第03話「君の目で未来が見たい」
一条蓮と出会った衝撃的な夜から三日後。私のスマホが見知らぬ番号からの着信を告げた。
警戒しながらも通話ボタンを押すと、聞き覚えのある、落ち着いた声が耳に届いた。
「突然すみません。先日、ミートアップでお会いした一条です。相沢美月さんのご連絡先、ご友人の方に無理を言って教えていただきました」
彼の声を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ねた。どうして彼が。
驚きと戸惑いで、すぐには言葉が出てこない。
「あの……何の御用でしょうか?」
「ぜひ、もう一度お会いしてお話がしたいんです。どうしても、あなたに確かめたいことがある」
彼の真剣な声に、断るという選択肢は浮かばなかった。
私たちは翌日、彼の会社「ホライゾン・テクノロジーズ」で会う約束をした。
翌日、都心の一等地にそびえ立つ近代的なオフィスタワーを訪れると、洗練されたエントランスで一条さん自らが出迎えてくれた。
「わざわざすみません、来てもらって」
「いえ……」
彼の案内に従って足を踏み入れたオフィスは、活気に満ち溢れていた。
壁一面のホワイトボードには数式やビジネスモデルが書きなぐられ、若い社員たちが熱心にディスカッションを交わしている。そこには、私がいた明誠商事のような、古く堅苦しい空気は微塵もなかった。自由で、創造的なエネルギーが渦巻いている。
社長室に通され、革張りのソファに向かい合って座ると、一条さんは単刀直入に切り出した。
「相沢さん、あなたは、私がずっと探し求めていたアナリスト、“K”ご本人なのではありませんか?」
彼の真っ直ぐな視線が、私を射抜く。息を呑んだ。
まさか、あの短い会話だけで、そこまで確信しているとは。私は動揺を押し殺し、かろうじて平静を装った。
「……人違いだと思います。私はただの、職探し中の元OLです」
「本当にそうですか?」
彼はテーブルの上に一枚の書類を広げた。
それは、先日私が“K”として投稿した、ホライゾン・テクノロジーズに関する分析レポートを印刷したものだった。
「先日、あなたが口にした市場分析。このレポートに書かれている未来予測と、驚くほど一致している。偶然にしては、出来過ぎています」
彼の指摘は鋭かった。言い逃れはできないかもしれない。
観念してうつむく私に、彼はさらに言葉を続けた。
「私は、五年前から“K”のレポートのファンなんです。初めて読んだ時、衝撃を受けました。データから未来を読み解く、その圧倒的な洞察力に。まるで、世界がその人だけに見えているかのように、鮮やかに。ホライゾン・テクノロジーズを立ち上げる時も、事業戦略に迷った時も、いつも“K”のレポートが私を導いてくれた。私にとって“K”は、顔も知らない、尊敬する師のような存在なんです」
彼の熱のこもった言葉に、胸が熱くなる。
ただの趣味で始めた分析が、こんなにも誰かの支えになっていたなんて。
「だから、もしあなたが本当に“K”だとしたら……いや、たとえ違ったとしても、あの夜、あなたが示してくれた才能は本物だ。相沢さん、どうか、僕の会社に来てくれませんか」
彼は身を乗り出し、私の目をまっすぐに見て言った。
「うちの経営戦略アドバイザーになってほしい。君のその目で、僕と一緒に未来を見てほしいんだ」
明誠商事時代の給与の数倍はあろうかという報酬額と、経営の中枢に関わるポジション。それは破格の条件だった。
けれど、それ以上に私の心を動かしたのは、彼の言葉そのものだった。
「君のその目で、未来を見てほしい」
高遠彰は、私のその目を「可愛げがない」と否定した。数字しか見ていないと、蔑んだ。
でも、目の前のこの人は、私のこの目を、才能だと評価してくれる。私そのものを、必要だと言ってくれている。
「……どうして、私なんですか?」
「言ったでしょう。あなたの才能に惚れたからです」
彼は少し照れたように笑い、そして真剣な表情に戻った。
「相沢さん、あなたの瞳は、ただ数字を追っているだけじゃない。その奥にある、まだ誰も気づいていない価値や可能性を見抜いている。僕にはそれがわかる。だから、あなたが必要なんです」
彼の言葉が、彰によってつけられた心の傷に、優しく染み渡っていくようだった。
この人なら、信じられるかもしれない。失った自信を、ここでなら取り戻せるかもしれない。
「……私、前の会社では、地味で、融通の利かない、ただのOLでした。あなたの期待に応えられるかどうか……」
「僕が保証します。あなたは、あなたが思っている以上に、すごい人だ」
彼の力強い言葉に、迷いは消えていた。
私はゆっくりと顔を上げ、彼の目を見つめ返した。
「わかりました。……私でよければ、よろしくお願いします」
私がそう告げると、一条さんの顔が、ぱっと花が咲くように明るくなった。
彼は嬉しさを隠しきれない様子で立ち上がると、力強く私の手を握った。
「ありがとう、相沢さん。いや、これからは美月さん、と呼ばせてもらっても? 僕のことも、蓮と呼んでください」
彼の手は大きくて、温かかった。その温もりが、私の凍てついた心をゆっくりと溶かし始めていた。
こうして、私の新しい人生が始まった。
地味なOL、相沢美月は、急成長IT企業の経営戦略アドバイザーとして、新たな一歩を踏み出すことになったのだ。
隣には、私の才能を信じ、光の差す場所へと導いてくれた、一条蓮という最高のパートナーがいる。
不安よりも、これから始まる未来への期待で、胸は高鳴っていた。彰と別れたあの夜に見上げた星が、今、確かに私の手の中に舞い降りてきたような気がした。




