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俺の部屋には時々幼女になった総理大臣がやってくる

作者: 貴塚木ノ実

 日付が変わる前の夜の道。

 商店街のネオンカラーが眩しい。

 俺の足は力なく8畳1Kのボロアパートへ向いている。


「ああ、疲れたなあ」


 俺はひとりごちて夜空を見上げる。何もかも虚しく感じてしまう曇天の空だ。

 俺はかつてとある政治家の秘書をやっていた。

 しかし数年前、ペコペコと有権者に頭を下げる毎日に嫌気が差して、なかば逃げ出すように辞めてしまった。

 以来、俺は何をやってもうまく行かず、今やフリーター生活。


 40にもなってフリーターなんて恥ずかしくないのかい? という親の厳しい声を思い出す。

 わかってるよ、だからこうして都内某所で人目を忍ぶ独身生活なんじゃないか。


 実は俺が秘書を務めていた政治家というのが――


「総理! 逃げないでください! カップラーメンの値段が1個1000円という答弁をしている時点であなたには庶民の感覚というものが理解できていないんですよッ! それなのに国民の財布に優しい経済政策なんておこがましいと思いませんか!」

『麻部幸太郎くん』

「えー。カップラメーンの値段については不勉強ではあったことは認めざるを得ません。ですがここは予算委員会でございますので、議題の趣旨に沿った質問をお願いしたいと存じます」

『高橋よし子くん』

「キィー! そういう傲慢な態度でよく総理大臣を……」


 ――と国会で馬鹿な相手にいちゃもんを付けられて困っている方、日本国内閣総理大臣・麻部幸太郎先生である。

 俺は商店街のテレビから聞こえてきたニュースを横目に、ふと思い出す。


 先生はとても厳しく、人使いの荒い人だった。

 特に俺に対しては、嫌気が差すくらいに雑用ばかり命じてきた。

 俺は嫌な思い出を忘れたくて、少し小走りになり、ようやく自宅へ帰還した。

 今日はもうさっさと寝よう、そう思って玄関を開け、靴を脱ごうとしゃがんだ時だった。


「おかえり! お兄ちゃん!」

「おわっ!」


 俺の胸に、幼女が飛び込んできた。


「え? 誰!?」

「えー? 私のこと忘れちゃったのー?」

「いや、マジで? え? なにこれ」

「そんなあ……」


 俺が呆気に取られている間に、幼女は俺の胸の中でみるみるまに涙で濡れて、への字口。

 いや、マジで誰だ。

 幼稚園児……いや、小学生低学年か?

 肩まであろうかというサラサラの黒髪に長いまつげが少し可愛らしくも見える。

 だが俺の部屋に幼女が居た、というシチュエーションが理解できない。

 俺が混乱している間にも幼女はヒックヒックと泣きやまず、玄関先の空気が固まってしまった。


「そちらにいらっしゃるのは、内閣総理大臣、麻部幸太郎先生です」

「ひえ!?」

「久しぶりですね。吉田君」


 部屋の奥からどこかで見た顔が出てきた。


「あ、田中! 田中じゃないか!」

「まだ覚えていてくれたんですね」

「懐かしいな、久しぶりだ」

「はい。あなたが逃げ出すように辞めて以来です」

「……」


 強烈な嫌味に、俺は黙ってしまう。


 俺と田中栄助は、同い年である。

 そして30も半ばになった時、俺と田中栄助は一般公募枠で麻部先生の秘書軍団の末席に加わった。

 俺は目の前にいる田中栄助というやつが大嫌いだった。

 田中栄助はとんでもなく優秀で、手際がいい。しかしどうしようもなく事務的で、非人間的で、何事も冷徹に処理していく。

 俺はそれが気に食わなかった。


「それで……この女の子がなんだって?」

「はい。その女の子は内閣総理大臣、麻部幸太郎先生です」


 これだから俺は田中栄助が嫌いなんだ。さも知っていて当然のように言ってくる。

 鋭い目つきに細い眉毛。外見すらも冷徹に見えてくるから不思議なものだ。さしずめ冷徹仮面といったところだ。


「馬鹿なことを言うなよ、こんな幼子が麻部先生なわけがない。先生は少々髪は薄いが初老の紳士だろう」

「……そうですね。つい1時間程前はそうでした」

「なに?」


 ふう、とため息をつく田中栄助の眉間が険しい。


「ひとまず玄関先で騒がしいのも近所迷惑ですので、中へ入りませんか」

「ここは俺の部屋だがな……」


 田中栄助の当然だろう、という態度も気に食わなかったが、指摘はもっともだった。

 俺は頭に浮かぶ様々な疑問をまるで箒でゴミを吐き出すように脇へのける。

 その間にも幼女は俺の胸から離れようとしないので、仕方なく俺は幼女を抱っこして我が牙城へ入った。


 俺は幼女を抱っこしながらガラス製のテーブルを挟んで座る、田中栄助を睨みつけた。

 幼女はすっかり大人しくなり、俺の表情を不安げに見守っている。


「で、この幼子が1時間前まで麻部先生だったって? 一体どこの馬鹿が考えた奇特な妄想だ?」

「……端的に申しますと、ストレス性退行障害です。さらに性別逆転現象まで発症された珍しい症例だそうです」


 本当に馬鹿じゃなかろうか。


「ストレス性というのは理解できる。総理大臣……先生は分刻みスケジュールの激務で参っているかもしれない、と心配する毎日だった」

「ホントに!?」


 俺と田中栄助との会話に、幼女が割り込んできた。

 いつの間にか泣き止んでくれていたのは良かったが、少し邪魔だな。


「ちょっとお嬢さん、少しだけこの怖いおじさんと話したいから、静かにしてくれるかい?」

「えー。やだー。私と遊んでくれなくちゃいやー」


 ……俺は子ども嫌いという特性を身につけそうな気がする。


「先生、吉田君……いや、お兄ちゃんも納得してくれないと遊んでくれないと思いますので、少しよろしいでしょうか」

「やだー! 今遊んでー」

「分かりました。先生。5分だけ我慢してください。そうすれば後は好きになさって結構です」

「ホント!? 約束だよ!」


 おい田中、妙な約束をするんじゃない、と俺は文句を言いそうになったが、幼女が静かになったので田中栄助が鋭い――冷徹な眼を向けてきた。


「吉田君がおっしゃる通り、総理の激務たるや筆舌に尽くしがたいものがあります。その結果、つい1時間前に総理官邸の公務室でこの少女が発見されました」


 どの結果だよ。意味がわからない。

 負け犬人生の俺を馬鹿にしているのか。


「いい加減にしろよ、田中栄助。こんな馬鹿なことをして俺を騙して、笑いものにでもするつもりだろう」

「いいえ、違います」


 そして俺は目をむいた。


「どうかこの通り、その女の子のわがままを目一杯聞いてあげて、ストレスを解消してくれませんか」

「……!」


 田中栄助が床に頭を擦り付けるように土下座していた。

 どうしようもなく事務的で、非人間的で、何事も冷徹に処理する田中栄助が土下座をするなんて。


「……話をもう少し聞かせてくれ」


 これはもう、真剣に話を聞くしかない。

 田中栄助が土下座するなんて、考えられないことだからだ。


「はい。ストレス性退行障害は日本国総理大臣にだけ発症する世界に類を見ない症状です。性格ばかりか外見まで幼児化してしまう現象ということです」

「聞いたことがないな」

「そうですね。こんな馬鹿げだ症例は私も1時間前に初めて聞きましたから。ですが総理官邸専属主治医がはっきりと断言しました。これがその証拠です」


 そう言うとまるで読むことができない、ミミズが這ったようなカルテと、歴代総理の幼児化例という写真。

 さらには先々代の総理大臣が幼児化する瞬間、という少々気持ち悪い連続写真まで見せられた。

 これでどう信じろと言うのだ。


「先生は昨今の大変レベルの低い野党の質問に大層ストレスを感じてしまわれているようで、幼児化するばかりか、性別まで逆転なされたようです。この現象は戦前の大宰相、浜吉鶴夫先生以来だそうです」


 くっ。がんばれ俺の理解力。

 さも当然のように馬鹿なことを言う、かつての同期の言葉を精査するんだ。


「……それで、この茶番はどうしたら収まるんだ?」

「はい、とにかく溜まりに溜まったストレスを解消しなければこの症状は改善されません。ストレスの解消はこの幼子のわがままをとにかく聞いてあげることしかないそうです」


 俺は力なく笑うしかなかった。


「じゃあなんで俺なんだ。俺のいない間に部屋まであがりこんで……」

「それは先生のご指名です。吉田のお兄ちゃんと遊びたい、とひたすら泣いてごねましたので、そこであなたの現住所を突き止め、合鍵を用意し、先回りした次第です」

「そうか……うん!?」


 一瞬納得しかけた俺は、田中栄助を睨みつけた。


「待て、つい1時間前に発症したそうだな?」

「はい」


 たった1時間で診察を終え、ここまでやってのけたというのか。

 恐ろしいな日本政府の本気は。


「わかった……。事情はあまり飲み込めていないが、とにかくこの幼子と一緒に遊んでやればいいんだな? そうすればこの馬鹿な騒動はとりあえず収まるんだな?」

「そう考えて結構です」


 俺はふう、とため息を付いて、とりあえずこの馬鹿みたいな状況を受け入れることをした。

 なにはともあれ、この少女の機嫌を取れば開放されると言うのだから。

 俺は膝の上から俺を見つめる少女と目を合わせる。


「お嬢さんの名前はなんて言うんだい?」

「えっとねえ、さっちゃん。私はさっちゃんだよー」

「そうかい。さっちゃん、よろしくね。年はいくつなの?」

「6歳だよー。ねーねー。お兄ちゃんはさっちゃんと遊んでくれるの?」

「そうだね」

「やったあ」


 ムギュッと俺の首に細い腕を回してきて、頬をすり寄せてくる。

 うむ。何やら牛乳のような匂いが。


「なにして遊ぼうか?」

「えっとね、えっとね。お馬さんごっこ!」


 くっ。幼女め。

 いきなりハードな遊びを要求してきたな。


「分かった。じゃあ俺がお馬さん役だな」

「わあい!」

「ヒヒーン! ぶるるる!」


 俺の背中にまたがり、キャッキャッキャッキャと喜ぶさっちゃん。彼女を楽しませるために、俺は無心で馬役になりきった。

 さっさと終われ。さっさと飽きろ。

 しかし俺の内心の恨み節とは裏腹に、随分と俺の背中が気に入ったようだ。

 幾度かの休憩を挟んで30分ほども付き合わされた。

 さすがに俺がへばって肩で息をするようになったのを見て、さっちゃんは同情したのか背中から下りてくれた。


「じゃあ次はね、次はね。お医者さんごっこ!」


 うむ。定番だな。


「いいよ。どちらがお医者さん役をやるんだい?」

「お兄ちゃんがやってー!」

「よし、じゃあさっちゃんが患者さん役だね」

「うん!」

「じゃあ横になって」

「はーい」


 俺の指示に大人しく天井を見て寝転がるさっちゃん。

 しがないフリーターのボロアパートには、とてもではないが似つかわしくない光景だ。

 その時、俺の脳裏に悪戯心が芽生える。


「おい。そこの看護師よ。この少女の病気はなんだ」

「む」


 俺がさっちゃんと遊ぶ様を、あくまで冷徹な眼差しで見守る田中栄助に話を振る。

 ふふ。いいぞ。その冷徹仮面を焦らせるがいい。


「胸の病気かもしれません」

「あっさり乗ってきやがったな、君は」


 この不条理さに鼻をひく付かせて抗議する俺を余所に、冷静に幼女の服を脱がそうとする田中栄助。


「キャハハ! くすぐったいよう!」


 それに敏感に反応し、くすぐったそうに身をよじるさっちゃん。

 だが待て。おい、いいのか田中栄助。お前は今、世間様にとても見せられないシチュエーションにあるぞ。

 これを盗撮されていたら、お前の政治生命は確実に絶たれてしまうわけだが。

 あ、それは先生もか。

 秘書の不始末で先生に迷惑がかかってはならない。

 仕方なく俺は、とにかくこの幼女の遊びにつきやってやることにした。


「はい、大人しくしましょうねー。すぐに終わりますよー」

「アハ! はーい」


 俺はポチポチ、と小さなシャツのボタンを外し前を広げる。

 そして胸辺りを触りながら、聴診器を耳に当てる素振りをする。


「はい、大きく息を吸ってー」

「すー」

「はい、ゆっくりはいてー」

「はー」

「また吸ってー」

「すー」

「はい、とめて」

「う……」

「はい、いいですよー」

「は~」


 何故、息を吸ったり吐いたりするのか俺は正直よく分かっていないが、とりあえず病院でよくやる真似事をしてみた。


「ふわあ」

「おや。眠くなってきたかい?」


 横になったせいか、さっちゃんが眠そうにあくびを一つ。

 そう言えば今はもう深夜ではないか。子どもが起きているには遅すぎる時間だ。

 だがさっちゃんは俺のあぐらの上に乗ってきた。


「うぅ~。まだ遊ぶ~」


 しかし言葉とは別に、猫のように丸くなってしまい、そのまま可愛い寝息を立て始めた。


「おい、田中。これはもうストレスが解消されたということではないか」

「そうですね。そうだと思います」

「よし、これでお役御免ということだな」

「はい。礼を言います。謝礼金は後日にでも」


 冷徹仮面が曲がりなりにも頭を下げたのだ。

 俺も頭を下げさせただけの働きをしたはずだ。


 田中栄助はさっちゃんを抱え上げると、起こさないよう静かに玄関に向かう。

 俺はその背中に愚痴をこぼす。


「こう言っては悪いが、二度と来てくれるな」

「……それは先生次第ではないでしょうか」

「……」


 俺はつい顔をしかめて田中栄助とさっちゃんを見てしまった。

 だが俺の嫌な予感は外れ、それから2週間ほどはとても平和な日々を過ごした。


 そして休みの日、たっぷりと寝て夕方に起きた日のことだ。

 テレビをつけると夕方のニュースをやっていて、今日の国会の模様を流している。


「いいですか、総理。ミサイルが着弾しても、すぐに打った相手が分かるわけないんです。相手が分かってもいないのに、隣国をミサイル発射国と決めつけて反撃してしまうのは、まさに総理の暴走と言わざるをえないでしょうが!」

「ですから、当国の監視システムでは……」


 ああ。

 また野党が馬鹿な質問を先生にぶつけている。

 安らかな日々が失われる気がする。


 ――ピンポーン


「……はい」

「お兄ちゃん! 遊びにきたよ!」


 俺の部屋には時々幼女になった総理大臣がやってくる。

スベっていたらごめんなさい。

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