15
あの後歩ちゃんは朝一番の飛行機でイギリスに帰っていった。去る前に四人でコマQの塔の下で笑いながらデジカメで写真を撮った。
歩ちゃんは誰にも聞かれないように私の耳元に囁き言った。
「私昔は祭君がとても好きだったけれど、今はもう諦めている。だって昔の事だからね。だからこれから凄く素敵な人をどこかで探してみせる。祭君よりも何倍も素敵な男の子をね!」
だからもう私にはこれは必要ないから祭君に返すね。そう言って歩ちゃんの左手が私の右手に何かを乗せた。これは万年筆だ。昔私が歩ちゃんにあげた大切な万年筆。
それがこのような形で帰ってくるとは運命とは不思議なものだ。
だからまた会うまで元気でねと言って、握手をした。互いに失った過去を埋め合わせる握手だった。そうだと思い出して手荷物を探る。
「歩ちゃんこれを貰ってくれ。万年筆の変わりじゃないけれど、懐かしい日本の味だよ。イギリスじゃ味わえない物だ」
そう言って間違って買った、メロンクリームソーダ味のペットボトルを手渡す。
「昔好きで、良く飲んでたよね?」
「確かに向こうじゃ、中々お目にかかれないわね」
そう言って笑いながら貰ってくれた。握手が終わるや、今度はアルテミスの耳を引っ張り痛いとアルテミスの大きな悲鳴が聞こえ、何か喋っている。今度はアルテミスが短く喋り、互いに笑った。女とは不思議だ? 喧嘩していたはずなのになと思っていたら、元気良く歩ちゃんが手を振りながら、また逢いましょうジュースありがとうと、笑いながら去って行った。その笑顔は完全に憑物が落ちた、幼い頃に見た昔の歩ちゃんの笑顔そのものだった。
「さて、これから先はどうするんだ祭?」
そうアルテミスに問われて迷った。まだ私の力は不完全だ。試しに夢力を使いデジカメのボタンを押してみようと試したが、無駄に終わり結局タイマー式に落ち着いた。
「……さてどうしようか?」
完全にお手上げだった。本当にどうしたらいいかわからない。万年筆を胸の内ポケットに仕舞い込み考え込んでいると、アヴァロンが珍しく助けてくれた。
「まずはナイトメアに戻りましょうか? 向こうで色々と、片付けなければならない用件が出来たものですから」
へえ~とぼやいていたら、祭さん人事じゃなくて、あなたもですよと言われ、小さく舌打ちをして答えた。まあそれも悪くはないか。流されたくは無いが、時にはそれもまた必要だと。ん? 俺って結局流される側の人間なのかと思いがっかりした。しかし前向きに生きると決めたんだ。流されたなら逞しく生きないと。だから返事は決めた。
「仕方ない疲れたし、ナイトメアで休養がてらに一仕事! とするか」
アヴァロンが笑いながら帽子を被り直し、休めるとでも思っているんですか? そんな表情だった。まったくほんとにジョーカーだよこの男は。
しかしどうやって戻るのかと訊ねたら、もうすぐわかりますと言われすぐにわかった。
コマQの双子塔の間にある緑色の鉄製の巨大なトラスト橋から、突然懐かしの蒸気機関車が爆煙を見せながら走ってくる。薄く輝き、今にも消えそうな月が塔と爆煙の陰間から覗いて見える。薄明光線の光が黒光りする車体を照らし出している。歓迎していてくれているのだろうか、大量の色彩豊かな花弁を煙と共に噴出させながら、空の上を走ってくる。成程あれで帰れるのか。一安心だ
ん? 帰れる? もう俺はすっかりナイトメアの人間だとわかり、複雑な気持ちになり苦笑し横を見た。どこに隠していたのか、いつの間にか人間界に来るときに持っていた、旅行用の大きな荷物をアルテミスが持ち出していて、私に渡してくる。さっさと持てと理解して大きく吐息を吐き出しながらトランクを受け取り、足を重たげにして歩き出す。蒸気機関車が夜露に濡れた地面に柔らかに着地し、扉を開けて車掌が笑いながら手を振っている姿が見える。
二、三歩雑草を噛み締めながら足を歩んだ頃、突然コートの端を弱弱しく掴まれ、訝しげに振り返るとアルテミスがその小さな手で掴んでいた。
ずいと差し出されたその左手には、荷物の入った彼女の鞄が差し出されてきた。
成程と笑いながら黙って片手で受け取り、二人で歩き出す。
「なあ知っているか?」
何を? と聞いてくるアルテミス。その質問の内容は知っているくせに。
「俺の財布の中には、遠い昔に誰かさんと泥だらけになりながら、一緒に探したある物がお守りとして、ずっと大切に入っていることを知っているか?」
するとアルテミスの足が止まった。こいつは疑っていると思い、黙って財布からそのお守りを探し出して自慢げに見せ付ける。今は枯れたが昔は不思議な色をしていて、今も不思議な清涼感のある匂いを漂わせている。ボロボロにならないように厚紙に貼り付け、上から透明セロハンで蓋をして、さらに透明な袋で全体をコーティングしている。
そんな枯花を見せ付けると、今度はアルテミスがベストのポケットに入れていた金の懐中時計を取り出して、蓋を開き蓋の内側を私に見せた。
驚いて声も出なかった。アルテミスも大切に持っていた。彼女の名前と同じあの薬草アルテミスを。蓋の内側にどうやったのか判明しないが、夢力のおかげなのかもしれない。
今もまだ茎や葉が青々としており、花はまだ真っ白な色のままだ。あの時一緒に摘んだ状態を保たせている。何かを言いたくて口をパクパクしたが何も出てこなかった。そんな私を見て逆にアルテミスに先手を取られた。
「大切に持っていてくれてとても嬉しいよ」
そう言い放つ彼女の瞳が太陽の光を浴びて、とても深い赤で輝き満面の笑みだ。
ああ。女性はやはり笑顔が一番だ。そして世界一の笑顔を見せてくれるこの女性の横に、一年間だけでは無く、いつまでも一緒に居たい気持ちに駆られ、俺もだよと言いたくなったが、男のプライドが邪魔したので、小学生みたいな意地悪をすることにした。まるで好きな子に意地悪をしている男の子のように。
「そうだ案外サイズが大きいんだな? もっと小さいと思っていたが大きくて安心した」
アルテミスは何が大きい? 訳がわからないと言ってくるので指先で胸元を示した。とたんに恥ずかしがり、大急ぎで隠し始めるがボタンは弾け飛び、隠しようがない。さらにいじめてやろうと思い、口に出したのがいけなかった。
「着やせするタイプなんだな。Dかっ……」
最後までは言わせて貰えずに、荷物が鼻筋に当たり情けない悲鳴を上げた後に、痛いと発しながら睨むと、アルテミスが走りながら逃げていく。待てと言いながら追いかけるが二人とも笑っている。アルテミスの左手を掴むと勢い良く二人で盛大に転がり込む。蒸気機関車の煙突から待ち散らかされた花弁が羽毛布団の役割をして、とても柔らかかった。掴んだ手がいつの間にか仲良く握り合っていたので、自然と目を合わせて笑いあった。
そんな幸せな時に、いつまでこの時間が保てるかがわからなくなり、不安な気持ちが押し寄せて、つい口に出てしまった。
「俺達はいつまで友達で居られるのかな? 俺が迷い蛍になって、アルテミスとの約束を守れなくなっても俺の事を忘れないでくれよ?」
握り締めた手をそのままにして、ぐいと私の胸の上にアルテミスが転がり込んできた。その目はどこか悲しげな眼差しだったが、その手に力を強く込めて言ってくれた。
「私は絶対に忘れないぞ! 祭と過ごす過去と現在と未来を! だからそんな悲しいことを言うな。頼むからそんな事は言わないでくれ。私はとても悲しくなる。不安で泣きたい気持ちになってしまう」
そう語る深紅の瞳はとても悲しげで、今にも泣き出しそうだった。
ああ、俺はなんて馬鹿な男なんだ。さっき誓ったばかりじゃないか。
彼女をもう悲しませたり泣かせたりはしないと。だから安心させないと。
「もう二度と言わないよ。アルテミスを悲しませる、そんな友達は嫌いだろ? 俺もアルテミスに嫌われたくないからな。だから俺達は永遠の存在だ。地球と月の関係みたいに俺達は永遠に友達だ!」
そう言い放つと、私も力強くアルテミスの左手を握り締め、空いた手で細く括れた腰を掴み真っ直ぐに深紅の瞳を見つめ返す。その瞳はどこか複雑な感情が奥底に沈んでいたが、やがて明るく輝き言い出した。
「そうか、そうだな。きっと私達は永遠の存在だ! 共に最後を迎えても。その後もずっと永遠だ! あの空に輝く星達のように。私が月で祭が地球だ!」
嬉しそうに胸に顔を預けて喜んでくれている。そう俺達は永遠に友達だ。でも一つだけ違う私が月で君が地球だ……
「そうだお菓子は気に入ったみたいだったな?」
「ん? お菓子? あああのナイトメア産の奴か? アヴァロン手作りの? 意外とあれは美味かったな。また食べたいな」
「そうか。ならばいつでも食べられるぞ」
そう語るアルテミスの表情が異常なほど緩んでいる。まるで初めて上達を褒められたような顔だった。……まさかと思い訊ねると正解だった。
「あれはアルテミスの手作りだったのか?」
「そうだ。私は自分の事は自分でやる主義だからな。職人の腕が上達した味なのか?」
意地悪く微笑みながら、空いた手で耳を軽く引っ張ってくる。これは予想以上の爆弾が投下されたな。負けられないぞこっちも奥の手だ。
「そうだ気づいたか?」
「ん? 何をだ?」
「マフラーだよ。俺は欲張りな男だからな。……あと色々とありがとう」
照れを隠すために意地悪く私は笑ってやる。一度アルテミスは首元を見てから嬉しそうな笑顔を浮かべる。そして急に顔を近付けて来る。ん? 何だ? 左頬に柔らかな口付けの感触が触れる。
「これは直してくれた御礼だ」
そう言って笑うアルテミスの笑顔も意地悪い。まったく敵わないよ!
「おい、そろそろいいか? 早くしないと二人とも置いて行くぞ」
車掌が腰に手を当てて、いつの間にか頭上に立っており、影が顔にかかっている。
アルテミスと二人で顔を赤面させながら急いで手を離し、勢い良く立ち上がる。
「月と地球の関係も良いが、あの男は流れ星か?」
そう言い黒光りする車体を指差す。その先にはアヴァロンがいつの間にか独り座っており、指差されたことに気づき私達に手を振っている。その姿と車掌の冗談に三人で思い切り笑い、アヴァロンは不思議そうな表情を浮かべ、帽子を振りながら笑った。
ポーと汽笛の軽快な音と共に花弁が煙突から舞い、花弁の雪を演出した。
見れば、梅の蕾が開き始めている。ああ、そうかもうすぐ冬が終わり、春が訪れる季節が到来するのか。季節の移ろいとはまさに命の循環だ。 ……悪くない。
ああ、そうとも。この世界は悪くはない。生命に満ち溢れる命の星だ。
車掌が大きいアヴァロンの荷物を持ってくれて、私達の小さな荷物はそれぞれが持った。そして空いた手で互いの手を握り合い、瞳を交わすと風に吹かれて楽しげに舞う花弁の道を二人仲良く歩きだした。