そのいち
ふああ、と欠伸をひとつ漏らして、ふと外へ目をやった。
陽射しはぽかぽかと暖かく、木の枝には新芽が出始めている。ああ、ここに来てからもう5回目の春か、意外にあっという間なんだな、なんてことを考えて、この魔法研究室の主である魔法使いハルはもういちど大きく欠伸をして……それから、視線を目の前の人間へと戻した。
目の前では、人間の女魔法使い……つい先日、この西の魔術師団第4隊の長から面倒を見るようにと預けられた魔法使い、レーネがぎゅっと目を瞑って身を縮こまらせている。
「それで、何をどうしたら、こうなるんですか?」
膝の上で丸くなった使い魔の翼猫、アルティをもふもふと撫でながら尋ねると、レーネはぴくりと固まり、それから困りきったように眉尻を下げた。
確か、学院を卒業後、すぐに師団に入って2年……と言ってたか。ひととおりの理論は学んでいるはずだし、そこそこ実務も積んでるはずだ。
それならこんな初歩の初歩である魔法薬の合成で、わけのわからないものができあがることはないはず……なのに。
「そ、それが……すみません、わたしも、よくわからなくて」
ますます身体を縮こまらせてレーネはおどおどと答える。
目の前で変な色に染まった液体は、おそらく入れる薬品を間違えたか、かける魔法が違ったか、ではないだろうか。
「……何か別なことでも考えていたんですか?」
淡々と尋ねるハルの紅い目はとても眠たそうに見える。
いや、彼の場合、常に半分閉じたような眠たそうな目なので、本当に眠いのかどうかはよくわからない。
魔族にしては背の低い小柄な体に、レーネの弟よりも年下にしか見えない、十代半ばの少年のような顔立ちだ。知らないものはたいていこの外見に騙され、彼を侮ってしまう。
だが、こう見えて400を越す年齢の魔族なのだ。
今この魔術師団に所属している魔族の中でも最年長。東の魔国では、魔術師団の副師団長を勤め上げたほどの魔法使いでもあるという触れ込みで、今、レーゲンスタイン王国魔術師団の客員魔法使いとしてここにいる。
相変わらずもじもじと困ったような素振りのレーネに、ハルはひとつ溜息を漏らした。なんと切り出せばいいだろうか……少し逡巡して、結局、単刀直入に尋ねてしまえと口を開く。
「レーネさん、君はここに“飛ばされた”って考えてるでしょう」
「え、飛ばされた、って」
「まあ、平たく言って、閑職に追いやられたとか、左遷されたとか?」
「そ、そんなことは……」
「ああ、別に取り繕わなくていいです。こっちの皆さんが、魔族をどう言ってるかくらいは、自然に耳に入ってきますし」
慌てたようにきょときょと視線を彷徨わせるレーネに、ハルは笑って肩を竦める。
「この第4は、魔族を師団に入れるために無理やり創設された部隊らしいですね。
つまり……君は、自分が魔族を隔離するための部隊に突っ込まれてしまった、落ちこぼれた人間の魔法使い……って考えてるんでしょう?」
レーネは、ぐ、と言葉に詰まってしまう。
確かにハルの言う通りだ。東の魔国その他諸々からの圧力に困った西のレーゲンスタイン王国が、魔族は全部そこに入れてしまえと新設したのが第4隊なのだから。
だから、基本的に第4に人間の魔法使いはいない。
例外的に、落ちこぼれ魔法使いのレーネと、第4設立時に長を押し付けられた魔法使いエディトのふたりだけが、ここに所属している人間の魔法使いなのだ。
「……別に人間がどうこう言うのなんてどうでもいいんですよね。どうせ100年経たずにいなくなるんですし。
でもまあ、俺の仕事なんで念のため聞きますけど、いい加減、君がどうしたいのか教えてくれませんか」
「どうしたい、って」
戸惑うように首を捻るレーネを、相変わらずもふもふとアルティを撫で回しながら、ハルはちらりと見やる。
「このまま閑職ラッキーって、適当にやっていきますか? それならそれで構いませんよ。君の年ならいいとこ長くて残り60年くらいでしょう。その間、解雇されることもなくあっという間に過ぎますよ。生活も老後も安泰です」
「そんな……」
レーネはハルの言葉に絶句し、項垂れる。
「そんな、じゃなくて、実際そうじゃないですか。ここへ来てからずっと、レーネさんは毎日適当な試薬作りしかしてないでしょう? 閑職ラッキーなんじゃないんですか?」
「そんなつもりじゃ……」
「ま、俺も適当にしかやってませんから、ひとのこと言えないんですけど」
ふああ、とまた欠伸を漏らし、ハルはまた机に向かう。陽当たりのいい場所に少し椅子をずらして背中にちょうどいいくらいの陽光が当たるように調節して、傍らから取った適当な書物を広げた。
「それとも……」
言いかけて、仕事しろと言われてもやる気のない助手に指導する気なんて起きないしなあ、と考え直す。
「ま、自分の身の振り方くらいは考えておいてください」
やる気のない奴に教えるほどハルは働き者じゃないし、ここは適当にやり過ごして、本来の仕事に専念すればいい。
ま、本来の仕事を全うすべく王国にもう少しの歩み寄りを働き掛けようにも、これ以上はまだ時期尚早だ。次代をターゲットにあと10年くらい掛けてゆっくり周りを懐柔していかなきゃうまくいかないだろう。
要するに、当分はこうして暇なままだ。
考えながら、欠伸を嚙み殺しつつ、またぱらぱらと書物の頁をめくる。
と、いきなりがちゃりと扉が開き、ひとが入ってきた。ノックもなしに入ってきた人物を見て、ハルは、またかと思う。
「ようレーネ、腹は決まったかよ」
「カルナート……」
銀槍騎士団の、第1か第2か忘れたけど、この国の騎士のひとりだ。年齢はレーネのひとつかふたつ上だったか。
きらびやかな隊服に身を包んできちんと身なりを整えて、この様子なら女性にはモテるんだろう。そこはかとない自信と矜持が滲み出ているようだ。
──それはそれとして、どうでもいいが、この騎士にはそろそろ魔法使いの研究室へ予告なく無防備に入ることの危険性を、実践で教えたほうがいいかもしれない。
「昨日も言っただろ。才能ないんだから魔法使いなんて辞めて、さっさと俺のとこ来いよ。どうせお前には他に行くとこなんてないんだろう?」
う、と言葉を詰まらせるレーネを、ハルはちらりと見る。それから妙な自信に溢れたカルナートの顔を見て、面倒臭いな、と考える。
「……ナンパなのか求婚なのか判断に困るようなことは、こういうところではなくて、もっと相応しい場所でお願いします。
それと、これでも一応俺の助手ですし、いきなり辞められると困るんですよね」
カルナートは今気づいたと言わんばかりの態度でハルへと視線を移した。片眉を上げて、「なんだ、居たんですか」と小馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「小さいんで気がつきませんでした」
ぴくりとハルの肩が動いた。
「それに、騎士のオマケでしかない魔法使いの、さらにできそこないなのに、こいつが何か役に立つんですか?」
ハルの目がわずかに眇められる。
「いてもいなくても同じなんだから、いなくなっても構わないでしょう」
ちらりとレーネを見ると、蒼白な顔で俯いていた。
はあ、と大袈裟に溜息を吐いて、ハルは「レーネさん」と呼び掛ける。
「は、はい」
「このひとの態度が、この国の騎士の、魔法使いに対するスタンダードな態度だと思って間違いないですか」
「え?」
「主に考え方と態度において、騎士は魔法使いに対していつもこうなんですか?」
「え、ええと……はい」
カルナートの顔を伺うようにしつつ、レーネは小さく答えた。
ハルの眉間に微かに皺が寄り、なるほど、と呟きが漏れる。
「つまり、この国の魔法使いは、こんな馬鹿ひとりあしらえないほどにスキルが低いっていうことですか?」
「馬鹿だと?」
「それは……」
目を剥くカルナートとレーネを見比べる。非常に嘆かわしいことに、レーネはそう考えているようだ。
……そんなことはないだろう。
単に、身分を傘にきた一部の馬鹿が増長して魔法使いを下に見たがっているだけにすぎないはずじゃないのか。
それにしたところで、これは酷すぎるが。
ハルはやれやれと首を振る。
「しかたないですね……じゃ、レーネさんでも使える魔法での、この手の馬鹿のぶちのめしかた教室でもやりましょうか」
アルティを肩に乗せ、ハルは立ち上がった。
「相手、してくれますよね?」
目を剥いたカルナートは、「もちろんだ」と即答する。
「お前みたいな角野郎に俺がやられると思うのかよ」
「罵倒の言葉もセンスがないんですね」
「うるせえ、チビが、栄えある銀槍騎士をやれるとでも思ってるのかよ!」
ふ、と鼻で笑うハルに、カルナートがいきり立つように指を突きつけた。
きっと、まともに魔法使いとやりあったことがないのだろうと容易に想像できて、ある意味微笑ましい。
「魔法は体格で使うものではないんですけどね。まあ、あんまりやりすぎるとまずいから、低級縛りにしておきますよ」
「え」
今度はレーネが息を呑んだ。低級魔法なんかで騎士に勝てるのか、という顔だ。
「一応、告知と手配が必要だと思いますから、時間と場所は後で連絡します。君は立会人を用意しておいてください。ひとりは魔法使いでお願いします」
「ああ……逃げるなよ?」
にや、とカルナートが笑うが、ハルはつまらなそうにその顔を見上げた。
「勝てる勝負を逃げる必要なんて、あるわけないですよ」
「なに!?」
またいきり立ってほえだすカルナートを「用は済んだのでしょう」と追い出して、ハルは諸々の手配のために部屋を出た。