講師
かくして吉平の興味は読み書きに移ってしまった。
道具は用意できるけど、講師がいない。保憲は今で手一杯だから時間を割いて教えて貰うわけにもいかない。
「保憲様、読み書きや算術はどうやって覚えるものなのですか?」
「えっと、遥晃様は親から教えて貰えませんでしたか?」
あぁ、親ができれば子供に教えるのか。多分生前の遥晃もそうしてたんだろう。
しかし、今の自分は教えれるほどではない。梨花さんは農村出身でほとんどできない。
「なにか、教育機関等は無いんですか?」
「教育機関、ですか。大学寮で読み書きから算術を習えますが、それでもある程度は基礎ができていないといけませんし。入学も10歳からで今は無理でしょう」
大学があるらしい。官僚の育成機関だから現代と変わらないのかな。
そこまでの知識は必要ないだろう。
「やはり庶民のための学校は無いんですね」
「えぇ。その昔空海が庶民向けに創設したらしいですがすぐに廃れてしまった様です」
なんと空海が動こうとしたらしい。
庶民の水準をあげようと奮闘したらしいが浸透しなかった。
結局親が文書に接して知識があれば子供に教えることができる、読み書きを必要としない農民やうちみたいな家族はそのまま教わる機会が無い、と言うわけか。
「貴族の方には寺に預けたり、学士や僧を雇って教えたりもするらしいですよ」
保憲にいい案を貰う。寺に預ける、か。
あそこなら教えてもらえるかな。預かって貰う……いや、あの不味い飯を吉平に食べさせるのは申し訳ない。
都から離れてるし、簡単に会いに行くこともできない。
4歳児を外に放り出すのも気が引ける。預けずに家庭教師……んー、どうしたらいいだろう。
「吉平、まだ考えがまとまらないからしばらく待ってもらえるかい」
「うん……わかった。で、でもよみかきしたい! 父ちゃんおねがいだよ!」
「あぁ。わかった」
気のない返事しかできなかった。取り敢えず保憲の勉強に移った。
* * *
子供の意欲は尊重すべきだ。やりたいと思った事はできるだけやらせて褒めて伸ばす。
吉平がやりたいと願っているなら叶えてあげるべきだ。まだ幼いから、できなくても困らない、そんな言い訳で若い芽を摘むべきではない。
そうは思ってもどの形が最善なのかいまいちピンと来ない。
吉平へ返答できず時間だけが経っていた。
「俺、まさのぶおじちゃんのとこでべんきょうしたい!」
仕事から帰ると吉平に言われた。
「なんで正宣の名前がでてくるんだよ」
「はるさんが仕事に出たあと正宣さんがこちらにいらしたんですよ。吉平が話したら正宣さんが教えてあげるって言ってくださいました」
ヤマモモをお裾分けしに来たみたいだ。正宣には貰ってばっかりだな。
しかし、正宣か……悩む。
「吉平の事ですけど、私は正宣さんにお願いするのがいいと思いますよ」
夜、梨花さんに提案される。
確かにそうなんだ。正宣がやってくれると言ってるのに、断ってしまうとよくない気がする。
「はるさんも吉平をお寺に預けるのは反対でしょ?」
それはそうなんだけど、正宣というのが問題なんだ。彼の口から出た言葉は都を駆け抜けてしまう。
でも、この話が上がってしまったら断るのも難しいのは確か。
「吉平の意志を尊重しろって言ったじゃないですか。私からもお願いします」
うぅ、梨花さんに見つめられると言葉に困る。でも、吉平が何か漏らしてしまうと大事になるかもしれ……
「ダメですか?」
堕ちました。ごめんなさい。
不安は残るけど、梨花さんにそんな目で頼まれたら何も言い返せないよ。吉平にも教わる環境を作ると言ってしまったし、なあなあで時間も経っていた。なんとかしなきゃいけなかったのは事実だ。
しょうがない。もう、正宣に頼もう。
「正宣にはできるだけ家の事は言っちゃ駄目だからね」
「父ちゃん、もう聞きあきたよ! だいじょうぶ!」
結局決まってしまった。もし保憲の事が知られて広まる事になったら兼通に狙われるかもしれない。
兼家もどうなるか。
保憲も安全ではなくなる?
吉平を送ってしまうと不安がどんどん膨らんできた。
これでよかったのだろうか。吉平は読み書きを習えるようになったが、俺は押し潰されるような気分だった。
* * *
「遥晃」
「うわぅ!」
「何変な声出してるんだよ。ちょっと頼み事があるんだが」
仕事中でも声をかけられる度にびっくりする。
「礼はいらないって言ったんだけどさ、この前もらった食べ物、家の人らに好評でさ。もしよければまた貰いたいんだが大丈夫か?」
「あ、ああ……いくらでも。喜んで。作り方とかも教えるよ」
「本当か! よろしく頼む」
大きな問題が起こることは無かったが、しばらく俺はビクビクした生活を余儀なくされた。




