第20話 地獄の瘴気
「屋上の野菜には指一本、触れさせない……だと?」
我ながら大それたことを言ってしまったものだ。
このビルの上からでもいくつかの屋上菜園が見渡せる。その合計数と範囲によっては訂正させてもらうが、蛮族たちの生活圏はそれほど広くないと予測している。
私はにこりと微笑みながら言った。
「はい、私の光魔法なら撃退可能です。そうですよね、サリーさん?」
そう言って空中を飛んでいるサリーを見上げる。
「ああ、ルシエルなら数十体くらい瞬殺だろうよ」
「彼も歴戦の武装天使ですから、悪魔退治はお手のものです」
「ふん……お前たちの強さは認めているさ」
そう言ってくれたのに、フィンはすぐに目を細めて、ぐるると唸る。
「だが、どうも親切すぎるな。いったい何を企んでいる?」
そう言いながら、フィンはさりげなく鼻を近付けて私のにおいを嗅いだ。嘘を吐いているかどうか確かめているのだろうか。
犬やオオカミは情動を嗅ぐ。不安や恐怖といった感情は、すべて生理学的な変化を伴う。嘘を吐く時のわずかな緊張でさえ、心拍数を上昇させ、血流を促進させる。
すると化学物質が速やかに全身の毛細血管をめぐり、皮膚を通して微量に放散される——つまり、嘘を吐いているにおいがプンプンするわけだ。
犬科の悪魔には嘘を吐くべからず。そこで私は正直に答えることにした。
「ただ私のために祈ってくだされば。それが私の力になります。そういう能力でしてね」
これなら嘘は吐いてないし、能力説明っぽいのでカルト宗教の教祖じみてもいない。
厳密に言うと信仰が力になるかどうかは微妙なところだが、生きる力にはなる。
半年以内に1000人分の信仰力を獲得しないと死ぬ、というのは言わなくてもいいだろう。
切迫した弱みは足元を見られるリスクもあるし、意図せず他の町や敵対勢力に漏れたら戦略的に不利になる。
「やはり自分のためということか。天使も打算的な連中ばかりだ。さっさと幽鬼先生のところに行けばいい。そうしないのは、他にも何か隠していることがあるからだろう」
まったく、フィンの疑り深さは相当なものだ。彼の立場になってみれば当然とは言えるが。
先ほど、幽鬼先生は堕天使を積極的に雇っていると言っていた。つまりフィンにとっては「天使=権力者の味方」という図式が成り立っている。
そこに突然、天使が現れて「幽鬼先生を説得する」と約束したところで、素直に信じられるわけがない。ミイラ取りがミイラになるのがオチだ、と真っ先に考える。
その気持ちはわからないでもないが、疑念を抱いている相手と付き合うのは正直めんどくさい。
言うなれば、『私の行動を悪い方向に解釈するフィルター』がかかっているようなものだ。
こういう相手には多くを語らず、淡々と交渉するのが吉。実際に成果を上げるまでは適度に距離を保とう。
「取引の話に戻りますが……まとめるとインプ退治と防衛を約束する代わりに、必要な分だけ堆肥を使いたいという話ですね」
「ううむ……」
「すぐに決めなくてもかまいませんよ。野菜の種も後で取りに来ます。それより今夜、眠る場所を確保する必要がありますから」
こうやって決断を焦らず、会話を切り上げるのは有効だ。相手に考える時間を与えれば、冷静になって条件の良さに気付くだろう。
それにこちらは取引が決裂してもかまわないという雰囲気を作れる。
「それではいったん失礼いたします」
「待て。野菜の種はちゃんと渡そう。そっちの取引は成立したからな。どの種が欲しいんだ?」
「そうですね……ラディッシュ、小松菜、水菜の3種類で、合計100粒。これでいかがでしょう?」
そう言うとフィンはわずかに目を見開いた。
「たった100粒か……いや、何でもない。用意しておくから、後で取りに来い」
屋上を下りる前に、空高く飛んでいたケルビーが私の前に着地した。
「大変です! どうやら地球は『地獄の瘴気』に満ちているようです。どこもかしこも!」
「……地獄の瘴気とは?」
まあ、呼称から判断するに、地獄のゲートから湧き出てきた毒気だろう。そう思っているとサリーが今思ったことと一言一句変わらぬ説明をしてくれた。
「地獄のゲートから湧き出てきた毒気だ。吸い込んでも死ぬことはないが、体力を急速に奪われる」
「それがあるところでは植物も育たない?」
「無理だろうな。地獄で植物なんて見たことがないから」
「ふむ……光魔法で除去することはできますか?」
「一時的に瘴気を遠ざけることはできる。でも光がなくなったらまた瘴気が押し寄せてくる」
それは難儀な。
でも本当に除去できないのか? あとで試してみよう。
「その瘴気はどれくらい広がっていましたか、ケルビーさん?」
「んーっと、ざっと上空から見回ってみた限り、ほとんど瘴気でしたね。霧のようにあちこちを立ち込めていました。ここは一番、瘴気がない場所だと思います」
なるほど、この新宿エリアの状況も明確になってきた。地獄の瘴気のせいで利用できる土地が極端に限られているのだ。撤去できない瓦礫の山だってある。
要するに蛮族たちが住んでいるこのエリアはオアシスみたいなもの。
小さな森はあるが、そこを開墾すると天然資源が失われてしまう。だから外では農業をせず、屋上菜園を極めることにしたのだ。
「幽鬼先生なら瘴気を除去できるんだがな」
意外なことにフィンが会話に割り込んできた。
「ほう、何か特別な力を使うのでしょうか?」
「さあな」
「なぜ全ての瘴気を除去しないのでしょう?」
「俺に聞くな」
そのとき私が期待していたのは、より多くの信仰力を獲得すれば、地獄の瘴気に対抗できるのではないかということだ。信仰力とは単に数字ではなく、本当に力に変換できるものだったらいいのに。
前にも言った通り、私はのんびりしたかったのだ。人付き合いも最小限にして、今やろうとしている光魔法を使った農業研究にも没頭するつもりだった。時間に追われることなく。
にも関わらず信仰力の獲得を強いられるのはなんとも忌々しいが、RPGでレベルアップするように魔力を強化できるなら、そこに楽しみを見出すこともできる。幽鬼先生に会えばその辺も明らかになるだろう。
それにしてもフィンは無愛想すぎる。会話に割り込んできたくせに、それ以上、会話を弾ませる気はないようだ。
彼が美しいオオカミの姿で転生したことに感謝しなければならない。人に馴れてない野生の獣だと思えば、おおらかな気持ちで許してやれる。
屋上から階下に行くと、フィンが鬼たちに向かって言った。
「誰でもいいから、こいつのことを見張っておけ。妙なことをしないようにな」
その言葉を受けて、モヒカン2人がニヤニヤ笑いながら立ち上がる。見るからにろくでもなさそうな連中だ。
「いいぜえ、俺達がしっかり見張ってやる」
そう言いながら彼はナイフを舐めている。他人のことをあまり馬鹿だとは言いたくないが、ナイフを舐めるような男にはどう考えても知性が欠けている。
なぜこんな連中と仲良くしなければならないのか?
と、急に疑問が湧いてくる。都市に行けばもっと知性と品格を兼ね備えた人間に出会えるだろう。
しかし蛮族の中には、フィリップ・マーロウのセリフに「痺れた」と言ってくれる女もいた。彼女は例外かもしれないが、一人の例外が全体の見方を変えるのである。私にとってはそれだけで彼らも捨てたもんじゃないと思えるのだ。
できればそのマーロウに痺れた女と友好を深めたいところだが……見張り役に志願した男達を押しのけて、女を選んだら間違いなく反感を買うリスクは高い。
ここは受け入れるしかあるまい。人生はままならないものだ。
そして私は我慢の限界になると片目が痙攣することがままある。いくらでも片目をぴくぴくできるように、白いアイマスクを付けておこう。
「ええと、よろしくお願いします。ところで雨風をしのげる場所を探しているのですが、空いているビルがあれば使ってもよいですかね?」
「ああん? この町は俺達のもんだぜ。いいわけねえだろ!」
1人はそう言ったが、とりわけニヤニヤしているモヒカンが言った。
「ヒッヒッヒ。待てよ、ちゃんと考えろ。俺達は賢いんだ。いいか、こいつに空いているビルを使わせれば、修理してくれる。そうだろ?」
おお、本当に賢いモヒカンだ。
「お前、賢いな!」
「ヒヒッ。貸してやろうぜ~~空いているビルをよお~~~」
もうおわかりだろうが、そのビルはとてもボロボロだった。




