梨花の法力
最後に10分、蒸らす。赤子が泣いても開けてはいけない。永遠と思われるその時間を経て再開を果たす。
蓋を開けると蒸気が吹き出し、それは顔を出した。
白米。
粥ではない。しっかりと水を吸い、艶やかな光沢を持った、粒の立つ白飯だ。
山盛りで食卓に提供される。
「いただきます」
自然の恩恵に最大の敬意を払い、米を乗せた匙を口元に寄せる。
口に含み咀嚼をすれば、その一粒一粒が存在を主張してくる。玄米のやや硬い食感。炊きたてのみずみずしさ。噛むほどに広がる優しい甘味。
口内で宇宙が広がる。有史以来の人類の発展が、森羅万象の進化の歴史が集約して展開されていく。
欲望に駈られた胃が嚥下を促す。
消化器官の要求に従うと、五臓六腑が歓喜を挙げた。
感動を共有できなかった肺からため息が漏れる。
美味い。
美味すぎる。
この時代に来て、本来受けることの出来なかった恩顧を今まさに噛み締めている。
最低限の文化的な生活。その幸福を享受する。
「しっかり噛んで食べるんだぞ」
この家は、最早庶民を凌駕した崇高な聖地と化した。
* * *
兼家様のお誘いには乗ることは出来なかった。
俺には出来ない事が多すぎる。たまたま上手くいった事で持ち上げられても、今後も対応できるという自信がなかった。
兼家様の恩賞ももはや必要無い。
俺は贅沢な暮らしは望んでいない。質素でいいから、波風の立たない普通の暮らしで十分だ。
それこそ、庶民を越えた生活ができている。
健康な体。白いご飯。お嫁さんに子供が2人。
それだけで満足だった。
兼家様の手助けと言っても、俺に出来ることはほとんど無い。
それなら近くにいて、いざというときに足を引っ張ってしまうよりはこうして距離を取っていた方がいいと思ったんだ。
いや、言い訳だな。
本音はあまり余計な事をしたくないだけだ。
責任も取りたくない。
面倒には関わりたくない。
兼家様を国のトップに立たせたい。そんな願望も白米の前では霞のように消えてしまった。
* * *
「ごめんください」
亜空間のトリップを玄関先の一言で阻害される。
やれやれ。どうしてこうも平穏を邪魔されるんだ。
「あの、昨日見た夢なんですが」
玄関に立つ女性に懇願される。兼家様の家で起こったことは下人の口から都に広まってしまった。
正宣の作った伝説も溶け合い、俺は今や絶大な力を持った術師になっているらしい。
「申し訳ございません。そういったことは自分には出来ないんです」
こうして朝一に夢を占ってくれと言ってくる人がちらほら出てきた。
断り続けているが、戸が鳴らない日は無い。
中にはケチだとか、術も使えない嘘つきだとか、不名誉な噂を広めようとする輩もいる。
俺としてはその方が望ましい。
出来ないものは出来ないんです。
* * *
そんな力があったら使いたいよ。
食事を終え、畑を見てそう漏らしてしまう。
大豆は葉が広がってきたけど緑は薄く、線も細い。野菜の方は芽が出たあと枯れてしまった。
耕したら育つんじゃないの?
雑草は青々と繁っているのに、植えた物だけが弱っている。水はしっかりあげているのに。
原因が分からない。やはりこの時代で大豆を普及させるのは難しいのか?
「梨花さん、野菜が上手く育てられないんだけど」
農家出身の梨花さんに助けを求める。
「え?はるさん術でなんとか出来ないんですか?」
「だからー、そんな力無いんだよ。畑作業ってやったこと無いからよく分からない。雑草は生えてきてるのに……」
「んーと」
梨花さんと畑に出る。
「草は生えてるのに野菜は育たない……あっ! うふふ。はるさん、灰を持ってきてください」
「灰?」
「ええ。私が術でこの作物を治します。ふふ」
梨花さんには心当たりがあるみたいだった。
「持ってきたよ」
籠に入れた灰を梨花さんに渡す。
「農家をしていた時に教わった事なんですよ。土には邪気が宿っていて、人が欲しい作物を枯らしてダメにしてしまうんですって。
種を蒔く前に灰で土を清めないといけないんです。灰には気を祓う事ができるんです」
「そ、そうなの? そんな話があるんだ。確かに耕しただけだったけど。でももう植えて、芽も出てきてしまってるけど大丈夫なの?」
「ええ。株から離して蒔けば大丈夫です」
梨花さんの自信ありげな口調に、原理は分からないが安心できた。
梨花さんの言う通り、畑は日が経つに連れて効果が出てきた。
弱ってた葉は枯れ落ちてしまったが、新しく出てきた芽は緑色をしたしっかりしたものだった。
草むしりをしながら梨花さんの術に感動する。
理由が分からず困った事を颯爽と解決してしまう。これは正しく魔法だ。
灰は肥料になるのか? アルカリ……土壌のpHを変えているのか?
皆には自分がこう映っているのか。
俺はこの時代で術師になってしまったのか。
空に向かって伸びる大豆の横で、俺はひどく落胆した。




