはずの存在を認識されると世界にゆがみが生じる可能性があるから」
ノタさんは一度話を区切って遠くを見る。青白かった空は、橙色に染め上げられて、雲が黒い影になっていた。
「なんで、僕はノタさんの世界に迷い込むんだろう……」
「理由は分からないけれど、極々稀に世界間の移動が出来る人がいるのよ。
移動する条件も人それぞれ。移動できる世界も人それぞれらしいわね。
私はこの世界と元居た世界だけしか移動できないけれど、中には無数の世界と行き来できる人もいるらしいわ」
「だとしたら、僕はノタさんの世界で良かった」
迷い込んだ僕にここまで親切にしてくれる人が居たのだから。
微笑んでくれるかなと思ったノタさんは、「ここからが本題」と真面目な顔をした。
「どうして私が透に会いに来たのか、もう殆ど話してしまったようなものだけれど」
「待って」
ノタさんの話を遮るように扉が開いて、良く知る女子生徒が姿を見せた。
「愛実ちゃん?」
何故こんな所にと疑問に思っている間に、愛実ちゃんはノタさんを睨みつけて、敵意の篭った声を出す。
「マグナさん、いえノタさんですよね」
「どちらでも構わないわよ」
「ではノタさん。とお君は絶対に、連れて行かせません」
「愛実ちゃん、何を?」
考えてみれば、愛実ちゃんは唯一ノタさんの事を――事実はどうあれ表面上は――信じていた。
だから、ノタさんが迎えに来るという話も覚えいたのかもしれない。迎えに来るが、連れていくになっているけれど。
「改めて本題に戻るわね」
愛実ちゃんを無視してノタさんが話し出すので、愛実ちゃんがさらに怒りをあらわにする。
「話を逸らさないでください」
「透と私が話している時に、いきなり話を遮って来たのは愛実でしょう?
話を聞かない訳ではないけれど、先にこちらの話を終わらせるべきではないかしら?」
少しも取り乱さないノタさんに愛実ちゃんは何か言いたそうだったけれど、良い返す言葉がないのか悔しさに肩を震わせるにとどまった。
「私が透に会いに来たのは、透に事実を知ってもらったうえで、どうするか決めてもらうため。だから、場合によっては愛実の言っていたように、透を連れていくかもしれないわ」
「事実って言うのは、ノタさんの世界と僕の体質の事?」
「加えて、二つから導き出される結論。人にもよるけれど、一日の睡眠時間は六時間から八時間ってところよね。
中でも透は長い方だから、仮に八時間とした場合、透の成長は普通の人の三分の二。居眠りも考えたら、さらに時間は伸びるわ」
「つまり、僕の年齢は大体十歳くらいって事?」
「肉体の年齢だけを考えたらね。精神の発達は時間経過によるものじゃないから、同年代と変わらないはずよ。
問題はこれから先、周りの子達との肉体年齢差が広がっていく事ね。三十歳近くまで成長を続け、なかなか老いる事のない透をたぶん世間は受け入れてくれないわ」
「話は分かりませんが、要するに成長の遅いとお君がこれからいじめに会うかも知れないと言う事ですね。
だったら、問題ありません。とお君はあたしが守りますから。今までだって守って来たんです、これからも守って見せます」
「単純に考えて透が老いるのも普通の人の三分の二。ほぼ確実に愛実の方が先に死ぬけれど、死んだ後はどう守るのかしら。
それ以前に透を守るとなると、同じ大学に進み、同じ会社に行き、常に透と一緒に行動しないといけないだろうけれど、これも不可能よね。
何より、今までだって」
「ノタさんストップ」
ノタさんとしては事実を提示しているだけなのだろうけれど、これ以上は愛実ちゃんを必要以上に傷つけかねない。
しかし、ノタさんは首を振って、言葉を続けた。
「今までだって、愛実は透を守り切れていなかったでしょう?」
「そんな事ないです。あたしが守って以来、とお君が虐められているところを見た事ありませんから」
「もちろん愛実が見ている前ではなかったでしょうね。でも、愛実が見ていない所では?
男である透が女の愛実に守られている姿を、誰もからかわなかった、って言い切れるかしら?」
愛実ちゃんが助けを求めるようにこちらを見る。「そんな事はなかった」と言って欲しいのは分かるけれど、僕は目を背ける事しか出来ない。
ショックを受けた愛実ちゃんは、先ほどまでの威勢を完全に失い、その場でうなだれた。
「愛実ちゃん、ありがとう。でもね、このままだといつか僕は、愛実ちゃんにも忘れられるんじゃないかと思うんだ」
愛実ちゃんからの返事はないけれど、ゆっくりと続ける。
「僕が寝ている時って、皆に忘れられているんだって。忘れられて、別の所に居るんだって」
「とお君……意味が分からないよ」
「でも、覚えはあるでしょ? 僕が寝ていることに誰も気が付かないし。
一日の睡眠時間は少しずつ伸びて来てるっていうのは、愛実ちゃんも気が付いていたよね。このままいけば日にち単位、もしかしたら年単位で起きないかもしれない。そうだよね、ノタさん」
今日、ノタさんに話を聞いてから頭に浮かんではいた予測は、茶髪の錬金術師によってあっさりと肯定された。いくら愛実ちゃんと言えど、一年間完全に記憶から消えていたら、僕の事を思い出すのは難しいだろう。
「忘れないよ。絶対に忘れない。とお君を守るために今まで頑張って来たんだから」
「僕はもう守ってもらわなくても……」
今にも崩れてしまいそうな必死な愛実ちゃんに、大丈夫だと言おうと思ったのだけれど、すべて言い終わる前にノタさんが僕の言葉を制止した。
「さて、透。私はね、事実を知って透がどうしたいのかを訊きに来たのよ。
透が望むなら、私の世界に連れて行ってもいいし、この世界に残ってもいい。今すぐに決めろというわけでもないし、私の世界に来たからと言って、もうこちらに世界に戻ってこられないわけでもない。
一つ言える事は、自分の意思で私の世界に足を踏み入れたら、世界は透が世界間を移動できる人だって認識するわ。今まで認識されていなかったのは、イレギュラーな世界間移動の中でも、さらにイレギュラーな方法をとっていたからだから」
「つまりノタさんの世界に行っている間でも、皆の記憶からは消えないって事だよね。
何とか記憶を消す方法ってないかな?」
「すぐにどうにかできるって意味だと、せいぜい数人が限界ね」
「だとしたら、愛実ちゃんには悪いけど、ノタさんの世界に行くよ」
ノタさんは僕に選択肢を委ねているようだけれど、殆ど一択でしかない。なんで自分だけこんな変な体質なのかと思う部分は存在するけれど、ノタさんと一緒に居られるのであれば瑣末な事。何よりノタさんの元へ行かなくても、この世界での居場所はなくなっていくだろう。
僕が居なくなることで無用な混乱を招きたくはなかったのだけれど、記憶が消せると言う事でその心配も無くなった。
「とりあえず両親の記憶を消すって事ね。最終的に透の事を知る人の殆どの記憶と、透がいた痕跡をどうにかしないといけないわけだけれど、大丈夫かしら?」
「大丈夫」
「とお君が行くなら、あたしも連れて行ってください」
僕とノタさんの話が纏まりかけたところで、愛実ちゃんが大きな声を出す。
話を遮るには十分な声で、二人の視線が愛実ちゃんに集まった。
「残念だけど、愛実を連れていくことは出来ないわ。愛実に限らず普通の人を連れていくとはできないのよ。私にはそれだけの力はない。
だけど、透の為に愛実しか出来ない事があるわ」
今日初めて、愛実ちゃんがノタさんに負の感情の篭っていない、縋る様な目を向ける。
「私にしか出来ない事ですか?」
「こちらの世界での透の居場所を守ること。行き来が自由とは言っても、いずれ透を知る人は殆どいなくなるの。
愛実ならこちらの世界で透を孤独にはさせないでしょう?」
「その為にあたしは何をしたらいいんですか?」
「今まで通り、透のために頑張ったらいいわ。愛実に余裕がなくなれば、透の相手をしている暇も無くなるもの」
「……分かりました。二度ととお君と会えなくなるわけじゃないんですね?」
「こちらの世界に居ないと透は成長しないのだから、しばらくは頻繁に行き来すると思うわ。高校からも、急にいなくなるというわけにはいかないものね。
あとは二人が連絡をとれるようなものも用意してあげる。透が望めばこちらの世界に来られるから、約束でもしたらいいわ」
愛実ちゃんは腑に落ちない様子ではあったが、折り合いがついたのか「分かりました。邪魔してごめんなさい」と頭を下げてから屋上を出て行った。
ノタさんは扉が完全に閉まるまで愛実ちゃんを見送ってから、僕に向き直る。
「と、言う事になったけれど、良かったかしら」
「良いんだけど、ノタさん。幾つか訊いて良い?」
「なにかしら?」
「どうしてここまでしてくれるの? やっぱり言っていた通り退屈だったから?」
僕の問いにノタさんは、目を閉じて、左右に首を振る。
「嬉しかったから……かしらね。ずっと一緒に居られるかもしれない存在が出来た事が。
私の世界にはもう人は居なくて、この世界で会う人も全員先立って行くのよ。
でも透は私の世界に来ることが出来るわ。透次第だけれど、少なくとも向こうに居る間は透は死ぬことはないの」
分かっていたけれど、ノタさんの返答は僕の求めていたものではなかった。
しかし落ち込むようなものでもないので、もう一つ質問をする。
「死ぬための方法は見つかったの?」
「全く分からないわね。一つ言える事は私の世界には存在しないと言う事かしら」
「見つかったらどうするの?」
「透が死んでから考えるわ。透が居る間は面倒を見ないといけないもの。
こう考えたら、私も愛実と大して変わらないのかもしれないわね」
ノタさんが一人クスクス笑う意味がわからなくて、どういうことか尋ねてみたけれど、ノタさんは答えてはくれなかった。
*
ノタさんの世界に来てから数か月――あくまで主の流れから見てだが――が経ち、だいぶこの世界の生活にも慣れてきた。
朝とも昼とも分からない時間で滅んだという世界は、とても過ごしやすく、病気や空腹とも無縁の為むしろ以前よりも生きやすいと感じる事もある。
ノタさんの家は夢で見ていたものと同じで、でも思っていた以上に部屋が多かった。
この数か月で学校に行かなくなり、代わりにノタさんに授業をして貰う時間が増えた。錬金術も教えてもらうのだけれど、今は基本すらわからない。
愛実ちゃんとは週に一回程度の頻度で連絡を取っている。ほとんどが近況報告のようなもの――というか、姉が弟を心配しているという感じ――だけれど、僕の睡眠時間が長くなっているのでいつか月に一度とか、年に一度とかになるのだろう。
今日もまた授業中に、急な眠気に襲われる。重い瞼を何とか持ち上げ、ソファに横になったところでノタさんが僕の寝ている横に座わり、僕の頭の上に手を乗せる。
「少しだけ話せるかしら?」
「寝ても怒らないならいいよ」
「透は睡眠時間が長くなって怖くはない?」
「長くなったと言っても、まだ半日程度だし。ノタさんとは夢の中でも会えるし。
それに、例え百年寝ていても、千年寝ていても、目が覚めたらノタさんは居てくれるんでしょ?」
霞む目の向こうで、ノタさんが頷く。
最後の力を振り絞って、ノタさんの頬に手を添えたら、伸ばした手をノタさんが優しく包み込み、微笑んだ。
この締め付けるような胸の痛みはやっぱり恋だよなと秘めていたら、「おやすみなさい」と優しい声が聞こえてきた。