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先程まで光輝いていた望月が雲に隠れ始め、今にも消えそうだ。

後悔の念がますます強くなり、歩調をさらに強める。急がないともっと早く走らなければ、前へ前へと繰り出す足先が、さらに力強く、靴先の指で草を噛むようにして走っている。

はっ、はっと走るたびに何度も大きく息を吐き出し、その都度新鮮な夜の空気を吸い込む。

急がなければならない。もっと早く走らなければ!

間に合うだろうか? いや違う! 間に合わせなければならない! アルテミスは今夢力が使えない状態だ。だから私が追いかけないと! 私のミスの為に残酷な結末が残るだけなんてそんなことは冗談じゃない。だから走らないと。心臓が止まるまで、足が痙攣して呼吸が出来なくなる位まで走らないと!

倒れ込んだときに忘れていた過去を思い出した。過去の記憶を全部。忘れる事は罪だと思った。知らないことも罪になる事だと、無力な事も罪だと初めて思い知らされた。

アルテミスがあの時に出会った外国の少女だったなんて。

あの時の赤い瞳に、赤い髪。あの時の少女がアルテミスの幼い時の姿だったなんて。

思い出した以上記憶が克明に蘇ってくる。あの時の会話や、あの時に来ていた服も覚えている。今とまったく変わりがない姿だった。首から懐中時計をぶら下げて、時計の重さに振り回されていたっけ。思わず口元が笑ってしまう。でも泥だらけになって一緒に探したおかげで薬草を両手に一杯見つけられた。

薬草を食み苦いねと一緒に笑い、薬草の名前を教えてくれた。ああ成程、だからか。今度は口に出して笑った。電車の中で懐中時計を出したり、悪戯で薬草を食べさせたり。私に教えようとしていたんだな、私はここに居るんだよ。今あなたの目の前に。この懐中時計はあの時の時計。その薬草の名前はアルテミス。だから思い出して。私の事を私の名前を、私とあなたの約束した想い出を。

ああ、想い出したとも全部を。あの時交わした約束を、二人はもう友達だと言った。赤毛に赤い瞳がとても綺麗だとも言った。握手をして別れた。そうかアルテミスの手を初めて握ったのはダンスの時ではない、あの時だったんだ、どうりで懐かしい感じがする訳だ。そして私の初恋の相手は歩ちゃんではなかったことも。

友達がいなくていつも独りぼっちだとも言っていた。私にも初めてできた友達がアルテミスだった。初めて恋心を教えてくれたのもアルテミスだった。その頃から既に私に初めてを教えてくれていたなんて。

生涯忘れられない日だったのに何故か忘れてしまった。望月のあの日。このコマQで……

もうアルテミスを独りにはさせない。勝手な思い込みかもしれないが、今アルテミスは不安かもしれない。だけど多分当たっている気がする。私も今その気持ちだから。だから心配するな。お前は孤独じゃない。私達が一緒だ! だから安心しろ。言葉ではなく体に刻み込まれたあの優しさに救われた。だから今度は私が教えてあげる番だ! 心配すればするほど、足取りが自然と速くなる。

「祭さん、歩さんはどの当たりに潜んでいますか?」

「……いや突然思いが途切れた。何かに妨害されたような感じかな?」

そう言うとアヴァロンはしばらく考え込んで答えた。

「エクセレントですよ祭さん! その途切れた場所がきっと根城です。夢力で妨害しているのか何かの結界を張ったのです。だからそこが根城ですよ!」

「成程ね。しかし大体この辺って感じしかまだわかっていないぞ? 俺はまだ完璧にはこの能力を使いこなせてはいないんだから」

「その心配ならば無用みたいですね。ほらあれを見てください」

アヴァロンはそう言い地面を指差す。走りながら地面を見て納得をした。雑草が折れ曲がり矢印の形を残している。

「どうやら私達が後を着けて来れる様にしたみたいですね。まったく賢い子ですね」

本当に賢い子だ。アヴァロンの言うとおりだろう。しかし少し違うと思う。きっと追いかけてくると信じていたのだろう。私の能力はまだ弱いから、途中で見失うとわかっていたのだろう。ああ、アルテミスの期待を裏切らないで良かった。

矢印が終わりを告げていた。その先には第一ポンプ室が見えてくる。成程あそこに歩ちゃんとアルテミスがいるのか。

「準備は良いかアヴァロン?」

「私はいつでも良いですよ。あなたこそ心の準備をしなくても?」

こいつ最後までこの性格を押し通すつもりだな。思わずにやりと笑い出してしまった。

「勿論いつでもいいさ。アルテミスが俺を待っているんだからな。さあ行こうか!」

今まで私は二人の女性に助けられ生きてきた。だから今度は私がアルテミスと歩ちゃんを助け出す番だ。

扉を開けると思っていた事態が起こる寸前だった。歩ちゃんが万年筆を振り下ろしてアルテミスの急所に突き刺そうとしていた。アルテミスの悲痛な叫び声が聞こえてくる。助けて祭と聞こえる。咄嗟に走り右腕で庇った。右腕に激痛が走り、万年筆が肉の奥深くまで侵入してくる。とても痛かった。だがこの二人の痛みはこんなものではない。もっと痛いのだ。

だからこれからは私が変わりに二人の痛みを背負う番だ。もうこの二人には背負わせない。今までで十分に背負って生きてきた以上、これから先は重荷に感じる必要は無い。

心の荷物を降ろす時が来たんだ。だから飛び切りの笑顔で言ってやらないと。

「アルテミスの大きな声が聞こえたけれど、俺のことを呼んだかい?」

アルテミスは涙を流して泣いていた。ああやはり私の予想は外れてはいなかったんだ。独りになり、不安で寂しい想いをして一人で戦っていたのだ。服も破れ、綺麗だった髪もマフラーもぼろぼろになり手を縛られている。さらに大粒の涙を零して強く泣き始めた。私は世界一の大馬鹿者だ。こんなに大切な人を泣かせるなんて。

もう終わりにしなければ。この馬鹿げた世界を。もう彼女を絶対に泣かせたりしない。

「泣くなアルテミス。前に女性の涙を見るとこっちまで悲しむって言っただろ? だからもう泣かないでくれ。俺はこれ以上お前を泣かさないと誓うから。俺はあの時誓った約束を忘れたりはしないから。だから頼むもう泣かないでくれ」

左手でアルテミスを強く抱きしめる。右手も使えたら両手で抱きしめたに違いない。不意にアルテミスが顔を見上げてくれた。やはり彼女の深紅の瞳は美しい。吸い込まれそうな魔力を内に秘めている。

「あの時の約束だと? ……思い出したのか?」

恥ずかしげに聞いてくる態度に心が狂いそうだった。

やっぱり可愛いじゃないか!

「ああ。思い出したよ全部な。あの時の記憶をこのコマQで俺達は友達になったな。色々なお話を互いに語り合い、体中泥だらけになりながら薬草を探したよな。だからわざとだったんだろ? お菓子の悪戯も、懐中時計も、些細な駆け引きも全部が俺に記憶を思い出させようとしてくれたんだろ? はにかんだ笑顔も恥ずかしかったんだろ? もう俺は忘れたりはしないよ。過去の記憶も、漂流人となり一緒に旅した記憶も絶対に忘れない!」

アルテミスの真っ直ぐな瞳を見つめながら語った。今なら思える。アルテミスのことがとても大切な存在だと。友情愛なのか、旅仲間愛なのかはわからない。でもこれだけは判明している。絶対に失いたくない女性だと。そう確信して真っ直ぐに見つめる。途端に物凄い勢いで抱きつかれた。

その勢いは凄まじく、床に押し倒されそうだった。実際万年筆が肉から外れ、床に押し倒された。俺は男なのにな。普通は逆じゃないのか。と思っていたら心が読まれたようだ。

にこりと満面の笑顔で笑っていて、腕を放そうとしない。そして止めの一言だ。

「……嬉しい」

その一言で、もうなんでもやれそうな気がした。今なら向かうところ敵なしでどんな敵にも勝てそうな気がする。

アルテミスを縛り付けていたマフラーを解いてあげ、軽く頭を撫でてあげる。嫌がらずに嬉しそうに顔を胸に押し付けている顔はとても幸せそうな顔だった。解いたマフラーが全てを物語っていた。簡単に解け、糸くずとなったから、胸が締め付けられとても痛くなった。

俺との約束を律儀に守っていたんだな。大切に扱うと軽く交わした言葉がアルテミスの全ての行動の選択権を無くし、約束の言葉で縛り付けてしまったんだ。私に嫌われたくないために自慢の赤毛が傷ついてでも守ろうとしたんだ。

「俺のマフラーなんか大切にしなくてもいいんだよ。ボロボロになって壊れても構わないんだ。でもアルテミス俺の言葉で君を縛り付けたくは無いんだ。わかってくれるかい? 俺は君を失いたくないんだ。私の言葉で大切な君を、初めてできた友達を失いたくは無いんだ」

胸に顔を押し付けて(うずくま)っている。泣いているのだろう。こんな言葉をかけられて、死ぬまで大事にするつもりだったのだろう。アルテミスの気持ちが痛いほど伝わってきた。

突然胸を左腕で殴打され痛みで咳き込む。

「馬鹿者! どっちなんだ大切にしろだの、壊れても構わないだのどっちがいいのだ!」

もう泣いてはいない涙は完全に止まっている。泣き顔の変わりに笑顔が見えてくる。

ああ、やっぱりアルテミスは泣き顔よりも笑顔が一番似合う女性だ。自然と私も笑顔になってしまう。女性はずるい生き物だ。

「何だ? もう泣き止んだのか? 今日ぐらいは俺の胸を貸して思いっきり泣いた顔を見ていたかったのにな。残念だ」

ついつい軽口が出てしまう。また胸に鈍痛が走った。愚か者と嬉しそうにぼやく声が聞こえてくる。それでいいんだ。嬉しそうな表情をして。

「……血が出ているぞ! 早く止血をしなければ!」

自分のシャツを破り、簡易の包帯を作り止血してくれる。その姿を見て怒りが沸いてくる。歩ちゃんはやりすぎたな…… あの綺麗だった赤髪がボロボロになっている。アルテミスの髪に触れ、頭にまで指を伸ばし撫でてやる。嫌がらずにされるがままになっていて、まるでお人形さんみたいだ。

「綺麗な髪が台無しだな。でも短い髪も似合っているじゃないか」

お世辞だとはわかっている。今までに十分なケアをしてきたのだろう。私が昔その髪を褒めたことで、努力をしてきたのが手に取るように目に浮かぶ。それをアルテミスも理解したのだろう。ありがとうと嬉しそうに返してくれた。

胸が痛んだ。痛みを互いの心で埋めるように今度は両手で抱きしめた。アルテミスが折れそうなくらいに力強く。アルテミスも力強く抱き返してくれた。互いの心が通じ合うならこれで十分だ。ああ、そうとも今度は私が守ってあげる番だ。

「あ~ら随分なご挨拶じゃないの? 祭君? 念願の恋人に久しぶりに再会できて喜びも頂点ってとこかしら?」

アルテミスを離し、その声の主にゆっくりと振り向く。

なんて変わりようだ。夢力に精神を支配され、心を喰われてしまっている。吐く吐息が瘴気で汚れ、黒い匂いがする。闇の匂いだ。

まだ間に合うだろうか? こちらの世界に戻すことが?

「歩ちゃん君が何故こんなに変貌したのか俺にはわからない。しかし歩ちゃんの今のやり方は絶対に間違っていると思う。自分が傷つけられたから、他人を傷つけるそんなやり方は正しくない」

「相変わらず子供じみた台詞ね。あなたに何がわかると言うの? 一体全体あなたに私が闇に落ちた理由の何がわかると言うの? わかるのなら教えてよ!」

「わかるよ全部。歩ちゃんが闇に心を取られた理由が。あの時歩ちゃんの記憶が俺の心に流れてきたんだ。俺が全ての原因だったんだ。俺が始めて歩みちゃんに出会った小学校の事が原因にある。とても幸せでとても不幸なお話だ。あの時の俺は親が離婚して悲しみのどん底だった。自分よりも不幸な人間はこの世には居ないと思っていた。それが俺の世界の全てだった。笑っちゃうよな? 世界には俺よりももっと不幸な人間がたくさん居たのに自分が一番不幸だなんて思っていたなんて。そして当時俺よりも不幸だった人間は歩ちゃん君だ!」

歩ちゃんの左手がピクリと動いた。俺の声を聞いてくれているのか? ここからはどんな変化も見逃せない。皆が幸せになるためには今度こそミスは許されない。

「当時の歩ちゃんは物凄く冷たかった。その理由は最初はわからなかった。でも歩ちゃんが学校を休んだ時に先生がある時俺に教えてくれたんだ。飼育係で誰よりも仲が良かったこの俺に、弟が病気で病院に寝ていると。その看病やお見舞いで歩ちゃんはとても疲れていると。だから気を使ってあげてねと。当時の先生は中々心を開かない歩ちゃんをとても心配していてくれていた。だから俺をうまく使って心を開かせようとしていたんだと思う。俺も幼いながらに思っていたよ。ああ、弟さんは治らない病気なんだとね。でも俺にはわからないことが一つあったんだ。何で俺には心を開いてくれたのかってね?」

言ってから歩ちゃんを観察して見る何も動きが無い。続けないと。

「大人になるまでわからなかったよ。いや違うな。あの時に歩ちゃんの記憶が俺の心に流れるまではわからなかったんだ。あの時の歩ちゃんは俺を好きで居てくれたんだ。だから俺には心を開いていてくれたんだ。違うか歩ちゃん?」

「……そうよその通りよ! だからなんだって言いたいの? 子供の時の記憶よ。そんな事を語りだして何なの一体? 言っておくけれど今更そんなことを言っても別にどうでもないわよ。幼かったころの話だもの。それで辱めるつもりならそうはいかないわ!」

私は首を優しく何度も横に振る。

「違うんだ。違うんだよ歩ちゃん! 俺はそんなことが言いたくて言ったんじゃない。俺が言いたかったのは、俺も当時歩ちゃんが好きだったんだ」

歩ちゃんの体が大きく動いた。眼にも力が少し戻ってきたようだ。

「最初はちょっとだけしか仲良くなかった。でも飼育係で接するようになり、段々仲良くなり始めてきて物凄く嬉しかった事を今でもまだ覚えているよ。当時の俺は歩ちゃんに引かれていた。好きになった切欠は多分わかる気がする。俺と同じ不幸の人間だったから同じ痛みがわかったのかもしれない。同じ痛みを共有していたからこそ、好きになったと思う。でもそれだけじゃないんだ。時たま見せる歩ちゃんの寂しげな顔とか笑った笑顔にも引かれていたのは間違いない。初恋だとも思っていたんだ。でも歩ちゃんは初恋の相手ではなかったんだ。俺はその前に初恋の相手が居たんだ。その子もとても不幸な事があったみたいで、一緒になって夜遅くに泥だらけになりながら、名前も知らなかった薬草を探していたんだ」

ここで一端区切り、アルテミスを見てみる。微かに笑っていてくれた。

恥ずかしかったけれど、その笑顔に少し勇気を貰った。また言葉を繋ぎ出す。

「だから多分その時歩ちゃんを好きになったのは、その子の記憶が重なってしまったから好きになったのかもしれない。自分が今どれだけ最低な事を失礼なことを言っているのかもわかる。でもこれだけは言っておきたいんだ。あの時歩ちゃんを好きになったことは嘘じゃない。本当の記憶なんだ」

歩ちゃんは沈黙のままだ。何も答えてくれない。さらに言葉を繋げようとした時に突然笑い出した。

「くだらないわ。要は私はその女の変わりって事かしら? あまりにも面白すぎて涙が出てくるわ。私がその可哀相な女の身代わりだったなんて」

そう言い微かに黒目が潤み始める。

「違うんだよ歩ちゃん。俺は身代わりだなんて一言も言っていないよ。確かに記憶を重ねた部分もあったかもしれない。でも俺が歩ちゃんを好きになった事は紛れも無い事実だ。だから歩ちゃんには受け止めてもらいたいんだ。俺が歩ちゃんを好きになった事を一緒に居てとても楽しかったことを。だから今の歩ちゃんの姿を見ているのがとても辛いんだよ。歩ちゃんが俺のせいで闇に落ちてしまったのが」

「その原因はあなたのせいもあるかもしれないけれど、違うわその原因は…… いいわ別にあなたには関係が無いもの……」

そういい残し、アルテミスを見てまた視線を下に落としてしまう。

「そうあの時あなたは来てくれなかった。手紙を出してくれなかった。だから私は……」

そうかそれが一番の原因だったのか。それなら答えはすぐに出るぞ

「歩ちゃん俺は手紙も出したし、あの時も待っていたんだ。独りでいつまでも。先生が帰らせて校門が閉まるまでね」

その言葉に驚いた表情をしてやっと顔を上げてくれた。

「何ですって?」

少し照れ笑いを隠しながらなるべく優しい口調で語った。

「簡単だよ。俺は教室で待っているのが恥ずかしくて、独り兎小屋で待って居たんだよ。だって皆が交代でしかも団体様でお別れの挨拶をしに行っているじゃないか。だから物凄く恥ずかしくなって一人になったチャンスを待っていたんだよ。だから移動教室のときに手紙を机の中に入れてたんだけど、読まなかったんだと後で知った。封が開けられていなかったからね。だから俺は待ってたんだ。兎小屋でアルテミスと一緒にね。校門が閉められても正門で夜中まで待っていたんだよ。そしたら先生に見つかって強制的に家まで連れて行かれた。夏休み明けに先生から、歩ちゃんも名残惜しそうに教室で一人残っていたと、聞かされた時にはさすがに俺も驚いたよ。あ、しまったニアミスだってね。作戦失敗だと。先生も明日で歩ちゃんが引っ越すから、普段ならもっと早めに帰すのに、あの日だけは遅くまで学校に残したのも、失敗の原因だったかもね」

「私も待っていた。あの日教室で、祭君の机を見つめながら待っていた。祭君が声をかけてくれるのを最後まで。でも祭君は一番にランドセルを背負って居なくなった。さよならは無いのかもと。兎小屋に居るかもしれないと思ったけど、悔しくって兎小屋は見れなかった。最後まで兎よりも私を気にしてと思っていた。でも結局祭君は現れなくて、とても悲しかった。兎に祭君を取られたみたいで、私はいつも裏口から帰っていたから、いつもの習慣で裏口から帰ったの。とても悔しくって兎に取られた。兎ごときに負けたと涙を零しながら。でも違ったんだね。お互いにニアミスしていたんだ!」

その顔は笑っていた。とても先程までの表情とは思えないくらいに。私も一緒になって笑った。やっぱり歩ちゃんの顔も笑ってくれないと。

「でもまだわからないわ? 祭君も手紙を出してくれたのなら何で届かなかったの?」

「それが間抜け話でね。俺の親父は仕事の鬼で、帰って来ない時も頻繁にあったんだ。たまに帰ったと思っても俺が熟睡していて朝早くに出て行ってしまうんだから。たまったもんじゃないよ、でもそのおかげで独りで何でもこなせるようになったよ。そこだけは親父に感謝しないとね。でね、そんな家庭で育ったもんだから、歩ちゃんの住んでいる外国には手紙が出せなかったんだ。だから一人で必死になって、家にあった辞書で歩ちゃんの住んでいる住所を英語で書いて送ったんだ。でも普通の家庭なら親が居るから教えてくれるんだけど、頼れるのは俺だけしか居ない上に、歩ちゃんと秘密のやり取りを独り占めしたいって考えがあったから、友達にも聞けなかったんだ。そして見事に罰が当たったよ! 俺の見ていた辞書は英語じゃなくてスペイン語だったんだから。しかも当時はイギリスなんて遠い日本のどこかだとしか思ってなかったから、届け先が歩ちゃんの住んでいた日本の住所だったんだ。手紙を書けば書いた分だけ戻ってくる。本当に笑えない冗談だったよ」

「ごめんなさい私知らなかったの。最初に住んでいた所は、向こうで取り敢えず借りて、本格的に家を探すために借りた場所だったの。家も一週間とかからずに見つかって、すぐに引っ越したから住所も変わったの。考えてみれば引越しが急だったから、学校の先生にも祭君にも向こうの住所を教えていなかったわね」

また二人で笑いあう。考えてみればそうよね。私、祭君ならきっと返事を返してくれると信じていた。私が手紙を送れば返すと信じていた。

確かに祭君は手紙を送ってくれた。私が送っていなかったと思い、私が一方的に裏切られたもんだとばかり思っていた。

でも真実は違った。祭君こそが裏切られていたのだ。あの兎女が私に復讐をして私の手紙が届かないように小細工はしていた。確かに許せない行為だった。でも今はそんな事はどうだっていいや。やっと祭君の言いたいことが理解できた。

過去を忘れる事はできない。でも忘れないで先に進める事はできると。そんな考えが頭をよぎり、兎女を見ると気まずそうに目線を逸らした。

ああ、今ならわかる。何でさっき言いかけた言葉が途中まで言いかけて言わなかったのか、人のせいにしたくなかったんだ、自分が闇に落ちた事を他人や自分の置かれた状況のせいにしたくなかったんだ。

そんな私の心境を見抜いたのか、祭君が優しく語りかけてくる。

「歩ちゃん、人は生きて行く中で色々な選択肢がある。それこそ無限に存在する。俺達はその中からたった一つの選択しか選べる事は出来ない。無限の中のたった一つだ。それは間違いもあれば正解もある。でもどれが正解かは最後までわからないと思う。最初はこれが正しいと思っていたものでも、後からら間違いだと気がつかされることもある。でも一度選んだ以上後戻りして別な選択は出来ない。逆もまた同じだ。だから選んだ中から別な選択肢をまた悩んで探しださなければならないんだ」

「だから今に後悔するなと言いたいんでしょ? 選んだ道を後悔しないように日々を過ごして生きる。そして死ぬまで選択し続ける。そんな所かしら?」

さすがだね歩ちゃんと、どこまでも優しく言ってくれた。

ああ、まったくこの男の子の前では私がどれだけ強がっても敵わないなと思わせてしまう。

だから歩ちゃん、もう夢を見るのは止めようと言ってくれた。

さらに言葉を続けてくれる。

「弟さんがあゆみちゃんのせいで交通事故にあって、病院から抜け出せないチューブだらけの体になった事は事実だし、俺と居たいために兎が原因で複雑な感染症になって、環境を変えるためにイギリスに移り住むことになったことも現実だ。そしてそのために歩ちゃんが夢力の使い手になり十三人の漂流人の魂を狩り、弟さんの命を救おうとしたこともまた事実だ。そしてその代償に自分の命を失うこともまた必要だと知りながら、自分の命で漂流人の魂を復活させようとした優しい心の持ち主歩ちゃんだ。俺の知っている優しい歩ちゃんはどこも狂ってはいなったんだ。もう全部わかったんだよ」

そう言い、横の兎女と体格の良い胡散臭い風貌の男を見て、最後に私を見た。その視線はどこまでも真っ直ぐな、昔と変わらない色素の薄い茶色い(ブラウン)瞳だった。

「だから終わりにしよう。もう全部。歩ちゃんが一人で背負い込む事は無いんだ。重い荷物を降ろす時がきたんだよ。歩ちゃんの考えている事は夢じゃない。それは頑張れば叶う願いなんだ。本当の夢とは決して一人で叶う事は許されない願い。自分独りでは叶わない。他人と初めて微力な力を糸みたいに紡ぎ合わせて、一本を二本に、二本を何本にも合わせて大きくさせる物だ。皆で力を合わせ叶える願いを夢と呼ぶんだ。だから今歩ちゃんがやろうとしている事は夢ではなくて頑張れば叶う願いなんだ。漫画家になりたい。プロの野球選手になりたい。世界一のパティシェになりたい。挫折して夢への道が途切れても、それでも最後まで諦めずに努力し続ければ叶う願いなんだ。俺もそれを今日初めて知る事が出来たんだ。だから歩ちゃん最後まで希望を捨ててはまだ駄目だ! 歩ちゃんの弟さんを救いたい気持ちはきっと伝わる。最後まで信じて行動すれば願いはきっと伝わるんだ! だから大事なのはこれからだ。一番重要なのは最後まで自分を信じることが大切なんだ!」

泣きそうになった。まただ。なんで一日にこんな何度も泣きそうになってしまうのか。それは優しい祭君のせい? それとも人を信じても良い事に気づいたせい? 何も答えは返っては来ない。でもたまらなく嬉しかった。こんなにも嬉しい事は久し振りの事だ。

「でも私はどうすればいいの? もう弟には余り時間が無い。あと半年も命が持つかわからない状態なの。弟は、明は最後に生まれ故郷の日本の景色が見たいと言っていた。だから私は日本に帰ってきて、思い出の景色を写真にして贈ろうとしていたの。私には選択肢が漂流人の魂を集める事しか、それしか出来ないのよ? 今更私はどうすれば……」

遂に目頭が熱くなり決壊した。

それは悲しみと怒りだった。仮面の感情を取り外して、あまりにも無力な女の存在になってしまった私。この期に及んでも未だに夢力を頼っている私。

両方の感情が心で入り混じり複雑に揺れ動いている。

最後まで私は駄目な女ね。中途半端に強がり、心がすぐに折れてしまう女。最後まで信念を貫く事が出来ないなんて。祭君あなたならどんな答えを出すの? お願い私に教えてちょうだい! 私に未来を見せて!

最後まで優しく祭君は言ってくれた。

「歩ちゃん何のために俺達漂流人が存在してると思う?」

わからないと首を横に振る。

「それはね、俺達は夢に迷った人達を正しく導くために存在してるんだ。だから歩ちゃんは心配しなくても良いんだよ。俺達が歩ちゃんを手助けするから。だから歩ちゃんは最後まで信じて、願いが叶う事だけを考えれば良いんだ」

見ててごらん。そう言ってアルテミスお願いだ私に力を貸してくれと言って、アルテミスと呼んだ兎女の左手を強く握り締めた。私は少し羨ましいと嫉妬しそうになる。

何が始まるのかと思い見ていると、今度は私にも左手を差し出してきた。

「歩ちゃんの右手も貸してくれないか? こればっかりは歩ちゃんが居ないと駄目だ」

そう言って右手を差し出す。

「昔ある女優が言っていた。人には二つの手がある。一つは自分を助ける手。もう一つは他人を助ける手と。倒れた時に歩ちゃんの心の声が聞こえたんだ。幼い頃と今の歩ちゃんの声が助けてと言っていた。さっきは振り払われたけれど、今なら握れるはずだ」

差し出された手は光に満ち溢れ、直視できなかった。まるで希望がその手に輝いているかの如く。その手を見詰めると今なら私にも出来ると思わせた。人を他人を信用することが。

差し出された手を握り締めるとても温かい手だ。本当の兄妹みたいに懐かしい手だった。

アヴァロンも頼むぞと言って、体格の良い男も私に近寄り、四人で円陣を組み祭君が言ってくれた。

「歩ちゃん。ただ弟さんの事だけを考えるんだ。弟さんがどんな姿でいるのか。どんな所で話をしているのかをひたすら強く願うんだ。そうすれば後は俺達の出番だ。必ず歩ちゃんの願った通りにしてみせるから。とにかく俺達を信じるんだ!」

「そうですよ。最後まで信じてくださいね」

「祭の言うとおりだ。間違いは無いぞ!」

男は怪しげなウインクをしながら。兎女は少し偉そうに。この人達って本当に個性の塊なのね。少し可笑しくなって笑ってしまった。

わかったわ。祭君あなたが信じる仲間なら、私もあなたの仲間を信じるわ。例え何があっても。失敗しても祭君を責める事はできない。私にはできない方法で祭君は私を救おうとしてくれるのだから。だから最後まであなたを信じる。

そう決意して、祭君を見つめる。今度はちゃんと真っ直ぐに見つめる事が出来た。人を真っ直ぐに見つめる事は信頼の証なんだ! そう思えてとても嬉しくなった。

「アヴァロン。アルテミス頼むぞ! 俺はお前達を信じているからな! だから俺に力を! 夢力を漂流人としての力を発動させてくれ! 信じろ! 俺は世界一の夢力使いだ!」

皆がうなずいた瞬間にその異変は起こった。

辺りを幻想的な光が覆い隠し、一面が星の海となり、四人で円陣を組みながら星の大海を流星のように流れている。

手を伸ばせばすぐ触れられる距離に星が見える。あの星は月に太陽。そして一際輝いている星が見える。さらに視線を延ばせば見慣れた星が見えてくる。

……あれは地球だ。海が青く輝き、陸地が見える。人口の多いところでは黄色い灯りの光が輝き、人の密度を表している。星の海原を巡りながら無重力空間の寒さに身体が押し潰されそうな感覚が襲ってくる。独りでは耐えられなかった。でも今は独りではない四人だ。

歩ちゃんが、アヴァロンが居て、そして常に私に力を与えてくれるアルテミスが隣に居る。怖いものなんかは一つも無い。だから願おう。強く! 歩ちゃんの夢を叶えてあげたい。

俺の想いを練り上げ、二人ではなく皆の願う力を一つにする。

歩ちゃんの悪夢を取り去りたい。歩ちゃんがもう夢力に恋するのは終わりだ!

そう口に出したとたんに世界が急に弾け飛んだ。

猛烈な勢いで地球に戻される。意識が糸のように薄くなる中で感じた事がある。この世界は確かに広い。でもそれは人が勝手に思っていることで、この世界は限りなく狭いのだ。だから隣人通しで喧嘩して傷つけあう。そして憎しみ悲しみあって、また喧嘩をしてしまう。その繰り返しだ。それは確かに真理の一つだ。でも見方を変えればそんな考え方は変わる。お互いが気持ち良い環境は簡単に作る事ができる。それは朝の挨拶であったり、単に会話を交わすだけなのかもしれない。尊重しあうだけの事だ。それが出来ないから皆で喧嘩してしまうのだ。アヴァロンはそれに近い事を言っていた気がする。

確かにそれも真理の一つだ。だからこそ私は考えてしまう。この世界は宇宙で、空で繋がっている生き物だと。それを理解した私はとても幸せな気持ちになれた。

ああ、早くアルテミスに逢いたくなったな……


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