もしもしおばけさんですか、
「もしもし、おばけさんですか」
舌っ足らずな声が静かな部屋にぽつりと落ちた。
子供が一人、目立つ色で塗装されたプラスチックの電話の玩具を握り締めている。
強く押し当てた受話器が丸い頬を潰して歪ませている。彼は然して気にも留めずに、ねえ、と受話器に語り掛けていた。
購入した当初は印刷されたキャラクターが色鮮やかに笑っていたそれは、ところどころ剥がれて光沢を失っていた。
『はあい。お化けさんですよお』
ふんふんと子供が鼻息荒く話しかける。おばけさん、あのね。今日ね。ふふふ、と電話口の向こうで男とも女とも付かない声が微かに笑った。
『人間ちゃん、息の音で聞こえないよお。ゆっくりお話してねえ』
「分かった! 僕ね、今日ね、ママと公園に行ったの。それでね」
話しながら子供はがちゃがちゃと電話機本体に付けられた大きなボタンを押した。購入当初は押下すれば内蔵された音声が流れたそれは、乱暴に扱ううちに接触不良を起こしたのかすっかり無反応になってしまっている。
電池ケースの蓋はとうにどこかに失くしていた。空っぽのそこに短い指を突っ込んでバネを指で弄りながら問いかける。帰りにね、パン屋さん行ったの。お化けさんは今日何して遊んだの?
お化けさんはねえ。ゆったりとした返事が子供の耳を擽った。
『お友だちとお話したよお』
「お化けのお友だち?」
『お化けのお友だちもだし、人間ちゃんみたいなお友だちともお話したよお』
「お化けさんお友だちいっぱいだね!」
くすくすと子供が笑う。レースのカーテン越しに西陽が差し込んで、畳に影を落としていた。
日向が四年生に上がった年、彼の両親は離婚をした。
性格の不一致だとかのありふれた言い訳をして二人は彼に謝ったが、日向にとってはこれで怒鳴り声で深夜に怯えながら布団に包まる日々から解放されるのだと晴れ晴れとした気分にしかならなかった。
母について行くことになり、彼の苗字はすぐに変わった。住処も学校も変わって、必要のないものは概ね処分をして生まれ育ったそこを後にした。
玄関先で手を振る父はいやに晴れやかな笑顔だった。いつか父と二人で出かけた時に途中から合流した、父の同僚だと名乗った女性。父にべたべたと擦り寄っていた彼女をこれから呼び寄せるのだろう。母の手を握りながら日向はそんな事を思った。
母との二人暮らしは、慣れれば悪いものではなかった。初めて住むアパートはこれまでの一軒家とは比べ物にならないほど狭いスペースしかなかったし、プライベートなど確保されようもなかったが、それでも母の笑顔が増えたことに内心胸を撫で下ろした。どれだけ住居が広かろうともヒステリックに金切り声を上げる親の姿は心休まるものではない。
中学に上がり、二年になって後輩が出来た頃、日向の母は紹介したい人がいると俯きがちに日向に告げた。何となく察していた、前は化粧も簡単にしかしていなかったのに鏡の前に座る事が増えて帰りも遅くなり始めていたからだ。
はじめまして。よろしくね。にやにやとしながら日向に握手を求める男は母よりも随分と歳下に見えて、同じ職場のサイトウだと名乗った。結婚を考えている。これからはおれが君のお母さんを支えるから。煙草臭い息が近付いて吐き気を催した。
サイトウはふたりのアパートに転がり込むように住み着いた。サイトウの下卑た笑みが、女になってしまった母が、見たくもない二人の距離が、聞きたくもない二人の声が。不快で堪らなくて日向の帰宅時間はどんどんと遅くなり始めた。優しい友人は泊まっていけよと笑ってくれたが、友人の両親と、そのきょうだいのあたたかい食卓に劣等感を抱く自分に嫌悪しか沸かなかった。
——俺、高校はここに通うから。それまではアパートに居るね。
ようやく帰宅したある日、パンフレットを二人に渡した。全寮制の文字が表紙にも書かれている。目を丸くする母の横で嬉しそうに目を細めたサイトウの表情に、奥歯を噛み締めながら恨み言を飲み下した。
俺の家だったのに。
「はは。これまだ使えんの」
ばたばたと日向の母が荷物の整理をしている。書類が足りない、と誰かに溢しているのが聞こえる。それにほとんど顔も見たことがない親戚が横から口を出していた。
これは私が貰うって約束してたの。良いよね。お前こんな時に、と渋い顔の中年男性がそれを諌めてはいたが、真剣に止める様子もないようだった。
二人は母の兄と、その妻であるらしい。まだ日向の両親が結婚していた頃何度か会ったことがあるらしいが、彼の記憶にはこれっぽっちも残っていなかった。
線香の匂いが日向の居る廊下まで満ちている。
制服のネクタイを少し緩める。休みの日だと言うのに窮屈で仕方がない。喪服を着た親族とやらを横目にちらりと眺めて、日向は黒い電話に手を伸ばした。
日向の家には固定電話は置かれていない。母も、未だに籍を入れていないサイトウも、結婚していた当時の父も全員スマートフォンを持っていたからだ。日向自身も中学から持たされていて、固定電話の必要性を感じた事はない。
それがダイヤル式とまでなると現物を見たのは初めてだった。使い方すらよく分からないそれを手に取ってみる。
壁にべたべたと貼られた番号の多くは達筆過ぎて名前が読み取れない。隅のテープは何度も上から重ね貼りをされて、下のものはすっかり黄色く変色していた。
持ち上げた受話器は妙に重い。長電話をしたら疲れそうだ。日向はそんな事を思った。
「日向、何してるの? ちょっと手伝って! もうすぐ葬儀屋さん来ちゃうから」
母の母、日向から見た祖母が亡くなったとの連絡が来たのは昨日の事だった。寮監に話して外泊許可を貰うと、同情したように慰められた。これは悲しいことなのか。日向はぼんやりとそんな事を思った。
厳格な祖母だったそうで、両親の離婚の際に祖母とは相当揉めたのだと新幹線の車内で肩を落とした母が呟いた。
そもそもが母と祖母は折り合いが悪く、離婚する前から何年も顔を合わせていなかったそうだ。だからずっと会っていなかったのかと他人事のように日向は思った。
祖父は日向が産まれる前に亡くなっているから、祖父母の顔など彼にはちっとも分からない。幼い頃に老人に玩具を買ってもらった記憶が薄らとあるが、これは父方の方なのかもしれないな、と口に出さずに飲み込んだ。
「俺何すれば良いの?」
「葬儀屋さん来たら教えて、お母さんまだ準備あるの。台所にいるから」
日向の母が小走りで通り過ぎて、板張りの廊下がぎしりと音を立てた。開け放たれた縁側の窓から蝉の声が入ってくる。
身近と言って良いのかは分からないが、誰かが亡くなるのは初めてだ。作法の一つも分からない日向は玄関前、廊下の角に陣取った。
来客は玄関から来るものだと思っていたが、祖母の亡骸は縁側に近い部屋に眠っている。これから棺桶を運ぶのだと誰かが言っていたから、もしかしたら葬儀屋は縁側から顔を出すのかもしれない。玄関よりは遥かに縁側の方が広い。
どちらも見えるここなら良いだろう、と壁に寄り掛かりながら祖母の家を見渡した。
老人が一人で住んでいた割りには綺麗に片付いている。掃除も行き届いているのか、特に埃っぽいという事もなかった。散歩の最中倒れたんだよ、と近所の人らしき数人が話していたのが聞こえて、家で孤独に亡くなって発見が遅れて、なんていう事より良かったのかもな。そんな事を考えた。
線香の匂いがする。ちん、と誰かがおりんを鳴らす音が響いた。
立地の問題なのか間取りの問題なのか、家の中は妙に暗い。昼間だと言うのに廊下の奥は照明を点けていても薄暗く、どこか不気味な印象を覚える。
縁側のカーテンが揺れて、入り込んだ日光が畳を照らしていた。明るいのは家の南側だけなのだろうか。ぼんやりと考える。
ふと、幼い頃の記憶が蘇った。
電話の玩具。
優しい声。
お化けさん。
「……ふ」
小学校に入学するより前だったな、と日向は当時の家を思い出した。もしかしたら幼稚園に入るよりも前だったかもしれない。
夕飯の支度をする母の邪魔をしないようにと隣の部屋で一人で遊んでいた頃の記憶だ。呼びかけると返事をする奇怪な電話があったように思う。
——イマジナリーフレンドってやつだったのかな。
あの頃よく遊んでいた玩具と同じフォルムの黒電話を眺める。大きさや色こそ違えど、板状でしかないスマートフォンよりは遥かに似ている。
忙しいからと構ってくれない母と、帰宅の遅い父。二人が揃ったところですぐに怒鳴り合いが始まってしまう。今も幸せとは言い難いが、幼い分当時の自分も相当疲れていたのだろう、幻聴に縋りたくなるほどに。
そんな事を考えながら日向は受話器を手に取った。
「……もしもし、お化けさんですか」
耳に当てたそれからはツーという機械音が流れている。それはそうだ。下らない。
戻そうと耳から離した瞬間に、がちゃ、と音が聞こえた気がした。
『あれえ。人間ちゃん? 久しぶりだねえ』
元気だったあ? あの頃と同じ、性別も年齢も不明な間延びした声が日向の鼓膜を揺らした。
慌てて受話器を叩き付ける。ざわざわと鳥肌が立つのを感じた。
こんにちはあ。玄関から声がかけられて慌てて振り返る。葬儀屋だと名乗るスーツの男女が引き戸から顔を覗かせていた。
滞在しているこの数日の間に四十九日までの法要は済ませるのだ、と日向の母は彼に告げた。儀式ってそんな簡単なものなの。そんな疑問をぶつけてみると、今時はそれで良いのだと母は疲れた顔で笑った。
よく知らない親族と祖母の近所の人々、そんな面々に神妙な顔で挨拶を繰り返す内に祖母はあっという間に小さく軽い壺に収まった。
人一人がこんなものに入ってしまうのか。恐ろしいような、焼いたのだから当然だろうと言うような。簡単に持ち上げてしまえるほどのそれに、日向は何とも言えない感情を抱いた。
歳を重ねる間にいずれ慣れるものなのだろうか。火葬場から葬儀場へと向かうバスの中で、見覚えのない顔の遺影を抱かされながらそんな事を思った。
自宅に一泊したあと寮に帰った日向は、自身のスマートフォンを耳に当てて恐る恐る声を出した。もしもし、お化けさんですか。何の変化もない。通話画面にして同じ事を繰り返しても結果は一緒だった。
やはり幻聴だったのだろうか。そう思いながらも、彼は母親に連絡を取った。また祖母の家に行く事はあるのか。月末に片付けに行くよ。その返事に、俺も行く、と即座に返信をした。良いけど、とだけ来たそれに、忘れ物をしたからと追加でメッセージを送った。
「——もしもし。お化けさんですか」
『はぁい。お化けさんですよお』
受話器を持つ手が震える。築年数の古い家で、深夜にもなると抑えたつもりの声はいやに響いて聞こえる気がした。
スマートフォンでは『お化けさん』には繋がらなかった。幼かったあの頃と、先日。玩具と本物の電話。その共通点はこの形にあるのではないか、と日向は仮説を立てていた。
普段暮らす寮にも固定電話が一つ置かれてはいるが試す勇気はなかった。誰かに見られれば気が触れたのかと思われそうだったからだ。生徒や寮監の目に付いてはいけない。
その点祖母の家ならば気にかけるのは母だけで済む。離婚以来眠りが深くなった母は、一度寝付いてさえしまえばそうそう起き出す事がないのを彼は知っていた。
そうして深夜に布団を抜け出して、軋む廊下に気を付けながら日向は受話器に手をかけた。予想が当たっていたのか、何でもないことのように『お化けさん』は呼びかけに応える。まるで昨日も一昨日も話していたみたいに、実にあっさりとした応答だった。
「あの。お化けさん」
『なあに、人間ちゃん』
「お化けさんは、俺が小さい頃話してたのと同じお化けさん?」
『そうだよお。人間ちゃんがこぉんなちいちゃい頃からお話してるよお』
忘れちゃったのお。のんびりとした返事が来る。覚えてるから、また掛けたんだよ。日向がそう言えば、そうだったねえと返ってくる。どことなく弾んだ声だ、と彼は思った。
「お化けさん、は」
俺の幻聴なの。聞こうとして、飲み込んだ。そうだよお。そんな返事だったら、と一瞬考えてしまった。
ごくりと唾を飲み込んで、変わりないね、とどうにか絞り出す。人間ちゃんはおっきくなったねえ。相手はまるで日向が見えているみたいな言葉を呟いた。
「お化けさん」
『なあに』
「またかけてもいい」
『いいよお』
ふふ、と電話口の向こうから笑い声が聞こえた。
またお話しようねえ。あの頃何度も耳にした文言だった。
日向はどうにか頼み込んで、祖母宅の鍵を手に入れた。意外とスムーズに事が進んだのは、土地や家屋の相続をしたのが母だったからだ。
強欲らしい伯父の妻はボロ屋に税金を支払う気はないとのことだった。もう新築も建ててるのに、嫌ぁよ。ねっとりとした言い方が日向の耳にこびり付いていた。
貴金属類、現金はこちらで。あたしお義母さんと約束してたのよ。歪んだ唇にべったりと塗られた口紅に、気持ち悪い大人だな、と日向は冷えた頭で思った。
どうでも良かった。彼にとっては、誰憚ることなく電話さえ出来ればそれで良かったのだ。
「だって日向、スペアキーを頂戴って言ったって。寮からじゃアパートより遠いでしょう。どうするの?」
「帰る家が」
「何?」
「帰る家が、欲しいから」
どれだけ遠くたって良いから、気兼ねなく帰宅できる家が俺にも欲しい。
彼は母の罪悪感を刺激するつもりでそんな言葉を選んだ。案の定母親は動揺したように目を泳がせて、行く時は教えて頂戴、とそれだけを呟いた。
数日後渡されたスペアキーには小さな鈴が付けられていた。失くさないでね。小さく言われたその言葉に、俺が失くす訳がないでしょと日向は笑った。
唯一の居場所なのだから。
「もしもし、お化けさんですか」
『はいはい、お化けさんですよ。一週間ぶりだね、人間ちゃん』
日向は暇さえあれば亡き祖母の家に通った。電気と水はまだ通っている、日向の母が契約し直したようだった。
空気の入れ替えだとか、荷物の整理だとか。学生の自分が一番自由が効くからと近所の人々に説明をすると、マァなんて孝行なお孫さんだことと感心したように老人たちは日向を褒めた。日向が滞在している時には、電気が点いているのが見えたからと時折差し入れだと言って料理のお裾分けをくれる事もあった。
ありがとうございます。そう言って笑顔を作るのにもすっかり慣れた。そうして食べることなく保存容器の中身は全てごみ袋へと沈められる。あたたかい家庭を匂わせる手作りのそれらはどうにも日向の喉を通らなかった。
「今日、先生が意地の悪い問題出してきたんだけど」
『うんうん』
「俺だけ答えられたんだ。凄くない?」
『凄いねえ、人間ちゃん。お勉強頑張ってるんだねえ』
「予習してただけだよ」
頻繁に通うようになってから、日向は電話台の前に台所から引っ張ってきた椅子を置いていた。納戸に置かれていたクーラーボックスも引っ張り出して、足元で麦茶のペットボトルを冷やしている。家中の居心地をよくする必要はなく、電話台の周囲の環境さえ整っていればそれで良かった。
殺風景な家の中に彼の笑い声が響く。
昼でも薄暗い廊下は初めこそ不気味な印象を日向に齎したが、今となってはすっかり馴染んで落ち着く暗さだと思えた。
「お化けさんって普段何してるの」
『お話してるよお』
「お化けさんの仲間と?」
『お化けさんの仲間もだし、人間ちゃんみたいなお友だちともお話してるよお』
「ふうん」
螺旋状になった受話器のコードを手慰みに指で弄る。電話機の横に置かれたメモ帳には、日向の祖母が書いたと思しき日付けや誰かの苗字が幾つか残されていた。
ぱらぱらと捲るが、これと言って目を惹くものは特にない。
「お化けさんって」
『なあに』
「どこにいるの」
『ここにいるよお』
「電話の向こうでしょ。そうじゃなくて」
実体はあるの。どこに行けば会えるの。メモ帳の横に置かれたペンで新しいページにぐりぐりと黒い線を書き殴る。
人間ちゃん。受話器の向こうから、困ったような声が日向に返ってきた。
『会えないんだよお』
お化けさんと人間ちゃんは違うからねえ。諭すような声にかっとなって、彼は乱暴に受話器を戻した。衝撃でペンが床に落ちて、ころころと転がるのが視界に入った。
日向の呼吸音だけが暗い廊下に落ちていく。じじ。羽虫が天井に付けられた照明の傘に潜り込んで、足掻くように蠢く音がした。
二週間後に日向が祖母の家に訪れた時、電話を受けた相手は何事もなかったかのように穏やかな返事をした。
緊張が解けた彼はまた取り留めもない話をする。わざわざ電話でしなくても良いような下らない話ばかりだった。最近読んだ本。学校で起きた事。買った物。あちこちに飛ぶ話をいちいち楽しそうに聞いて、優しく続きを促してくる。日向はその度に心が軽くなるのを実感していた。
「お化けさん、俺ね、進路決めたんだけど」
『進路?』
「うん。この家から通える範囲の大学か、無理ならもう就職でも良いかなって」
祖母の家に通い始めてから、季節は幾つか巡っていた。少しかび臭い毛布を電話台の前まで引っ張り出してきたのは冬の始めの頃だった。
時折干して使えるようにした布団は寮に置いてある寝具よりも随分潰れて寝心地は決して良くはなかったが、日向にとっては何ら関係のない事だった。話せる程度の体力の回復さえ出来ればあとは問題がなかったからだ。
茶の間を出たすぐの廊下に電話台は置いてある。ちゃぶ台はとっくの前に隅に寄せて、引き戸のすぐ近くに布団や電気ポットを移動させた日向はそこに小さな自分だけの空間を作り出していた。
季節は春になろうとしている。話している内に暑くなってきた日向は、肩に掛けていた毛布を無造作に足元へと落とした。
『そうなの? 良いところが見付かると良いねえ』
「どこでも良いよ。ここから通えるなら」
先日行われたテストの順位を思い浮かべながら彼は笑った。悪くはない結果、むしろ教師がこの大学はどうだと呼び出すほどのそれ。
見せられたパンフレットの数々に、一つも唆られない自分を日向は内心で笑った。どこもかしこもこの家からは遠すぎる。
『人間ちゃんは何になりたいの?』
「何に?」
『人間って、夢とかあるんでしょう』
「何だろう。何でも良いよ」
あまり考えた事がなかった。彼の周りには碌なロールモデルが居なかったとも言える。崩壊した家庭、ほとんど帰らない自宅。
寮監や教師は優しい顔を見せるがあくまで他人で、日向が引いた一線を飛び越える者は居ない。友人は居ても表面的で、深い相談をすることもされることもないような関係。
何になりたいか。考えたところで、日向には具体的に思い浮かぶ像もなかった。
「飢えない程度に稼げて、ひとに迷惑をかけないような人間?」
はは。乾いた声が廊下に響いた。
『日向、またお婆ちゃんの家行ったでしょう。行っても良いけど一カ月に一回くらいにしなさいってお母さん言ったはずだよ』
届いていたメッセージに日向は舌打ちをした。寝返りをうつと、学生寮の古いベッドはぎしりと音を立てた。
同室の友人は自習室に行くと言ってまだ帰って来ていない。気晴らしに流していた曲のボリュームを上げた。
『小遣いから行ってるし、電気代とかもそこまで使ったつもりない。問題ないでしょ』
『あなたもうすぐ三年なんだよ。受験生でしょう。そんなに通って何してるの?』
『何もしてない。ゆっくりしてるだけ』
『この前お母さん行ってきたんだけど、ご近所さんから聞いたよ。ほとんど毎週行ってるんだって?そんなお金どこから出してるの?』
『小遣いだってば』
『そんなに渡してないでしょう』
彼の母親はお年玉の管理を本人に任せる方針にしていたから、日向はこれまで貰った全てを自分の口座に入れていた。
大した趣味もなかった彼はそのほとんどに手を付けていなかった。小遣いもいつか使うだろうと余った分は貯めていたから、学生にしてはそれなりの数字が記帳されていた。
始めの頃は新幹線で祖母の家まで通っていたが、残高に不安を覚えた彼はこのところ高速バスや電車を乗り継いで行くことにしている。借金や怪しいバイトはしていない。その旨を伝えても日向の母は納得する様子を見せなかった。
受験生になろうという時期、遊んでばかりいるように見えて気に食わないのだろう。彼は深くため息を吐いた。
『成績は落ちてない。金も迷惑かけてない。何が問題?』
『そういう問題じゃないでしょう。勉強に集中しろって言ってるの』
『息抜きも駄目ってこと?』
『とにかくもう電気は止めるから』
「……はあ?」
届いたメッセージに日向は思わず起き上がる。意味分かんない。そう返した彼の言葉に、無駄だとか余計なことだからとか、言い訳にしか見えない返答が来る。
彼の母親の中では既に決定事項らしい。何だよそれ。溢した言葉に返事をする者はいなかった。
いつか玩具で電話をしていた時は、電池がなくてもお化けさんに繋がっていた。
だからきっと電気を止められたところで電話は通じるはずだ。
そう考えはしても、どうにも落ち着かなかった。今すぐにお化けさんの声が聞きたい。日向はスマートフォンを握り締めた。
母親からの通知が鬱陶しいほどに鳴り響いていた。
「もしもし、お化けさんですか。ねえ、お化けさんはどこに居るの」
『こんにちは、人間ちゃん。お化けさんはここに居るよお』
「もしもし、お化けさんですか。ねえ、俺お化けさんに会いたいよ」
『こんにちは、人間ちゃん。会えたら良いんだけどねえ。会えないんだよお』
「もしもし、お化けさんですか。お化けさん、どうして会ってくれないの」
『こんにちは、人間ちゃん。人間はね、人間同士と仲良くしてた方が良いんだよお』
「もしもし、お化けさんですか。ねえ。この前からずっと考えてたんだけど」
『こんにちは、人間ちゃん。うん、どうしたのお?』
「俺が人間だから会えないの?」
暗い廊下に日向の強張った声が落ちた。まだ陽はある時間、カーテンも全て開けているのに照明がない家の中は異様に暗い。廊下の突き当たりなどは闇に呑み込まれそうな印象を日向に与えた。
母の目を盗んで彼はまだ祖母の家に通い続けていた。電気も水も止めればもう来ないと思っているのだろう、まだ母に気付かれた気配はなかった。通帳の残高を思い浮かべて、頻回に来られるのはあと何回だろう、と日向は少し目を瞑った。
コンセントに挿し込んでいても意味がない事に気付き、引き抜いたコードをずるずると引きずりながら茶の間へと引き込む。薄っぺらい座布団に腰を下ろすと、知らずため息が漏れた。
「人間じゃなくなれば会えるの」
『人間ちゃん、駄目だよお』
「だって俺、お化けさんにどうしても会いたいよ」
連れてってよ。声が震えていた。一息つけるような場所が日向にはどこにもなかった。どこもかしこも居心地の悪い場所。ようやくこの家なら。そう思えたところだったのに、と鼻を啜る。人間ちゃん。電話相手は穏やかな声をかけた。
『疲れてるんだねえ』
「俺もう疲れちゃった。この家、年内には壊すんだって。駐車場にするって。伯母さんがうるさいからって」
一つも残さず持って行った貴金属類は大した金額にならなかったのか、日向の伯母は今度は家に目を付けた。
——上は要らないから壊してさ、駐車場にでもしましょうよ。ちょうどこの辺駐車場ないから需要あるんじゃない? それで売り上げは旦那とあんたで半分こ。それなら良いでしょう。日向にはまるで意味が分からなかった。
抗議の声は全て潰された。まだ高校生の子供が相続問題に口出すんじゃないよ。顰められた伯母の細い眉毛は酷く不快な色をしていた。
「だから、お化けさん」
『人間ちゃん』
「うん」
『あったかいもの食べてねえ、ゆっくり寝なあ』
日向は突き放されたと思った。声色は優しい。内容も優しい。ただ、自分に寄り添うつもりはないのだ。その時初めて気が付いた。
電話の相手がどんな存在なのか、未だに彼には分からない。分からないが、この電話からかければいつだって相手は電話に出てくれる。ゆっくりと話を聞いてくれる。
それだけだった。日向にとって、『お化けさん』はこの相手しかいない。けれどきっと『お化けさん』にとって、『人間ちゃん』は日向だけではないのかもしれない。
「お化けさん」
『どうしたの、人間ちゃん』
「……会いたいよ」
『会えないんだよお』
「……どうしても会えない?」
『会えないんだよお』
「そっか。分かった。長々ありがとね、お化けさん」
がちゃん。返事も聞かずに受話器を置いた。
ずっと握っていたから手汗で湿っている。袖で受話器を拭って、勝手知ったる棚からタオルを取り出して、ぐちゃぐちゃになった顔を乱暴に拭った。
立ち上がった自分の影すら見えないほどに暗い家の中で、あーあ、と日向はぼそりと呟いた。終わっちゃった。薄く笑って持ち込んでいたリュックサックを拾い上げる。泊まるつもりはなかったからずいぶんと軽い。
「じゃあね。お化けさん」
受話器を耳に当てないと会話は出来ない。分かってはいても、日向は玄関から電話機に向かってそんな声を投げかけた。しん、と静寂が返ってくる。
ポケットから鍵を引っ張り出してぐりぐりと鍵穴に押し込む。帰りの足でアパートに置いてこようか。一瞬そう考えて、やめた。どうせ向こうから回収に来ることになるから良いか。ポケットに突っ込んで駅への道を歩き出す。外は夕陽が沈み始めている。
じりりりん。
じりりりん。
誰もいない家の中で黒い電話が鳴り響いていた。それを聞き止める人間は誰も居なかった。
夜景とも言えない程度の街の灯りが日向の眼下に広がっている。都会というほど高い建物もなければ田畑が広がっている訳でもない、ただ人口が少ないだけのゴーストタウンみたいなどっちつかずの中途半端な街。唯一騒がしい駅前の雑居ビルの非常階段を抜けた先、真っ暗な屋上に日向は一人で立っていた。
飲み屋帰りなのか、不必要に大きな声で電話をしながら歩く人の頭が見えた。いま帰り、えー、アイスー? けたけたと笑い声が聞こえる。
楽しそうだね。ぼそりと呟いた声は夜の風に流れて消えた。寄りかかったフェンスがぎしりと音を立てる。月の見えない夜だった。
今日の月齢って何なんだろ。不意に気になり、日向はスマートフォンをポケットから取り出した。いつか見た宇宙の図鑑。父が気紛れに買ってくれた天体望遠鏡を思い出す。
本当はあの時とても楽しかったのに。気恥ずかしくてはしゃぎきれなくて、見方を教えてくれる父にぶっきらぼうな返事しか出来なかった。
望遠鏡はあれから二度と使われる事なく物置に仕舞われて、とっくに処分されてしまったか、それとも顔も知らない弟妹が同じように教えてもらったのかもしれない。日向が高校に入学が決まったあとで、母がサイトウに当たっているのを夜中に見かけた事があった。子供が産まれたからって養育費はお終いだって。日向だってあれの子供なのに。宥めるサイトウの面倒くさそうな横顔が目に焼き付いている。
目を閉じてフェンスに額を押し付けた。錆びかけた鉄の表面はざりざりとして少し痛みを伝えてくる。指でそっと撫でたそこはざらついて、自分の心象風景みたいだ。詩人みたいな事を考えて日向は少し笑った。
ふと、ドアが開く音が聞こえた気がした。こんな時間に誰が来たのか。雑居ビルの関係者か、それとも自分のような人間か。
ゆっくりと音のした方に顔を向けて、日向は一瞬動きを止めた。
そうしてすぐに、くしゃりと笑った。
「……はは。そんな顔してたんだ」
手に持ったままのスマートフォンがメッセージの受信を知らせる。いまどこに居るの。母からのそれを見ないふりをして、日向はそっと電源を落とした。




