第三十四回 書き方の考え方
昔々の人にとっては、散文形式の現在の小説形態ってのはぐっちゃぐちゃで読み辛いものと映ったんだそうです。今読んでいるエッセイ本の前書きに書いてありました。
島崎藤村は正統派でバックボーンに漢詩のルールを知っていたから整理されている。
それには劣るけれど、芥川龍之介もまぁまぁ読める、という話を聞いたのだと書かれていました。
黎明期に青春時代を過ごした著者が恩師に聞いた話だそうな。
日本語文学は一度、漢詩のルールを捨てて一から構築しなおした歴史を持つという事でしょう。
未だにそのルールは体系化され切っておらず、ぐっちゃぐちゃのままって事も言えそうだ。だから、ラノベにケータイ小説なんてものが出てきたわけだから。
全体に通じる普遍のルールはない。
そういうことでしょうね。
私がここで言い続けているのは、マイ・ルールを作り上げてそれを徹底して守れ、という事です。
普遍のルールはないのだから、自分のやりやすい形を見つけるという事であるかも知れない。それは作品ごとに変わるなんて事がない、己の磐石なる基盤にならなければいけないって事。
一つの作品を作り上げる時にどう考えていくべきか。
まず、作品全体での起承転結が必要だってのは、たいていの指南書に載っています。
だいたいでイメージが掴めているはずです。たいていの場所で聞きますからね。けれど、本来であれば、それは全体の起承転結、その中の「起」の部分、「承」の部分、「転」の部分、「結」の部分、それぞれにもまた、起承転結がなければいけないって事でもあるんです。
起承転結が必要な理屈は、「解かりやすさ」のためだからです。
全体を4つのパートに分け、それぞれのパートでさらに4つに分け、「起」の部分にも起承転結がある中に、またその「起」における「起承転結」の「起」の部分がと、そうやってどんどん細分化されます。
最終は文章一つづつになるのです。
となれば、最初の一文を書く段階ですでに全体の起承転結の構図がおぼろげでも浮かんでなくては書けないはずです。せめてラストだけでも。
それはすなわち、全体を作ることが何より先決だという事になります。
私はここが二度手間で、いきなり何も無しに冒頭を書き始めて、全体が浮かんだあたりで先に書いた冒頭部分を破棄することが再々です。
これを防ぐやり方ってのがあったんです。
プロットの作り方ってヤツです。
これを次回に紹介したいと思います。




