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「祭。寝ぼすけ祭。起きろ!」
ん? 声が聞こえてくるぞ? 懐かしい声だ。耳に心地よく響く大人の女性の声だ。
誰の声だったかななどと、考えながら寝返りを打つ。頭に柔らかな感覚が伝わってくる。この柔らかさはとても気持ち良い感覚だ。一体素材は何で出来ているのだろう? 俺このままここで死んでも構わないや。そんな事を頭の中で考えていたら次の声に驚いた。
「……ほう。じゃあそのまま本当に死んでしまうか? そうなったら私は悲しくなって泣いてしまうぞ。そうなったら祭はまた約束を破るのか? まったく祭は嘘つきな男だな」
眼が覚めた。やられた夢の中の世界を覗き見されるとは。しかもよりによって私が柔らかいと思った素材はアルテミスの太ももだった。膝枕されてすやすやと寝ていたなんて。不覚。あまりの恥ずかしさに体が硬直して、動かなくなってしまった。
目線だけを動かして横を見ると、アヴァロンがにやけている。
こうなったらと思い開き直ると、堂々とアルテミスの膝枕に居座ってやった。
体を動かして上を見上げ驚いた。いつの間にか室外に居て空が微かに明るくなっている。
「俺の切符はどうなった?」
「大事な物だからな。二度と無くさないように祭の首元に括り付けてある」
言われて首元を探る。確かに存在を確認できて安心した。もう一つ確認しないと。
「歩ちゃんはどうなった?」
訊ねられたアルテミスは少し不機嫌な顔になり、近くの階段を指差す。その先には歩ちゃんが階段に独りでじっと座り込み、手持ち無沙汰に万年筆で遊んでいる。その表情からは今の気持ちが簡単に読み取れた。
「歩ちゃん弟さんが心配なのかい?」
しばらく沈黙のままだったが、静かに答えた。
「私ね、本当はもうどうでも良くなっちゃった。弟のこととか自分が死んで、罪を贖うつもりだったのが全部ね。あ、勘違いしないでね、やっぱり弟の事は心配だよ、勿論ね。でもなんか違うって気づかされた。自分の方法は間違っていたんだと。私では何かを変えようとしても変えられないとわかったんだよね。何かを変えられる人間ってのは、私みたいな人間じゃなくて、祭君みたいに最後まで人を信じられる人間だってね。だからもう私は以前の私にはなれない。ううん違うな。新しく生まれ変わった。この表現が正解なのかな」
「そうか。俺には良くわからない話かも知れない。やっぱり他人の中の心は他人には最後まで理解できないのかもしれない。声に出さないとわからないこともあるし、態度に出して安心できることもある。でもね、そんな余所余所しい関係も一度喧嘩して、仲直りした時ほどお互いを信じることが出来ると思う。その時こそ人は信じあうことが、心が繋がる瞬間だと思う。無理して自分を変える必要も無いし、性格を変えることも無い。そんな付き合い方は疲れるだけだ。俺も前は賢く生きようとしてきた。でもやっぱり疲れるよとってもね。だから疲れないためには、ただ考え方を変えるだけでいいと思う。今までの道が違って見えることが多分大切なことだと思う。その違う道をどう選択するかは結局自分自身だから」
そう言ってアルテミスの顔を下から見上げる。そうなんだよな。結局俺にもその事を気づかせてくれたのは他の誰でもないこのアルテミスが教えてくれた。漂流人になると聞かされたときにはやりたくない。無理やりまた働かされるんだと、嫌々な気持ちが多かった。
自分でゴールを作り出すよりも他人にゴールを作ってもらい、そこを目指したほうが圧倒的に楽だった。時にはライバルと戦い、その相手が同僚だったり、競合相手でもある。そんな戦いを潜り抜け祝杯をしたり辛酸をなめたりもして成長する。それは圧倒的大多数の人が自然と組み込まれていく摂理だ。
いつの間にか組織の歯車の一部に組み込まれて。事情があり、その生き方しか出来ない人もいるかもしれない。その生き方が楽だから選択するかもしれない。でも私は嫌だ。そんな生き方はもう絶対に嫌だ。子供みたいな言い訳の仕方だと自分でも思う。でも社会の仕組みに気づいてしまった。人生の生き方とは何か? 自分の生き方とは何かを。一度死んで再び生かされて、初めて自分の生きる目的と、意味を考えるようになった。
その意味はまだ答えが完全に出ていない。でも霞のように見えていること。
漂流人として一年間の間に百八つの夢を叶え、もう歩ちゃんのような悲しい人を作りたくない。アルテミスが悲しみ泣き叫ぶ姿を見たくない。いつも笑わせて横で安心させてやりたい。旅の間も共に笑い悲しんで食事をしたり、どうでもいいような会話に華を咲かせたりする。時には喧嘩をしたりするかもしれない。でもその普通の出来事こそがそれが友達としてなすべき事だと。やがてその時が終わり、旅の終わりを意味する時にこそ本当の答えが出てくると考えている。迷い蛍として生きる事もあるかもしれない。だが今はそんなのは怖くない。
未来を怖がるより、今を怖がるほうが遥かに怖い。
自分で選択した未来が積み重なり、将来どうなるかを今考えるよりも、今をどう生きて未来の自分にどう繋げてくかその行動に将来を託したい。
でも条件はある。もう独りは嫌だ。独りで生きるよりアルテミスと共に残りの一年間を過ごしたい。結局人は自分独りでは生きていけないし、他人もそうだと思う。だからせめて最後を迎える時くらいは信頼できる人間に見てもらいたい。アルテミスに居てもらいたい。
だからアルテミスを失うことと、今を恐れることが一番怖い。
アヴァロンが視界に見えてくる。ああ、そうだ忘れていた。このジョーカーも居たな。すっかり忘れていた。笑ってしまい、アヴァロンと歩ちゃんが不思議そうな顔を見せてくる。
唯一アルテミスが優しく笑い、そっと右手で頬を撫でてくる。
ああ、とても気持ちの良い女性だ。心を読まれるのもこの状況なら悪いもんじゃない。そんな事を考えていたときに、突然歩ちゃんの携帯が朝の静寂を突き破り、激しい振動と共に鳴りだした。
歩ちゃんが携帯を片手に、受け答えている姿が横目に見える。何を話しているのかは距離が離れているのでわからない。でも内容の予想は出来た。きっと……
話が終わったみたいだ。携帯をポケットに仕舞い込んで、立ち上がりゆっくりとこちらに向かって歩いて来る。その表情は泣いていた。
「……祭君。弟が、明が。……明が」
まさか私の予想と違う結末なのか? またもや私はミスを犯したのか? 私の方法が間違っていたのかと後悔の念が強くなる。体を起こそうと動かしかけた所で、アルテミスは手で押さえつけ、歩ちゃんは言葉の続きを泣きながら語ってくれた。
「明の病気が突然治ったの! 信じられる? あの原因不明で複雑な感染症と病魔に侵されていて、ろくに体も動かせない状態で、食事も直接胃に流し込んでいる状態だったのに、いつも姉さんと呼んでいたあの明が今は、体を動かしているなんて…… あの明が」
そう言って地面に泣きながら座り込んでしまった。
嬉しかったのだろう。長年の苦労が悲願が夢が叶って。私も嬉しくなった。他人の事なのに心から嬉しくなり、自然と涙が零れ落ちた。人を信じ貫く事は、自分を信じる事はとても良い事だ。自己満足かもしれない。偽善かもしれない。でも誰も信じないよりも、何かを信じて行動する事はとても良い事だ。アルテミスの手が頬から動き、涙を拭って声をかけてくれた。
「祭の夢力は世界一! と皆が信じたからだな」
勝気そうな笑みだ。この言葉を信じて皆が俺に力を貸してくれた。願えばどんな夢も叶えてくれる。私とアルテミス。そして私を信じて力を貸してくれる人達が存在すれば、最後まで私を信じてくれれば、私は絶対に仲間を裏切らない。私の力は無限だ!
アルテミスの手を掴み指と指を絡める。
「でもそれだけじゃない。アルテミスが俺を信じてくれたから世界一の力なんだ。他の誰でもないアルテミスが俺を信じてくれるから世界一、ナイトメア一の力なんだ。だから二人で一番の力だ。俺を信じてくれたように、俺も君を信じてる!」
アルテミスはこいつと言いながら、頬を赤く染め、空いた手で傷口を抓った。痛いと叫んだが止める気配は無い。しかし照れ笑いを隠す為だとわかっているので、つい笑ってしまう。その心も読まれてしまいさらに指の力が強くなる。これは死ぬかもしれんな?
そう思いながら、横目で歩ちゃんとアヴァロンの姿を見比べる。そして視線でアヴァロンに促す。さすがに頭の賢い男だ。すぐに理解して、歩ちゃんの肩にコートを掛けて肩を優しく撫でてあげる。
それで良いんだ。もう歩ちゃんと私は手を触れ合ってはいけない世界だ。
もう会っては駄目だ。私は死人で漂流人。ひたすらに人間界とナイトメアの世界をたゆたって、人の夢を叶える存在の男。それだけだ。だから心でこう願う。
おめでとう歩ちゃん。もう自分独りで罪を背負わないでくれと。
大切な者を失ってから気づかないで良かったねと。
願った頭で空を見上げれば、朝の光を輝かせながら太陽が昇り始めてくる。残念ながら雲に隠れているが直に晴れ間が覗くだろう。しかし最高の光景だった。澄み切った冬の空気で月もまだ見える。夜明けの空には名も知らぬ一つの星が強い光を発して輝いている。
鳥の鳴き声が朝の空に響き渡り命の躍動を感じさせ、雲の切れ間からは光が漏れ、光線のシャワーが放射状に何条も降り注ぎ、地上を照らしている。ライオン池からも気温差で朝靄が立ち込め光が降り注ぎ、神々しく見させる。今まで見た中で一番の薄明光線だ。このような良き日にはますます気持ちを高揚させる。
ああ、生きている事はとても素晴らしい事だと再認識させられて、世界も捨てたもんじゃないとつい思ってしまい、声に出してしまった。
「ああ、命とは? 生きるとは一体……」
「それは精一杯生きる事。まさに命懸けで駆け抜け、生命を使い果たすことだ」
まったく本当にこの女性には敵わない。大切な者を失ってから気づかなくて良かった。後から後悔しなくてすんだと。お互いに人生で一番の微笑だった。