そのご
約束した宿屋に到着し、馬を預けて世話を頼むと、すぐに部屋へと向かう。
「レーネは?」
ノックもそこそこに、いきなり乱暴に扉を開けたカルナートは、たちまち「シッ!」と鋭くたしなめられた。
「もう、病人が寝てるんだから、静かにしてね!」
これだから男の人はデリカシーないっていうのよとぷりぷり怒る女に唖然として、それから少しむっとした表情に変わる。
「お前は……」
「あたしはこの町で薬師をやってるエルナよ」
ふふん、とやけに偉そうに胸を反らすエルナは、あまり薬師らしいように思えなかった。だが、カルナートは口を噤んだまま「そうか」とだけ応える。
「エルナさんですか。レーネの容体はどうですか?」
カルナートを横に押しやるように前に出たハルに、エルナはにっこりと笑う。
「ヴィルム……“森の魔法使い”の診立てでは問題なし。熱は落馬の負傷によるショックだろうって。怪我はちゃんと癒されてるし、このまま2、3日安静にして、熱が下がれば大丈夫よ」
「よかった……」
眉を上げたエルナは、カルナートをちらりと見やる。
「あと、これは薬。熱冷まし。起きたら何か消化のいいものを食べさせて、その後ぬるま湯に溶いて飲ませてあげて」
1回ずつの処方を紙に包んだものを渡したエルナは、「それじゃ、あたしは帰るわね」とそのまま手を振って部屋を出て行った。
渡された薬とレーネを見比べて、カルナートは、少しだけ安堵したようだ。
その背中をポンと叩いて、ハルは隣のベッドを指差す。
「もう大丈夫ですから、君は寝なさい」
「なんでだよ」
「自分の顔を鏡で見てみればわかります。昨日からほぼ寝ていないでしょう」
「な……」
「そんな顔をレーネさんに見せるつもりですかみっともない。それと、さっさと鎧を外してください。部屋が狭いんですよ」
顔を顰めて、けれどおとなしく従って、カルナートは鎧の留め金を外し始めた。
「隣の部屋にお湯を用意しましたから、ハルも休んでください」
つい今しがたの会話が聞こえていたのか、部屋に入って来たターシスに言われてハルも思わず顔を顰める。
「俺は問題ないですが」
「相当よれよれに見えますよ。馬もかなり疲れていたし、無茶をしたんでしょう」
「わかりました。アルティを置いておきますから、何かあれば起こしてください」
はあ、と溜息を吐いてハルは隣の部屋へと向かう。肩から降りたアルティは、レーネの足元に登って丸くなった。
「君も、寝る前にこれで少し身綺麗にするといい」
お湯を満たした小さなたらいをサイドテーブルに置かれて、カルナートはもう一度のろのろと頷いた。
「聞いただろう? この町の“森の魔法使い”の診立てでは、レーネに問題はない」
「ああ……」
それでも、どこか不安そうな表情でターシスを見るカルナートに、苦笑する。
「怪我はきれいに治ってるし、骨も問題ない。意識はしっかりしていた。手足に痺れはなく、感覚もきちんとあった。動くことだって確認した。
熱は落馬のショックで出たものだ。それももう、ほぼ下がってる。
だから、レーネは大丈夫だ」
大きく吐息を漏らし、カルナートは濡らした布で顔を拭う。
「レーネを、危険な目に合わせたくなかった」
「そういうことは、僕じゃなくて本人に言ってやれ。言わなきゃ伝わらないぞ」
カルナートは小さく顔を顰めた。
「けれど、すぐ横にいたのに」
「──あそこに鷲獅子が現れることは滅多にないんだ。今回は君やレーネのせいじゃない。運も悪かったし、どちらかといえば、油断して気付くのに遅れた僕の責任でもある。
普通は、山の南に獲物の豊富ないい狩場があるから、そっちへ行くはずなんだよ。けれど、まだ若くて小柄な鷲獅子だったから、狩場争いに負けてこの街道のほうに来たんだろうな」
「そういうことも、あるのか……」
「とにかく、少し休むんだ。レーネが目を覚ましたら起こすから」
カルナートはようやく納得したのか、のそのそとベッドに潜り込んだ。
もぞ、と毛布が揺れて「う」という声が上がった。
にゃあ、とアルティが起き上がり、レーネの枕元を覗き込む。
「アルティ、カルナートを起こしてやってくれ。
レーネ、気分はどうだ?」
「だい、じょうぶです」
アルティがぴょこんと隣のベッドに移り、カルナートの腹を思い切り踏んだ。そのままべしべし前脚で鼻を叩くとすぐに目を覚まし、がばっと起き上がる。その拍子にころりと転がり落ちたアルティが、抗議をするように「にゃあ」とひと声鳴いた。
「レーネ!」
「え……カルナート?」
どことなくぼんやりとした目つきで、レーネはカルナートへと視線を向ける。
「痛いところはないか? 目は見えてるか?」
「え、大丈夫、です」
「本当に? 我慢はしていないな?」
真剣な顔をして自分を見つめるカルナートを、ぽかんと口を開いて見返して、レーネは茫然と呟いた。
「……どうして、カルナートが泣いてるんですか」
「う……うるさい」
ぐい、と袖で顔を拭い、眼を逸らす。
その後ろで、ターシスは「ハルを呼んでくるよ」と小さく告げて部屋を出た。
「死んだら、どうしようかと思ったんだ」
「そんな……」
ぽつりと呟くカルナートを、レーネは不思議そうに見上げた。自分が死んだって、カルナートには何の影響もないだろうにと考えながら。
「単に、私がまた失敗しちゃっただけで、カルナートのせいじゃないのに」
「ばっ……!」
急に強く腕を掴まれて、レーネは困ったように首を傾げる。
カルナートはぐっと唇を噛み締めて、何故だか少し苦しそうに、悔しそうに見つめていて……いきなり、レーネを抱き締めた。
「もう、危ないことは止めて、魔法使いも辞めて、俺に、お前を守らさせてくれ」
レーネは大きく眼を瞠り、顔を強張らせた。
「……や」
「レーネ?」
「いや、です……」
「どうして。もう、こんな死の危険からは離れるんだ。これからは俺がお前を守るから、家に入れ、レーネ」
もがくように身を捩り、レーネはカルナートとの間に渾身の力で腕を割り込ませる。
「レーネ、お前のために言ってるんだ」
私のため? と一瞬、レーネの抵抗が止まる。
「でも、私、役立たずなのに……」
「何を言ってるんだ、お前は役立たずなんかじゃないだろう……っつ!」
力を込めてレーネを抱き竦めようとしたカルナートの腕に痛みが走った。腕が緩んだ隙に、レーネは力を込めて押し退ける。
レーネの背には、つい今しがたカルナートの腕に爪を立てたアルティが寄り添うように座り、ペロリと前脚を舐めていた。
「……役立たずなのに魔法使いまで辞めてしまったら、私、本当に何もできなくなってしまうから」
懸命に腕を突っ張ったまま、レーネが小さく溢す。
「魔法使いなんか辞めたって、他にできることくらいあるだろう?」
「けど……」
肩を掴まれ、反射的に逃げようとするレーネを抑え込むように押し倒して、カルナートは伸し掛った。
「お前に苦労なんてさせない、俺が一生守るから。だから……」
「で、でも……」
カルナートの腕が外れない。アルティが毛を逆立て、思い切り爪を立てても、腕は緩まなかった。
「や、カルナート……」
けれど、カルナートの言うとおり、もしかしたら、自分はこのまま魔法使いを辞めておとなしく家に入るほうが向いているんじゃないだろうか。
バタン、と扉が開く音がして、いきなり金縛りにあったようにカルナートの身体が固まった。
「何をしてるんですか」
固まったまま振り向くこともできずにいるカルナートの下を、はっと我に返ったレーネがじりじりと這い出す。レーネが逃れたの見て、ハルは大股にカルナートの肩に手を掛け、無理やり身体を起こさせた。
「君のは求愛行動でも何でもなくて、単に我を押し通しているだけでしょう」
目を眇め、蔑むようにカルナートの顔を一瞥して、ハルは扉の前に呆れた顔で立っていたターシスを振り向く。
「ターシスさん、これ、ちょっと向こうに連れてってもらえますか」
「ああ」
ターシスは頷き、カルナートを肩に担ぎあげるとそのまま部屋を出て行った。
扉が閉まり、ふっと息を吐いたハルは、ベッドの隅で膝を抱えるレーネを見て、「で、どうしますか」と尋ねた。
「どう、って?」
おずおずと顔を上げるレーネに、ハルは頷く。まるで、今考えていたことを何もかも見透かされてるように感じて、レーネは、ぎゅ、と抱えていた膝をさらに抱き締めてしまう。
「君次第です。魔法使いを続けてもいいし、魔法使いを辞めて彼の申し出に乗ってもいい。選ぶのは君です」
「……私?」
「そう。選んで、決めてください。今すぐでなくて構いません。どうせ数日は休む必要があるんですから、しっかり考えて、後悔のないように決めてください」
ハルは蹲ったままのレーネにもう一度頷く。
「その代わり、決めたなら誰かに転嫁はできません。決めるのは自分なんですから、それに伴う何もかもが自分の責任です。
俺がどうするかは、レーネさんが決定した後に俺が考えます」
「そろそろ“束縛”が解ける頃じゃないかな」
隣の部屋に連れていかれてしばらく後、ターシスの言葉のとおり、身体に自由が戻ってきた。は、と息を吐いて、手を握ったり開いたり、動かしてみる。
「君は、非常に、貴族出身の騎士らしいものの考え方をするようだね」
目を上げると、ターシスは少し咎めるような視線でカルナートを見ていた。
貴族出身の騎士らしいというのは、いったいどういう意味なのか。
「……相手の意思を無視して自分の意思を押し付けるのは、やめたほうがいい。相手はもちろん、君の傷にもなる」
その言葉が妙に実感を持っているように感じたカルナートが怪訝そうに目を細めると、ターシスは肩を竦めてみせた。
「単なる老婆心だけど、君はもっとレーネの話を聞くべきじゃないかな。
話してもらえたなら、だけどね」
「話して、もらえたら……」
「彼女が何を望んでいるのか、とかだよ」
そんなこと、もちろんレーネの話なら聞いている。
そう答えようとしたのに、では、レーネの望みはいったい何かと考えて……その何かがわからないことに気がついて、カルナートは呆然とした。