12
錆付いたポンプを挟んで、二人の女が挟み睨み合っている。
片方の女はやや長身でスタイルも良く、モデルみたいな体型だ。特徴としては流れるような黒髪に黒目。
片方の女は高くも無く低くも無い背丈だ。燃えるような赤い髪に。勝気そうな目元に深紅の瞳。その色がとても似合っている。
私から見れば、両者の共通点は共に女性で、とても美しい顔をしている。ただ違うのは大分疲れた目をしているのと、何かに燃え盛っている瞳との違いだけかもしれない。
互いに一言も発さず、激しい火花を散らせ眼で戦っている。間に紙でも挟めば、その激しさで火が点きそうだった。この場に他人が居たらこの時間には耐えることができないぐらいいの苛烈さだ。まさに一触即発の状態と言える。いつまでこの均衡が保たれているのか?
少しの時間が経ち、やがてその疑問は消えた。戦いに耐え切れなくなったのか、ふいに目線が外された。
外したのは黒髪だ。赤髪は勝ち誇った顔をして勝利の言葉を口に出す。
「眠れなくなってどのくらいになる? 夢を見なくなってどのくらいになる?」
黒髪は驚いた表情をしている。遅いとはわかっていながら、それでもこの女には気取られまいと必死に睨み返す。赤髪はたっぷりと時間を置いてから、ほんの一瞬だが意地悪くにやりと笑みを浮かべる。
「化粧で誤魔化しているつもりのだろうが、私も女だからな、わかるぞ。それで他人の眼は誤魔化せるだろう。しかし私は夢力の使い手だ。元々隠してもわかるぞ。それにそんな安い化粧品では私の目はだまされんのでな」
言い終えるやまたもや意地悪く笑っている。
「安物の化粧品じゃないわよ! イギリスでしか売っていないかなりの高級品(ブランド物)よ! あなたこそ物を見る眼がないんじゃなくて?」
黒髪も負けじと、言い返す。男が聞いていたら、なんと低俗なことで喧嘩をするのか? まったく理解できないとでも思っていたかも知れない。だがこればかりは負ける訳にはいかないのだろう。同じ女として馬鹿にされているとわかっていたからだ。それに黒髪の女にはこだわりがあった。綺麗になることにとても重要なこだわりがあった。
赤髪はさらに強く笑いながら語った。
「何だ? 案外そんな感情もあったのだな。私はてっきり女としての感情は既に捨てたものだとばかり思っていたぞ?」
「あんたには関係ないでしょ!」
黒髪は激しく激昂して言い放つ。赤髪はやれやれ質問を質問で答えるとはそこまで愚かな小娘だとは思わなかったな。と大きく呟き、大きく肩を竦め言葉を続けた。
「時間があまり無いのでな。手短に聞くとしよう。もう一度だけ訊ねるぞ? 眠れなくなってどのくらいになる? 夢を見なくなってどのくらいになる? いつから化粧でその目元を隠すようになったのだ?」
「……あんたには関係ないでしょ」
先程とは違い、心が見抜かれて辛いのか弱弱しく答える
「三度も問わせるとは、この私を前にしてその受け答え、余程の間抜けか、それとも私の考えが間違っているのか、一体どちらを選べばよいのだ? もちろんどちらの答えが正しいかは言うまでもないと思うぞ。さあ最後の問いだ。これ以上は聞かんぞ。眠れなくなってどのくらいになる? 夢を見なくなってどのくらいになる? いつから化粧でその目元を隠すようになったのだ? いつから自分の夢を叶えることを諦めた? 答えろ!」
「……全部お見通しって訳ね。いいわ教えてあげる! 一昨日からよ! 日本に着いて、昔通っていた小学校をその足で夜中に訪ねたときよ! 楽しかったあの頃の記憶を思い出してたとき! 大事な万年筆が突然話しかけて話を持ちかけてきた。私は喜んで話に乗ったわ。そして契約を結んだ。それからよ! 夢力が発動し眠れなくなったのは! その時からよ。いつもみたいに化粧で顔を隠し、本音を覆ったのは。その時からよ! 私は唯一の逃げ道だった夢も眠ることもできなくなったのは!」
黒髪の女は感情が爆発し、一気に喋る。まるで自分の感情に押しつぶされないように。
「成程な。やはり第一段階か。まだそれほど時間は経ってはいない様だな。それに進行が早いとみた。それにしても重要な媒体の正体を教えてしまうとはな。だが嘘はお前のためにも良くないぞ。重要なことをまだ答えてもらってはいないぞ?」
疑問の視線を赤髪が投げかけるが、黒髪は苦痛そうな表情だった。媒体を教えてしまったことも勿論あるだろう。しかし最後の問いを答えを教えたら、自分の心が壊れてしまうことを、自分でもわかっていたのだろう。それを知っていながらあの赤髪も訊ねたのかもしれない。意地の悪いお人だ。
「成程答えたくないと言ったところかな? それとも答えられないのか? ならば私が答えてやろう。お前が夢を見なくなっ……」
最後まで赤髪の口から語られることはなかった。突然黒髪の女がポンプ越しの境界線を飛び越えて、赤髪に飛び掛ってきたからだ。
すぐに肉弾戦になった。夢力を使えばすぐに片がつくものを…… 便利な力に頼らず、その憎い顔に一発でも拳をぶちかまして、頬を赤くさせてやりたいとった所か。仕事と病院通いに忙しく、日々を忙殺されて格闘術のかの字も習ったことが無いくせに。やれやれ人間とは女とはどこか不思議な生き物だ。男には理解ができんなまったく。ついそんな事を考えてしまう。しかしどこかで止めなければならないだろう。私とあいつの選んだ大事な契約者だし、それに何よりもあの赤髪(嬢)は……
そんな事を考えている間に女同士の激しい揉み合いになり、お互いの手で髪を引っ張りながら罵倒し、罵っている。その綺麗な顔立ちからは、想像もできなかった言葉だ。顔も苦痛に歪みなんとも醜い。黒髪は右手の人差し指の爪が割れ傷つき、血が滴っている。赤髪は胸元のボタンが弾け飛んでいる。互いにご自慢の髪がぼろぼろだ。
いつの間にかポケットにしまい込んだ当初の目的である切符が、床に投げ出されていた。だが二人の目には入らないのか、それとも、もうそんな物などはどうでもよくなったのかもしれない。どうやって止めるべきかと思案していたが、やがて流れは動き出した。
「こんな感情を持ってていたなんて、私もまだ馬鹿だったわね。最初からこうすればよかったのに」
突然黒髪の動きが止まり、横目で切符を確認し、息を切らせながら語りだす。その訝しげな言動に赤髪の動きもつられて止まる。
黒髪の女は万年筆を取り出し、左手に持ち万年筆の刃先を下から繰り出す。まずい! 止め所を見誤った。夢力を発動しようとするが間に合わず、しまったと思った。
ザクリと繊維が切れる、嫌な音が私の耳に聞こえた。恐る恐る目線を向けてみる。
良かった。たいした怪我は負っていない。危機一髪でかわしたのか、マフラーが繊維ごと引き千切られ、ズタズタになり、右頬の薄皮が少し切られて出血しているだけだ。良かった。あれぐらいの軽症なら一生の傷が残ることはないだろう。マフラーならまた買えば良いが傷はそうもいかないのだから。胸を撫で下ろして安心していたが、そこでも私は見誤っていた。
赤髪が突然引き千切られた茶色いマフラーを握り締め、涙を零しながら言葉にならない悲痛な叫び声を発した。
一体何が起こったのだ? 頬を切られたのがそんなに頭にくるのか? 何故悲しげな涙を流す? わからない事だらけだ。あれがそんなに大事なものだったのか? まさか?
「……お前はやはり泥棒猫だ! どこに居てもいつでもそうだ。私から大切な者を奪い、大事な物を失わせる。やっと掴みかけた小さな幸せさえも奪っていく、泥棒猫だ! 私はそんなお前を絶対に許さない! 絶対に許さない!」
泥棒猫と呼ばれた黒髪の女は不思議そうな顔をしていて、心の中で私に問いかけてくる。私は答えられなかった。だが私は気づいてしまった。あぁ。やはりそうだったのか。あれはあの男のマフラーだったのか…… 大切な想い人に貰ったとても大事な物。もはや私の力では事態は戻らないだろう。あの男が現れなければ。
「わからない顔をしているな。ならば教えてやろう。全部を! このマフラーは大切なとても大切なあの人に貰った大事な物だ。だから傷つけたお前が許せない! 絶対にな!」
「……理不尽ね。先に喧嘩を売ってきたのはあなたよ! 人をいきなり泥棒猫だの安物の化粧品だのと馬鹿にして! 私が怒るのも当然じゃないかしら? それに大切な人とか言ってるけれど、あの漂流人のこと? あんたの男って訳なの? それだけ大事な物なら家にでも置いて、保管したら? 私があんたの立場ならそうする……」
最後まで言葉が出てこなかった。何故なの? 心に問いかけるがわからない。だが答えは簡単に見つかった。左手に握り締めた大事な万年筆が答えだ。刃先には今、黒インクの代わりにマフラーの繊維と血を吸い込ませている。幼い頃に約束を貰った万年筆。手紙を何枚も、何百枚も、何千枚も書いた万年筆。少しぼろぼろになり始めたが、大事に毎日使用していたおかげで綺麗にまだ使える。毎日のように手紙を書き、約束は裏切られ、それから人を信用しなくなった。それでも私はまだどこかこの万年筆に依存している。あの時の約束に。だから大事にしているのだと気づいた。大事にしているからこそ、普段から持ち歩いているのだと。
気づいた以上無性に謝りたくなった。でも素直には謝れない。何か切欠が欲しい。
だがあの女には切欠があっても、たとえ素直な状態でも謝ることができない。明確な理由を問われたら答えられない。女としてあの女には絶対に誤りたくないのかもしれない。
そんな考えが相手にも見透かされたようだ。
「お前も大事にしているから、普段からその万年筆を持ち歩いているのだろう? でなければ夢力の媒体になんかなれないからな。余程大事に扱われた物なのだろう」
「それがあなたには関係があるの? 私は絶対にあなたには謝らないわ!」
赤髪は少し考え込んでから答える。
「……関係はある。お前が何故闇に心を囚われたのか。いつから自分の夢を叶えることを諦めたのか、なぜお前が泥棒猫と呼ばれるのか。その全ての原因を教えてやろう」
沈黙が訪れるが、答えは来ない。焦らされてしまい私から訊ねてしまった。
「その答えは何?」
「そこに落ちている切符を見てみろ」
床に投げ出された切符を拾い、確認する。豪華な装飾が施されていて、色々な文字も印刷されている。これのどこが原因なのと言いかけて、慌ててもう一度確認する。驚きのあまり声も出なかった。こんなことがあるなんて。頭の中で何かが繋がり信じたくなかった。それでも赤髪がダメ押しの現実を突きつけてくる。
「気がついたな。そうだその切符の持ち主、漂流人はお前の初恋の相手だ!」
……随分と懐かしい名前。もう何年ぶりだろうか、久々に眼にする名前だ。
今までに手紙を書くときに、何度となくその名前を言の葉にして口に出し、文字を書き、文章を書き連ね返事が返ってくるよう祈った。しかし彼からの返事は一通も返ってはこなかった相手。その彼が漂流人だったなんて。驚きと怒り悲しみ、様々な感情が入り混じり、頭が割れそうに痛かった。知らず知らずに口からは、そうなの、まさかなどと呟いていた。
赤髪は意地悪そうに微笑んでいる。その微笑が気に入らなかった。そもそもなんで私の初恋の相手だと知っていた? 私が夢を叶えることを諦めたことを知っているのだ? それにあの女の顔を見るのは初めてだが、どこかで出会っている感じがする。遠い昔にどこかで必ず出会っている。そうでなければ説明がつかない。私が泥棒猫と呼ばれる理由が。
鋭い眼差しを向けるとようやく意地悪い微笑みを止め、真っ直ぐに見詰め返してきた。その赤い、赤い瞳は私の何倍も怒っていることを直感させる色だった。真っ直ぐ過ぎる瞳に私は耐えられなかった。明確なことはわからない。先程の罪悪感が関係しているのかもしれない。だがそれとは違う何かのことが原因だとは心のどこかで理解していた。
「全てを教えてやると先程私は言ったな? お前が知りたくないなら教えはせんぞ。だが知りたいのなら教えてやるとする。お前が泥棒猫と呼ばれるその訳を。どうする泥棒猫? 全てはお前の選択しだいだ」
頭の中で本音は知りたくなかった。知ったら何故か私が悪い気がするし、誤らなくてはいけない事態になるのかもしれない。だけど心の中は知りたくてたまらなかった。生来の負けん気が強かったのがあったのかもしれない、しかし何も知らずに終わるよりも、知ってから終わったほうが良いに決まっている。答えはいつの間にか下されていた。頭の理屈じゃなく、心の理屈が時には何よりも重要だ。
「教えてもらおうかしら。つまらないお話ならご遠慮させてもらうけどね」
……ああ、まただ。心は触れば弾け飛びそうなくらいにドキドキしているのに、ついつい強気になってしまう。そんな自分が女としては可愛くないとわかっていながら、素直にはなれない。本当は誰よりも素直な性格なのに、自分を正当化させるためついつい攻撃的な口調を取ってしまう。生まれ変わりたい。そんな考えを知らずに赤髪は衝撃的な話しを語りだした。
「良かろう。ならば答えてやろう。語るには幼い頃の話をせねばなるまい。それはお前と私そしてあの人の遠い過去の記憶だ。それは小学生の記憶まで遡る。温かくて、残酷な復讐のお話だ」
そう言い出し、全ての内容を知った時にはただただ呆然としていた。最初は驚きの感情、次に怒りの感情、そして悲しみの感情。あの赤髪が許せなくなった。私の嫉妬心を掻き立てて闇に落とす切欠を作り出した原因が今目の前にいる。何故私だけがその罪を負わなければならなかったのか? 何故私が復讐をされなければならない? 何故?
心の片隅でどす黒く、黒い感情が湧き上がってくる。許せない。
私が一生懸命に書いた手紙を、真心込めて書いた手紙を、寂しかった気持ちを忘れないために書いた手紙、その手紙をあの女が自分の復讐のために処分していたなんて。
……絶対に許せなかった私も復讐しなければ。今この場であの兎に。あの女が一番怒り悲しみ絶望する姿をして、跪き涙を流しながら土下座して私に謝らせなければ。
あの時の兎の正体があの女ならば答えは簡単だ。あの時のようにいじめてやればいいのだ。そうすれば自然と逃げ出し、飼い主の下へと逃げ出すに違いない。そうだそうしよう。昔みたいにいじめてやろう。鏡があれば私はその鏡を直視することはできなかったかもしれない。そのくらいに残虐な笑みを浮かべていた気がする。だがそんな事をすればどうなる? 私の復讐心は満足するかもしれないだろう。だがあの漂流人がどんな気持ちになるのだろう? 私を恨むかもしれない。私を嫌いになるかもしれない。だがそんなことはもうどうでも良くなった。ただ今目の前にいる兎を泣かせたい気持ちで心が埋め尽くされたから。
「そうなの。じゃあ私は復讐されても仕方が無いわね。私はあなたにとっては憎むべき相手だもの。あなたは飼育小屋で飼われていた、とても可愛い、可愛い兎ちゃん。無残にも野良の動物に喰い散らかされ、ただの肉片へと変わり果てた。その肉片を処理するさいに私に辱められ、とてもとても悔しかった。可愛い、可愛い兎ちゃん。別れ際にキスをされてその悔しさのあまりに私に復讐をしようとした、とてもキュートな長耳の兎ちゃん。全て納得がいったわ。長い事私は疑問に思っていたことだったわ。何故私は単なる兎ごときに嫉妬していていじめていたのか。その答えが人間だったなんて。そしてその時の人間があなただったなんてね。まったくそんなことは考えてもいなかったわ」
まさに心の底からぞっとする程恐ろしい微笑みだった。私はあの微笑に見覚えがある。あの狂った表情は兎小屋であの人が居ない時に、私だけに見せていた微笑だ。あの泥棒猫が狂い始めたときに見せる微笑だ。気圧されないように反撃しなければ。
「そうだ。だから私はお前を許さないのだ。こうしてここに居る事も今度は負けられない理由があるからこそ居る」
「そう確かに負けられないわね。大事なあの人がすぐそこの扉で見てるものね」
あの人にはまだ知られたくないその言葉に動揺してしまい、思わず驚き振り返ってしまったのがいけなかった。 ……居ない。しまった罠か。急ぎその場から逃げようとするが、既に遅かった。泥棒猫の体重を乗せた体当たりを真横からくらい、うっと呻きながら床になぎ倒される。そして最も効果的な方法によって腕を縛られてしまった。あの人から貰い泥棒猫に引き千切られたマフラーの切れ端で。このくらいなら私の夢力でも解くのは簡単だ。とても簡単なことだ。しかしそれをすることができない。既にマフラーの切れ端はもうぼろぼろになり、今にも糸が解れ、まさに糸くずとなる寸前の状態にまでなっている。
私には今よりも酷くなり原型を保てなくさせる行為がどうしてもできなかった。欠片をただの糸くずと見て、少し力を込めて脱出すれば事は簡単にすみ、また状況も好転するかもしれない。だがその代償に切れ端はその瞬間に糸くずに変貌する。それだけは絶対にできない。あの人と約束したから。大切にすると約束したから。私の体はどうなっても構わない。肉を抉り切り裂かれようと構わない。でもこのマフラーだけは守りたいから。初めて他人から貰った初めての大事な物だから。
「あらあら、案外簡単に捕まったわね。もう少し抵抗するものだと思っていたわ。逃げ出さないのかしら? できるでしょう簡単に? わざわざそのごみを選んで縛ったのよ。その糸くずに少し力を込めるだけでね! 何でそんなことができないのかしら? わからないなら私が教えてあげるわ。それはね……」
「止めろ! それ以上言うな!」
泥棒猫の悪魔の微笑が見える。それ以上先を言わせなかったのは、恥ずかしかったからではなく、悔しかったからだ。たまらなく悔しかった。大切な物をごみだの糸くず呼ばわりされるのに。私がこんな状況になることを知っていて作り出したあの泥棒猫に。そしてそれを知っていながら逃げ出せない私自身に。とても悔しかった。
「ふ~んやっぱり思った通りね! ねえ考えたことはあるかしら? 私の気持ちを? あなたはささやかな復讐をしたつもりなのかもしれないけれど、私がどれだけ苦しんだのか。私がどんな思いで一人異国の地で希望を失い頑張ったか? 考えたことは無いでしょうね。復讐に満足してあなたはそれで終わり。でもね、まだ終わりではないのよ。私が受けた悲しみや、怒りは、絶望はどうなるの? ……この悲痛な気持ちどうすればいいの? 答えは簡単よ。あなたをいじめればいいの。昔みたいにね。そうすればあなたのご主人様にも会えるわよ。無残なあなたの姿を見て祭君はどんな表情をするのかしら? どんな声をするのかしら? 私とても楽しみで仕方が無いわ。そうあなたの復讐は終わったかもしれないけれど、私の番は終わってはいない。まだこれからよ!」
悪魔の微笑を浮かべたまま私を見下してくる。気に食わない眼だ。まったく気に食わない眼だ。心の底から私をイライラさせる眼だ。私と泥棒猫はすこぶる相性が悪い巡り会わせなのだろう。この手が動いたらその頬をしばらく腫れが引かないくらいに赤く染めてやりたい。
「……あの人達は来ないぞ。私が戻って来なければ逃げる手筈になっているからな」
「確かにそうかもしれないわね。でもそれは無いわ!」
面白そうに小首を傾げて見下ろす。
「だって祭君は来るわ、必ずね! 困っている人を見捨てて、逃げるようなそんな軽い人ではないもの。だから必ず来るわ」
言っていて気づいているのだろうか? その言葉はあの人に復讐を見せるためではなく、心から信頼していていることだと。そんな思いに気づいたのか小さく舌打ちをして床を蹴り上げこちらを見下ろした。
「ただ待ってるのもつまらないから、面白くするためにちょっとした遊びでもしない?」
そう言い放ち怪しげな足取りで近寄ってくる。目線もどこか虚ろで怪しい。完全に夢力に支配されているようだ。
「そうね。ただ痛めつけるのは面白くないし、どうしようかしら?」
思った感情が言葉になり、口元から勝手に出ている感じだ。祭君は、兎には、復讐とか小さく聞こえてくる。やがて私の耳元に近寄り言葉を囁いてくる。あの人に耳元で囁かれた言葉は耳に心地よかった。しかしこの泥棒猫の囁きは反吐が出そうなぐらい気持ち悪かった。夢力に取り付かれ、吐息は瘴気の黒い匂いがする。聞きたくないと耳を塞ごうとするが縛られた手では隠しようが無かった。
「決めたわ。その自慢そうな赤毛を切り落としてあげる。知っているかしら、万年筆の刃先は案外鋭いって事を?」
止めてと私は言った。聞こえないと言われた。私はまた止めてと強く叫んだ。また聞こえないわと言われた。今度も強く止めて叫んだ。今度は泥棒猫は動きを止めた。
「止めてもらいたいなら、それなりの方法があるんじゃなくて?」
泥部猫の足元に跪き、必死になりお願いします。止めてくださいと弱弱しく呟いた。聞こえない、もう一度と言われ、また足元に跪き大きくお願いした。
「御願致します。どうかそれだけは止めてください。それだけはおねが……」
最後まで言えなかった。思い切り横腹を蹴り飛ばされる。ブーツの細く尖ったヒール先で逃げられないように背中に怨恨の痛みを押し付けながら、乱暴に押さえつけ、髪を力任せに強く引っ張る。
止めてと必死に声を張り上げて懇願するが、聞こえないと夢力に支配された声で言われ、そして力任せに首下辺りからザクザクと万年筆の刃先で刈り取るように切り取られた。
屈辱だった。この給水塔の望の月の下で初めて会った時に、あの人は褒めてくれた。綺麗な赤毛に赤い瞳だと言ってくれた。今までそんな事を言ってくれた人は誰もいなかった。眼を合わせず、会話もしないで去っていくからだ。
でもあの人は初めて真っ直ぐに私の瞳を見つめ返して綺麗だと言ってくれた。褒めてくれた私の赤毛。あの人が褒めてくれた私の赤髪。大事に毎日ケアをしてきた。久しぶりに再開した電車の中で、瞳と一緒にあの人は褒めてくれた。大事に育ててよかったと思い、思わずあの人に詰め寄り困らせてしまった。
その髪をゴミでも扱うように切られてしまい、心の中の何かが折れて潰れてしまった。心が切り裂かれるのはまだ我慢できた。しかし真綿で締め付けられ、希望を奪っていくやり方が何倍も、何万倍も痛いのだとまた思い知らされた。あの人を待つ間に何度も感じた痛みをあの女に感じさせられるとは。
悲しくなり自然と大粒の涙が零れ落ちてきた。
両目から何粒も止め処なく溢れてくる。
私はいつからこんなに弱くなったのだろうか? いつから人前でこんなに涙を流すようになったのか?考えれば考えるほど悲しくなり、涙が余計に大きくなり止まらなくなる。
あの人は短くなった私の髪を見て嫌いになったりしないだろうか?
復讐に燃えたぎり失敗した、私の真の姿を見て失敗しないだろうか?
嫌われたくない思いでここまで一緒に旅をしてきたのに、最後の最後で、嫌われるかもしれない姿になるなんて……
「その髪型とても似合っているじゃな~い。素敵よ。とてもね!」
その汚らしい微笑なんて二度と見たくない! どこかに行ってしまえ! そんな視線が気に触ったのか、真顔になり語りだした。
「……その眼。とても気に入らないわ! 何でそんな眼をしているの? まるで汚物でも見るかのように私を見ている。とても気に入らないわ!」
そう言い放つと左手に握り締めた万年筆を振りかざす。
ああ、明らかに私の急所を狙っている。何度も何度も刃先で私を突き刺し、殺すつもりなのかも知れない。もう駄目だ
私はここで終わりなんだ。私の夢はここで確実に終わるのだ。私はなんて無力な存在なんだろうか。
せめて最後にあの人に逢いたかった。あの人に一目だけでも……
そう想い、またもや大粒の涙が両目から溢れだし、自然と叫んでいた。
「助けて祭!」
泥棒猫の腕が振り下ろされ、刃先がきらりと光っている。覚悟して眼を瞑ると、ぐさりと突き刺さる音がした。急所は思ったよりも痛くないんだ。すぐにではなく、後から遅れて痛みが来るんだと感じ、笑いそうになった。しかしいつまで経っても痛みはこないし、二度目の刃先が突き刺さる感じもしない。恐る恐る眼をあけて驚いた。
「アルテミスの大きな声が聞こえたけれど、俺のことを呼んだかい?」
久しぶりに見た祭の顔は笑顔で照明の光を受け、光り輝いていた。祭の声を聞き、その顔を見れた途端に悲しみの涙ではなく、歓喜の涙が大きく溢れた。