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息を切らせながら月明かりを頼りに、全力であの女を追っている。走りながらついつい考え込んでしまう。
夢力を発動して逃げられなくて心底良かったと思った。
あの人にはとても、とても大事な物があの女に奪われてしまったからだ。
だから私は奪い返しに向かっている。
本当はあの人の隣りに寄り添い、目が覚めるまでは隣りに居たかった。
あの人を想うあまり、不安な気持ちで心が張り裂けそうだった。胸がこんなに苦しくなるなんてはじめてのことだった。何故なのだろう? 何故あの人の事を考えるとこんなにも胸が痛くなり心が弾むのだろう? この高揚感。胸の高まり。あの人と一緒に旅をしてまだ一日も経っていないのに。会話のリズム、皮肉のやり取り、彼の時たま見せる優しさ。その全てが心地好い。あの人の心が壊れないように少しずつ、会話の合間に過去を散りばめて、少しずつ思い出してくれるように埋め込んだ。その甲斐があって良い所まできていた。
私の願いも後ほんの少しの所で叶う。そんな距離だったのにあの女がぶち壊した。
いや違う。私の願いは別に叶わなくてもいいのだ。あの人と一緒に居られるのならば。
でもあの女は私ではなくあの人を傷つけた。例え偶然とはいえ大事なあの人を傷つけてしまった。だから許せない。
あの切符を取り返さないと。あの人は空が明けた瞬間に迷い蛍になってしまう。だから急がなければならない。私が彼を守らないといけないのだ。
初めての友達の命を守るために。あの人との約束を守るために。
彼は覚えているのだろうか? 覚えていてくれているだろうか? 忘れていても構わない。
だから急がなければ。あの泥棒猫を見失わないように。いつの間にか月明かりの下で見る瞳の色が琥珀色から、深紅に変わり、妖しげな光が奥に輝きだしている。
ちらりと闇夜の空を眺める。澄み渡った空には望の月が見える。今日は人間界では一番夢力の力が強くなる日だ。少し不利だと思った。あの泥棒猫は夢力が強くなるが、今の私はまったくと言っていいほどに力が発動しない。せいぜい草花を折る程度だ。追いついても返り討ちに会ってしまう。でもその力で足跡を残してきた。これでアーロンが着いてこれるだろう。
でもそんなのはどうでも良いことだ!
この身が傷つこうと、例え手足が捥げ折れようと関係ない。これは私の意地だ!
あの人が傷つけられたことによる怒りの炎に。復讐に燃え盛る女の情熱だ!
絶対に許すことはできない。必ず報復しなければならない。
あの女は私を誰だと思っているのだろう?
私の名は女神アルテミス。誰もが恐れ、平伏すべき存在でナイトメアの統治者たる存在だ。
しかし今はまだ正体を隠さなければならない。あの人とのためにも、その事実を知ったらあの人は今までみたいに接してくれるだろうか? おそらく違うだろう。
そんな事を私は望んではいない。私が望んでいるのは普通に接してもらうことだ。一緒に笑い、一緒に泣く。毒見され冷めた食事を独りとるのではなく、熱々のスープを吐息で冷ましながら一緒に食事をして語り合い、笑いあいたい。一緒に悪さをして時には叱られる。着替えの一つくらい自分で済ませたい。従者にはいくら求めても恐れ多いと断られる行為だ。そんな些細な行為を誰も共にしてくれない。唯一アーロンだけが私を理解してくれる。普段から道化師でにやけ顔だが、ああ見えていつも私を心配してくれる。
あの人は覚えているだろうか? あの日の出来事を?
私が母のために、望の月の時に人間界とナイトメアが混じりあい、その狭間にしか生えていない特殊な薬草を探しに、一人で人間界に行き、なぜか力を失ったあの日。母が亡くなり私が女王になったあの日。体中が泥だらけになり、薬草を両手に握り締めて母の横で最後を看取った。アーロンは私を皆の前で怒った。頬を平手で叩かれ怒られた。私が力を失ったので、そのことがアーロンの責任問題にでもなり、八つ当たりで怒られたと思っていた。
しかし現実は違った。怒った後に私を壊れるぐらいに力強く抱きしめて、涙が両目から溢れていた。力が無くなった事よりもあなたが無事で良かったと。
八つ当たりではなかった。心から心配してくれてたのだ。母を失い、力を失い、心が壊れそうだったあの日、私は母が亡くなり、星になったあの日初めて泣くことができた。
母が亡くなる寸前、アーロンが呼ばれ何か喋っていた。
母は満足げな表情を浮かべていて、皆にも何かを語っていた。当時の私には理解できなかった会話だったのを覚えている。
今でもアーロンにその時の事を問いただすが、いつもはぐらかされる。
いつも決まった答えでいずれわかる時がきます。それだけしか言わない。今も謎のままだ。
そんなことがあり、ナイトメアの女王となった私の望んだ普通の暮らし。女王ではなく、友人として接してくれることをしてくれるのは、相変わらずアーロンだけだ。だがアーロンは一歩線を引いていて、それを踏み越えてくることが無い。
……やはり私はこの世界の女王なのだ。
だから変えたかった。友と呼べる存在が欲しかった。
あの時の人間界で出会った少年ならば変えてくれるかもしれない。
闇夜の中、望の月灯りを頼りに一緒に薬草を探してくれた少年。
少年も何故かあの草を探していた。何故普通の人間があの場所に居て、あの薬草を知っていたのかはわからない。しかしあの場所は時に人間が迷い込むことがあるので、不思議ではないのかもしれない。でも嬉しかった。私を一人の人間として見てくれ、普通に接してくれた。薬草を探しながらお互いの事情を話し合い、ここが母との思い出の場所だと聞かされた。だから時折訪れるのだと。母のために想い出を探しているのだと。私も母のために探しているのだと教え、同じ境遇だったのが私にはとても嬉しかった。
二人で泥だらけになりながら一生懸命に探した。私も金の懐中時計を泥だけにした。でもその甲斐があって、二人の手には抱えきれないほどの薬草を握り締め、最後に少年は言ってくれた。僕達はもう友達だよ。
泥だらけの右手を差し出して名前を名乗った。私も恥ずかしげに握り返して名乗った。この薬草と同じ名前でアルテミスだよと。
薬草の名前までは知らなかったようだ。喜んでくれた。
良い名前だと言ってくれた。赤毛に赤い瞳がとても綺麗だねと言ってくれた。嬉しかったので母に食べさせるつもりだった、朝焼いたばかりのクッキーもあの人にあげ、美味しいと言ってくれた。彼は私の初めての友人になってくれて、初めての感情を抱かせてくれた。生涯忘れられない一日だった。
母が亡くなった日。女王になった日、力を失った日、初めて友人ができた日、大切な人を失い、その代わりに大切な人を得た日。一時とはいえ病床に寝伏せて死と戦っている、母のことを忘れてしまったことを切欠にして、罪の、事の始まりだったのかもしれない。これがそれに対する代償だとしたら現実はあまりにも残酷だ。
そんな一日だったが、彼は私に初めてを教えてくれた。望月のあの日。この場所で……
それから彼が気になり何度か人間界を訪れた。
彼と一緒に居たいのでアーロンの夢力を発動して、学校で飼っている兎に潜り込んだ。
彼がこの兎に名前をつけてくれた。私の名前アルテミス。
感動のあまり心がどうにかなりそうだった。彼は覚えていてくれていた。私の名前を。
一日が積み重なり、一週間になり、一ヶ月が過ぎて半年が経ち、やがて一年となった。とても素晴らしい、歌うような薔薇色の毎日だった。学校がある日は毎日兎小屋まで通い、アルテミス。アルテミス。とその日の出来事を話しかけながら世話をしてくれた。
だがそんな幸せは唐突に終わりを告げた。
あの女の存在だ。
いつも毎日一緒に現れて、邪魔をする。あの人の隙を見ては抓ったり、蹴ったりしてくる。
いつも私に憎悪の目を向けてくる。一体私のどこが嫌いなのだろうか?
あの人が戻ってくると私は大急ぎで駆け寄る。そして大事に抱えてもらう。何よりも嬉しかった瞬間だ。
そんな時間が過ぎてやがて二度目の夏がやってきた。
あの人はあの女が居ないときにそっと囁いた。ぼくあゆみちゃんがすきなんだ。だからアルテミスは応援してくれるよな?
体を稲妻が走った。信じられなかった。何であんなに性格の悪い女の事を好きになったのだろう? とてもあの人が言った言葉とは思えなかった。
……でもと思い考えこむ。あの人が好きになった人なら、私は友達として応援すべきなのでは? それが友達なのでは? 何をすればいいのかわからなくなった。
考えれば考えるほど心に闇が広がった。最初は薄く、後に全体を黒く染めた。
この感情は一体全体何なんだろう? 初めてだ……
自分の心の中の感情に振り回される日が何日か過ぎ、やがてその正体を突き止めた。
……まさかこれが嫉妬心?
そんな馬鹿な話があるものか。あの人は友達だ。そんな感情があるはずが……
そうか友達を奪われたくないんだ! あの意地悪女に! 大切な友達を。私の大事な友人をあの泥棒猫に。全てを一人で勝手に解釈した。久しぶりに強い力を望んだ。力任せにあの泥棒猫とあの人との仲を引き裂きたいと強く望んだ。
願いが叶い偶然なのか、夢力なのかその日台風が真夜中に近づいた。今までにないぐらいの強風に大雨と雷。兎小屋の床が水浸しになり慌てて階段を昇り非難する。こんな台風は人間界で初めてだ。少し怖くなった。突然大きな音がして小屋に振動が走った。驚いて小屋を見渡すと、木が倒れて金網に大きな穴が開いている。あの木が体に当たらなくて良かったと一安心して少し眠たくなり、意識が途切れた。
雨音が弱まり、雷も過ぎたようだ。どうやら台風が離れている音が風越しに、大気の振動が伝わってくる。半分眠りながら時折片耳をひくひく動かし、音を拾っていると微かな足音を聞いた。もう一度耳を動かすと間違いない。獣の忍び足の音が聞こえてくる。臨戦態勢になりいつでも逃げられるような体勢で身構える。
破れた金網の穴からは大きな体をした猫や、やせ衰えた猫が眼を光らせて、集団で真っ直ぐこちらに歩いてくる。私は必死に逃げた。二階に追い詰められ、逃げ場が無くなる。背後からはゆっくりと追い詰める足音が聞こえてくる。仕方なくその場から飛び降りた。
不意の落下により前足が折れて動けなくなる。……駄目だ。目の前に猫の爪が見える。肉に鋭い痛みを感じ必死に抵抗するが、喉笛を歯で抑えられて、呼吸ができなくなり、やがて腹を引き裂かれる音が聞こえた。
ああ、これは罰なんだ。あの人との仲を引き裂きたいと願い、望んだことの。
だから私の最後の相手は泥棒猫の生霊が宿った、猫だと。
悲しさが喉まで込み上げてきて、兎には声帯が無いはずなのに、大声で叫んだ。
この肉体は人間界の世界での入れ物なので、私が死ぬことは無いだろう。だから私の夢力がもし復活したら、あの二人を結ばせようと思い、心体の痛みと共に独り静かに事切れた。
次の日アーロンと一緒に見えないように姿を隠し、空から二人を観察していた。
最後まであの人は私に優しかった。お墓を作り、体を汚しながら涙を流してくれた。この私のために。また逢おうね。絶対に忘れないからねアルテミス。最後まで優しかった。
嬉しくて目頭から涙が零れてアーロンがそっと拭ってくれた。
しかし次の瞬間信じられない光景を見た。
あの泥棒猫が怨嗟の言葉を口に出しながら、内臓をぶちまけてもう一度死ね! だからもう二度と祭君には逢えないようにしてやる! これが私の愛よ! 喜んでねアルテミス!
そう言いのこし、私だった亡骸を力一杯握り潰し、辱めた。こんなにも性格が醜い心の持ち主だったなんて……
しばらく様子を伺っていると、お互いに手紙を書くと言ってお互いにキスをして手を振り名残惜しそうに分かれた。
……そうかあの性悪泥棒猫は転校するのか。それも遠い外国に。チャンスだと思った。
あの泥棒猫に復讐する絶好の機会だと。あの人に知られないように。
私をいじめたことはどうでもいいと思った。それよりも亡骸まで痛めつけた事に腹がたっていた。あの兎にも元々命が存在していたのだから。
キスをしたことに腹がたったのかもしれない。そんな考えがすこし頭に浮かび、余計に腹がたった。だから倍に許せなくなった。あの泥棒猫を。
毎日手紙を送ると言っていたことを利用しないと。あの女には希望ではなく、絶望の名こそが相応しいだろう。それが私の復讐だ。
一度は負けたが、二度目は勝ってみせる。そう心に誓いナイトメアの世界に戻った。
あれから何年過ぎただろうか? またあの女は復活してきた。まったくしぶとい女だ。
あれだけ復讐し、立ち直れないように心を痛めつけてやったのに、また目の前に現れるとは思ってもいなかった。しかも大切なあの人の大事な物を奪っていくなんて。
今度は奪われないようにしないと。私が守り抜かないといけない。
今度は負けられない戦いだから。あの人の命が懸かった大事な勝負だ。
あの人は覚えているだろうか? あの時の約束を。幼いときに誓ったことを。忘れているかもしれない。だがそれでも構わない。私だけが忘れなければ良いのだから。私が命をかけて約束を最後まで守り切れば、私の中では永遠になくならないから。
あの女が建物の中に入るのが見えた。
望の月がもう頂上を過ぎてしまっている。急がないとあまり時間がない。
これは私の女としての戦いだ。意地の戦いだ。そう心に決め、勢い良く扉を開けて叫ぶ。
「大事な落し物を返してもらうぞ。泥棒猫め!」
泥棒猫の驚いた表情が眼に入る。それだけで快感が脳から体中にドクンドクンと伝わる。戦いの鐘は今鳴り響いた。
目の前の女がゆっくりと立ち上がり、ポケットに大事な物を潜り込ませたのが目に付いた。