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第四十二回 どこまで描写するの?

さて、リライトした作品でも、その元作品でも言えることが一つあります。

誰も指摘しませんでしたが。(笑


セリフが一つもない? まぁ、それもありますね。(緊急事態で独り言をベラベラ喋るヤツが好かんだけです)

そうです、室内の様子および主人公の容姿はどうなっているか?が一切書かれていないんです。

私はここは、不要だから描写しないというスタイルです。けれど、人によってはこれが無いのはおかしい、と仰るわけですよ。タンスの位置が解からないからどう倒れたか想像できない、主人公の服装や容姿がないと想像できない、と。そんなんテキトーでええやんけ、と思っちゃうのは悪い心でしょうか。

確かに、切り取る場面を変えれば、これは描写が出来るんでしょう。地震の直前ではなくもう少しだけ早い時間にして、主人公がうんちゃらかんちゃらと考える間に、自己紹介は出来ると思います。でも、私はやりたくない。主人公の人格は物語の主軸ではないからです。


何をどこまで書きだすのか?

この明確な基準というものが解からなくて、手当たり次第で書き方の本を読み漁っているようなものです。

けど、例えば有名な文豪の名文『トンネルを抜けるとそこは雪国だった。』にしても、雪国の情景を書いてはいないんですよね、これは裁量次第ということで、ここに作者の個性が発揮されるわけです。書くべき、が決まっていると小説の表現技法はここまで膨大になってません。(笑

公理主義といいますか、共通のルールがあるみたいに思ってんのがそもそも間違いじゃねーのか、とか思ったり。

たった一つ、明確なルールは『最大公約数が良しとするならあらゆるルールは守らなくても良い』だと思うんですよね、違和感なく読める読者が多数であるならごく少数の違和感に合わせる必要はない。本物の作家先生などはもっと過激です。「原稿用紙なりモニター画面なりに文字を置けば、それで成立するジャンルの表現法だ。」という認識です。いかに既成概念から逃れるか、これが近代文学の目指す場所だそうです。


書き直し例2の神視点にしても、実はラスト以外にも幾つかは感情の言語を混ぜてあります。暗喩を駆使して云い切りをしているのであまり目立たないはずですが、気付く人は気付きます。

三人称で、主観描写を極力入れないとか少なくとか言うのは、少なけりゃバレにくいからなんですね。(笑

バレない程度なら主観だろうが一人称だろうが入れて構わないんですよ、だけどそれはグレーって意味であって、決して白ではないんですね。三人称の"事象中心"に一人称の"私"を入れてもいいって事にはならないんです。堂々とやってはダメで、バレなきゃいい。明確なところはないんです。建前として、やっちゃいけない。けどやらずには成立しない。非常に細かいところの線引きですけどね。客観・事象中心の究極は「報道」ですから。そこまで突き詰めるともはや描写ではありません。具体性にもっとも優れ、正確に事象を伝え切る文章とは報道文なんです。明確に三人称を成立させると報道文になるんだそうです。だから、作家のうちには「純正の三人称で書いた作品なんか俺が審査員なら全部落とす、」と言うわけですよ。報道文は小説文じゃないですもんね。小説の技法とはかようにグレーなものって事です。

これは、昨今の若い人には理解し辛いらしいのですね。ちょうど二次創作がグレーの概念で成り立っているのと同じ理屈になるんですが、これが理解出来ない人が多かった時にはちょっとびっくりしたものです。白黒きれいに分かれるモノなんて、この世の中には数えるほどしかないというのに、世界がきれいに真っ二つになると思っている。由々しき事態です、バカ正直も大概にしましょう。


世の中にはさも当然の如くに、「一人称とは、」「三人称のルールは、」とやらかしている文章が溢れていますので、勘違いが蔓延してしまったわけです。本来、グレーなんです。感覚的に「違和感があるよ、」という指摘をする、その違和感を的確に伝えるために必要なのが、基準、つまりルールなのです。共通言語です。違和感を伝えるに、専門用語やら基準値やらがあった方が伝わりやすいから、という事なんです。


一元、多元では感情に起因する言語を用いてもいいけど、神視点ではダメってのにも、理由があります。

それは、神視点では人物の内面を一切書かないから。一元、多元では内面が出てくるので、誰かの主観に基づく感情の言語が現れてもあまり違和感がないけれど、一切の内面が出ない神視点においてそれが出てくると、誰の主観であるか、という、ゴーストが出現することになるからです。

だから、一元であれば感情の言語は一元主である主人公を基準とした感情の表記になり、多元ではその場面ごとの視点主が基準となります。あくまで違和感を無くし、ゴースト退治をするためであります。だから、基本は一人称とはまるで違う理屈に則っているので、地の文に主観を滲ませてはならず、本来「~のような」という直喩は使えないんですね。違和感バリバリになるから。さりげな~く、バレないように使う、その範囲が広がるってだけです。これが近代文学の考え方で、現代日本文学では更に論理が崩れてシッチャカメッチャカになっているそうな。


ところで、一番最初の文章ですが、あれはルポルタージュ形式と呼ばれる文章です。ちなみに。報道と私小説の中間。そんで、詩と小説の中間がジュブナイルだそうな。私の書く一人称はときたまエッセイと紙一重だったりします。解かってやってるわけではありません、だから苦労してるんです。(笑

ルポルタージュは本来、書き手=主役であって、作者の体験談を書き記すからこそ違和感が最小限に抑えられるわけですが、これを別人物と設定したんでなんとも中途半端でおかしな文章になってしまったわけですね。そのカラクリを解説しますと、ルポルタージュは三人称報道に作者の主観を混ぜる方式だからってのがありまして、これを破ったせいなんです。あの最初の作品の状態ってのは、作者の前に作者の操る主人公という人形が挟まった状態なんです。画面にするなら一刻堂状態。そりゃあ、違和感ありますよ。(笑

しかしながら、先にも言ったように三人称ってのはそもそも正体が報道文ですから、三人称で書かれたものは多かれ少なかれこの一刻堂状態だと言えるわけなんです。

で、近代日本文学においても、この一刻堂状態ってのがものすごく不服だったようなんですね、明治の文豪や海外の巨匠ですら。だから、せめて演じている人形の後ろの黒子の存在だけでも、きれいに無くしてしまえないか、と四苦八苦したという話だそうです。


表現、特に近代日本文学が始まってからは、作家の目指す場所ってのが「私」の存在を消す方法だったそうで、自己主張をいかに消し去るか、という所で工夫が凝らされてきたのだそうです。○○らしい文章、というところは作家の自己が色濃く表出しているということで、嫌われたんだそうです。私が一人称・三人称の理屈でもがき苦しんだ部分の整合性を、多くの作家もやはり気にしていたんだろうと思います。

誰が語っているのか。一人称なら主人公が語る、その主人公以外が出現するのはスマートじゃないんです。ならば、三人称の前提として、誰の主観にもよらない客観性という事柄があるならば、もちろん語り手の存在は邪魔以外の何者でもない。だからゴーストと呼び、私なんぞは鬱陶しい存在、嫌な存在として、嫌悪するわけです。理屈で言うならこんなモノは存在を許されない、美的感覚で見てもスマートじゃない。

ルールを先に考え、ルールを信奉している人には解からない感覚だと思います。文章に対する美的センスが、ルールを邪魔と感じているって事です。一刻堂状態という感覚を持っていないと、文学方面の道は厳しいと言えそうです。(なんせそれの打開ってのが現代日本文学の一大テーマですんで)


ルールは、必要性の上に成り立つ事柄を箇条書きにしただけのものです。必要性というものは、日々変化します。だから、その変化に備えて、例えば法律などはユルユルに出来ています。そこを理解せず、論理を逆転させている人が多い。そうやってこの”ルール”なるものを押し戴いてしまうと、雁字搦めに縛られてしまうわけです。そうして、よくよく考えれば理屈の通らない判断を下してしまうわけです。「ルールに則っていないから、これはダメだ、」という具合に。どんな文章だろうが、読んで違和感を感じなければ問題はありません。違和感を感じた時には、その感覚を分析して文章化する。その際の助けにルールという共通言語で議論をスムーズにする。


正直、文章というのは「読者に興味を抱かせ、印象として記憶させる」目的で書かれるものですので、そこに形式はございません。いえ、ニーズと慣れによって絶えず変化するものです。読者がその方式に慣れたら次の手立てを考える、そういうイタチゴッコなんです。


小説家の書く書き方の本ってのは、とても抽象的で意味が解かりません。けれど、基礎が出来てくるとその意味が朧げに見えてきます。つまり、彼等は概念すら解からない初心者など放って行ってるのですね。ようやく彼らの抽象文の意味が読み解けるレベルになれました。(笑


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