第7話 ジャム改革
誰でもそうだが、頭を使うと甘いものが食べたくなってくる。
というのも脳は体重の2%しかないのに、全エネルギー消費量の約20%も使う大食いの臓器なのだ。
でも『聖別者』たる私の脳もそうなっているのだろうか?
実際には血糖値がそれほど下がってない場合でも、甘いものが欲しくなることもある。これは脳が「頑張ったご褒美が欲しい」と感じているからかもしれない。
そんなことを考えながら、私はもはやほとんど味のしない白パンを見つめ、ため息を吐いた。
「……ケルビーさん、毎日白パンで飽きませんか?」
「んー……食べなくても生きていけますからね、私達は。白パンを与えられるだけマシです」
「でも、以前はもっと良いものを食べていたのでは? メタトロン様はおおらかな人だったと」
「そうですねえ。サバのトマト煮が好きだったなあ。懐かしいです」
なんだその美味しそうな料理は。私はサバの水煮缶が好きなのだ。マグロで言えば大トロに相当するとろっとろの部分があって、カレー粉をかけると美味しい。トマトでもいい。食べたい、サバのトマト煮が。
でも今、欲しいのは甘い物だ。
「せめてジャムを付けたいのですが……メタトロン様に直接言っても断られそうですね」
「なぞなぞの時も難色を示しておられましたからね。ところで、ジャムと言えばこんな謎がありますよ、ルシエルさん」
「今はそんな気分ではありません」
首を振りながら立ち上がると、ケルビーは心配そうに駆け寄ってくる。
「なんだか元気がなさそうですね」
「ええ、気持ちは塞いでおりますよ――瓶詰めのジャムのようにね」
「どんだけジャム付けたいんですか」
だが、そろそろ小さな変革を起こすべきかもしれない。いきなりデジタル化のような大きな提案をしても、顰蹙を買ってしまう。
いわゆる『フット・イン・ザ・ドア・テクニック』――小さな要求から始めて徐々に大きな要求に移っていくのが定石だ。そのジャブとして、まずはジャム改革を起こす。
決して……決してジャムを食べたいだけではない。これもプロジェクトのためだ。実現したら、あまりにも鮮やかな手腕なので、メタトロンも私を警戒してしまうかもしれないな。それでもその価値はある。
「ふっ……」
「なんだか悪い笑みを浮かべていますよ、ルシエルさん」
「ところで……あー、魔法試験の時に一緒にいた立会人の女性は誰でしょうか?」
「セラフィナ様ですね。天使長の副官で、私の直属の上司です」
「つまり、何か提案したいなら、まずセラフィナ様に進言すべきということですね」
「ええ、でもたかがジャムって言われそうな……本当にやるんですか?」
さすがのケルビーも及び腰だ。駄々っ子みたいな提案をしてセラフィナにがっかりされたくないのだろう。
「たかがジャム、されどジャムですよ。ケルビーさん」
「意味がわかりません」
「できれば今日の午後に、セラフィナ様と話をしたいのですがね。アポを取っていただけますか」
「うーん……気は進みませんが」
「ああ、その前に資料を用意しないといけませんね。それを持っていけば、話を聞いてくれると思いますよ」
★★★
夕方頃、メタトロンの執務室にセラフィナがやって来た。
「ルシエルが面白い提案を持ってきましたよ。これはぜひメタトロン様もお聞きになるべきかと」
「……どんな提案だ?」
「白パンにジャムを付けたい、と」
いったいどんな提案だろうかと身構えていたのだが、メタトロンは拍子抜けしてしまう。
(ジャム? ジャムだと?)
知性の高い男だと思っていたのに、買いかぶりだったか。でもセラフィナはまるでサプライズを仕掛ける子供みたいに目を輝かせている。
もしかするとルシエルは『フット・イン・ザ・ドア・テクニック』を狙っているのかもしれない。小さなお願いを承諾させた後に大きなお願いを通すつもりなのだ。一度、相手のお願いを受け入れると「一貫性の原理」が働き、次のお願いに弱くなる。
(ふん、その手には引っかからんぞ)
はっきり言って、メタトロンはプロジェクトを遅らせたいと思っている。そのために天使たちのやる気を削いでいるのだ。
しかし彼自身は、そのことを明確には認めていない。自分自身を騙す建前として、旧人類が滅亡したのは規制が緩かったからだと思っている。天界の気が緩んでいたから、あのような大惨事が起きたのだと。だからプロジェクトを遅らせているのではなく、まっとうな理由があるのだと自分に言い聞かせている。
どんなに小さな規制緩和も受け入れるつもりはない。断るのは簡単だ。ジャムなんかあってもなくてもどうでもいいんだから。話を聞く必要すらないが、はっきりノーを突きつけてやった方がルシエルも今後、しおらしくなるだろう。
そこでメタトロンはこう言った。
「……まあ、実験体の話を聞くのもプロジェクトの一環だからな。執務室に連れてきたまえ」
それからまもなく、ルシエルとケルビーが入室してくる。
相変わらず、ルシエルの所作は洗練されていた。とても白パンにジャムを付けろ、と提案しにきた男には見えない。
すると彼は優雅に人差し指を立てて口を開く。
「天界の厳格な規律を拝見していて気付いたことがあるんです。実は、この統制された環境だからこそ効果を最大化できる、実証済みの手法がございます」
意外にも規制について批判するつもりはないようだ。
(この環境だからこそ効果を最大化……? 何をするつもりだ?)
たかがジャムの話だと思っていたのに、予想外の第一声にメタトロンはうろたえる。
「人間界にはこんな研究があります。学生を対象にした実験で、宿題に対して極めて小さな報酬を与えるグループと、何も報酬を与えないグループに分けて比較したのです。結果は驚くべきもので、小さな報酬グループの宿題提出率が、無報酬グループの4倍になりました。さらに、テストの正答率まで向上しております」
そこでケルビーがわかりやすくまとめられた資料をメタトロンに手渡す。彼はそれに隅々まで目を通し、反論材料がないか思考を巡らせた。しかし出典も明らかにしているし、根拠が薄弱だとは言えない。
そうしているうちにも、ルシエルの言葉は続く。
「逆に大きな報酬は内発的モチベーションを損なう。あくまでも、『これは報酬のためではなく、自分がやりたいからやっている』と思いながらも、ちょっとした達成感を覚えられる――そんな些細な報酬が最適だということです」
その時、セラフィナが待ってましたとばかりに口を開いた。
「それがジャム、というわけですね」
ルシエルは微笑みながら、一礼する。
「ご理解いただき感謝します。メタトロン様の方は……ここまでで何か質問はございますか?」
ここで何も言わないわけにはいかない。メタトロンはかろうじてケチを付けられそうな点を指摘した。
「人間の学生を対象にした実験ということだが……我々は天使だ。同じ手法が通用するとは限らん」
「良い質問です! さすがメタトロン様」
だがルシエルはそんな質問は想定済みだというように、むしろ活き活きとし始めた。
「おっしゃるとおり、まずは検証が必要です。そこで……いかがでしょう。天界にはいくつか事務棟が存在しますから、この本部棟にいる天使たちにはジャムを付与し、その他は今まで通り無報酬とする。そして、どれくらい業務効率が上がるか比較してみませんか?」
さらにセラフィナがルシエルを援護する。
「彼の提案は筋が通っています。実験で効果が出なければ、その時は元に戻せば問題ないでしょう」
「ううむ……」
これだけ鮮やかな論証を見せられて、無下に断ったらセラフィナが不信感を抱くだろう。
つまりこの男は、現行システムの規制を問題ではなく資産として扱った。その制約を逆手に取り、既存システムを評価しつつ改善案を提示したのだ。
――論理的にエレガントすぎる……ダメだ。断れない。
「………………わかった」
絞り出すような声で言うと、ケルビーが嬉しそうに小さく拍手する。
「ありがとうございます、メタトロン様」
いつものように、ルシエルは恭しく一礼する。
「もし効果が出ましたら、個人のノルマだけでなく、全体の進捗率に応じてジャムの種類を増やすなどもよいでしょう。毎回、同じ報酬では飽きてしまいますからね」
ちゃっかりもっと大きなお願いまでしてくるとは。『フット・イン・ザ・ドア・テクニック』だとわかっているのに――
わかっているのに……断れない!
まるで波が引いていくのを見ていながら、その力に足を取られて海へと引きずり込まれるようだった。
「……ああ、そうだな」
それから具体的にどのように実施するかの話を進め、ジャム改革案は可決された。
「お話を聞いていただきありがとうございます。それでは失礼いたします」
そう言って出ていく間際に、ルシエルは振り返って言った。
「繰り返しになりますが……天界の厳格さがあるからこそ、ジャムのような些細な追加でも大きなインパクトを生むでしょう。つまり、全てはメタトロン様のおかげというわけです」
それは皮肉のように聞こえた。
ひょっとすると、ルシエルは自分がプロジェクトに乗り気ではないことに気付いているのだろうか?
だから、「プロジェクトを遅らせるための規制が、逆にプロジェクトを進める結果になりましたね」と皮肉を言っているのだろうか?
執務室で一人になった後、メタトロンは首を振る。
(いや、考えすぎだろう……神経質になっているだけだ)
★★★
かくしてジャム改革が始まった。
当面は実験段階だが、本部棟にいる私はすでにジャムを享受できる。もちろん個人ノルマは達成したので、その日の朝からイチゴジャムを白パンに付けてもらった。
ちなみにケルビーも頑張ったので、彼女の白パンにも果肉感たっぷりのつぶつぶイチゴジャムが添えられている。
宝石のように輝くルビー色のイチゴジャム。ジャムの表面は滑らかで艶やか、まるで上質なガラス細工のような透明感を湛えていた。
しばらくその美味しそうな見た目を楽しんだ後、2人して同時にジャム付きの白パンを齧る。
歯が白パンの表面に触れた瞬間、外側のほんのり焼けた部分が軽やかに砕け、中のふんわりとした生地が頬の内側に当たる。続いてイチゴジャムの鮮やかな甘酸っぱさが舌先に広がり、果肉のつぶつぶとした食感が口の中で小さく弾ける。パンの素朴な小麦の香りとジャムの熟した果実の香りが鼻に抜けて——
これまで何ヶ月も続いた、味気ない白パンと水だけの食事が嘘のようだった。甘味という、忘れかけていた感覚が口の中で花開く。ジャムの甘さがゆっくりと溶けて、舌の奥まで幸福感が染み渡る。
向かいの席でケルビーが小さく「あ……」と声を漏らした。見ると、彼女は目を丸くしてパンを見つめ、そっと頬に手を当てている。まるで夢を見ているかのような、うっとりとした表情だった。
「こんなに……こんなに美味しいなんて」
ケルビーは震え声でそう呟くと、感激で瞳を潤ませながらルシエルを見上げた。
「ルシエルさんのおかげです。本当に、本当にありがとうございます」
彼女はもう一度、大切そうにパンに齧りつく。今度はより丁寧に、ジャムの甘さを噛みしめるように。その幸せそうな表情を見ていると、私もまた、心の奥で静かな満足感を覚えるのだった。




