第17話 新宿の蛮族
良い知らせと悪い知らせがある。
まず、良い知らせからだ。この荒廃した新宿にも人が住んでいる。
朽ちたビルとビルの間に、ロープや木の板でできた橋がかけられているのを見てそう思った。洗濯物らしきボロ布がロープに干されているから、確かに住民がいる。
ビルの低層部は崩れかけた壁を鉄骨や木材で無理やり補強し、入口は錆びた廃車の残骸や鉄板が雑然と積まれて塞がれている。
悪魔転生した元人間たち――サリーに言わせれば『罪人』――は、旧世界の遺物を利用して生き延びているのだろう。それにしても、500年もあればもう少し復興していてもおかしくないものだが……
瓦礫まみれの道路には血痕のシミがところどころに見える。ここでは何度か戦闘が行われた痕跡がある。窓という窓は板やトタンで半分塞がれ、その隙間から人の気配を感じる。
そこで悪い知らせだ。我々は包囲されている。サリーが言った。
「……気付いたか? あんまり歓迎されてなさそうだぜ」
「ええ。2人とも、私から離れないでください」
「何かやるつもりですか、ルシエルさん」
「ここに来た時からずっとやってますよ」
「ええ?」
「いいだろう。お前を信じるぜ」
ケルビーの手が私の袖をぎゅっと掴んだ。サリーは無言で身構える。
これが映画ならまず相手は「動くな!」とか言ってくれるのだろう。そしたら私達はアホみたいに静止して、しばらく話をした後に結局、戦闘になるわけだ。
だが現実には――彼らは問答無用で撃ってきた。私が意外に思ったのはそれが銃弾ではなく、矢だったことだ。ありとあらゆる方向から無数の矢が飛んでくる。
通常ならこんな攻撃は避けようがない。なんという初見殺し! こんなこともあろうかと、地球に降り立った時から『イージス2.0』を発動していて良かった。
初代『イージス』は皮膚全体に微弱な電界を展開し、接触物が電界に侵入すると、静電容量の変化を瞬時に感知する仕組みだった。
しかしこれにはいくつか弱点がある。複数の敵に囲まれたら処理が追いつかないこと、単純な回避パターンしかないこと、電界では導電性のある物質にしか反応しないこと。
そこで『イージス2.0』では、検知方法を赤外線レーダー方式に切り替えた。
まず『ルクス』は光の波長と振動を操る力なので、光の波長を伸ばし、赤外線域にシフト。可視光の赤い光(大体700nm)より波長が長くなると、赤外線になり、人間の目では感知できない。
空に浮かぶ虹の一番外側は赤色だが、そのさらに外側に本当は目に見えない赤外線が存在しているのだ。
その赤外線を球状に拡散させる。おおよそ半径30メートルをカバー。
そして物体に当たった赤外線の反射を感知する。その反射の強さ・角度・時間差で「距離・方向・形状」を算出。連続スキャンで「速度・軌道」も予測できる。
LiDARという自動運転や地形測量で使われる技術だ。もっと身近な例で言えば、スマートフォンの顔認証では赤外線ドットを投射して、その反射を赤外線カメラで読み取り、顔の3D形状を復元している。
現実には機械で赤外線を高速回転したり、広範囲に照射するわけだが、魔法はイメージの精度さえ高めれば瞬時に実現できる。そして1秒間に数千回スキャンすれば、飛んでくる矢の形状と軌道を完璧に把握できる。
そしたらあとは簡単だ。レーザーで迎撃する。『ルクス』の光を一点に集中して放つだけ。距離も方向も、速度も軌道もわかっているのだから正確に全ての矢を焼却可能だ。
そういうわけで、飛んできた矢は空中で瞬く間に灰燼と帰した。
ケルビーは呆然と、灰になって降り注ぐ矢の残骸を見つめている。
まとめると『イージス2.0』は「赤外線レーダー + レーザー迎撃」方式である。全物質を検知できるし、スキャン範囲が広いので、検知後の処理時間も長く取れる。初代――「電界での刺激検知 + 条件分岐による物理処理実行」――の弱点を完全に克服している。
なぜ最初からこれにしなかったかというと、天界では光魔法が禁止されていたからだ。レーザー迎撃は無理なので、筋肉制御による回避方式にしていた。赤外線だと少しラグがあるので、電界で瞬時に検知できるようにしていたわけだ。でも、近接戦闘なら初代の方がいいかもしれない。
矢を燃やし尽くした時、住宅街のあちこちから静かに息を呑む音が聞こえてくるような気がした。もちろん、実際にそんな音が聞こえるはずはないけれど。ただ、敵の動揺が肌で感じられるのだった。
「ううむ、エレガントだ」
「光魔法って万能なんですねー」
「ええ、神が最初に『光あれ』と言ったのは理にかなってますね」
すると敵の1人が怒鳴り声を上げる。
「てめえら、怯むんじゃねえ! 撃って撃って撃ちまくれ!」
その声に「ヒャッハー」と返事をしながら、たちまち矢の雨が降り注いでくる。私はことごとくその矢を灰に変えていく。彼らに資源を無駄にするなと叫びたかったが、私はあまり大声を出すのに慣れていない。とりあえず喉の調子を整えよう。
それで咳払いすると、サリーが「鬱陶しいな」と言って持っていた槍をぶん投げた。近くのビルの壁を粉砕しながら貫通し、その向こうに隠れていた敵たちが姿を現す。壁が剥がれてシロアリがわらわら出てくるように。
「ヒイィィィ」
それはモヒカンの悪魔だった。モヒカンと太い角を生やしている。サリーの槍で足場が崩れたので、モヒカンの1人が落っこちそうになって叫んでいる。そこへ他のモヒカンが現れて、仲間を慌てて引き上げている。
……なぜモヒカンなのだ? ここは世紀末か?
「ちくしょう、なんで矢が当たらねえんだ?」
「おしめえだ。俺たちゃ皆殺しよ……」
「ばっきゃろう! どうせ死ぬならよお。最後まで戦って死のうぜ」
「そうだ! 旧世界の絵に出てきた勇敢な戦士を思い出せ!」
まずい。そろそろ止めないと特攻してきそうだ。こんな不毛な争いは止めねばならない。
「皆さま! 我々に敵意はございません! 話し合いましょう!」
私はできるかぎり声を張り上げて言った。
「うるせえ! 話し合えば、その背中にある食いもん全部渡してくれるのか? ああ?」
なるほど、ケルビーの白パンが狙いか。パンパンの袋を背負っていれば食べ物があると思うのは自然なことだ。
「ケルビーさん、渡してもいいのでは? 我々は天使なので食べなくても生きていけますし」
「いいえ、ルシエルさん。天使は天界を離れると飢えを感じるんです」
「つまり……食べないと生きていけない?」
「そうです! 次にどうやって食べ物を入手できるかわかりませんから、軽率に渡すべきではないかと」
それでもいくらかは分け与えてもよいと思うが。それを決めるのは白パン大臣のケルビーだ。白パンを大量にくすねてきたのは彼女なんだから。
私達が逡巡していると、モヒカンの悪魔たちが言う。
「ほらな、天使どもはお高くとまってやがる」
「特に目隠ししている野郎は気に入らねえぜ」
「高貴な動きしてやがる」
「天界にも貴族っているのか?」
「どうせぬくぬく暮らしてたんだろ!」
するとサリーが『スピアー』と唱えて、ロンギヌスの槍くらい大きな光の槍を出現させる。モヒカンたちは一斉に口をつぐんだ。
「全員、殺すか」
「お待ちを」
私は一歩前に出て、顔が見えているモヒカンたちに言った。
「ここにレタスやキャベツ、イチゴなどの種子はありますか? それかハーブ類でも」
「ああん……?」
「見るからに狩猟や農耕に適した土地ではありませんからね。でもビルの屋上でちょっとした栽培をしているのかと思いまして」
彼らが食糧難に直面しているのは明白だ。でなければ、こうまで必死に我々を襲撃することもあるまい。
加えて、この一帯は元大都会――瓦礫が未処理のままということは、狩猟も農耕も望めない。どうしてこんなところに住んでいるのかは謎だが。別の食料調達手段があるとすれば……たぶん、屋上菜園といったところだろうか。
「お、教えるわけねえだろ。取られちゃうし」
「なるほど、あるんですね」
この連中、あまり頭が良くないようだ。
「ば、ばっか! ねえし!」
「もうお前は黙ってろ。俺が何とかするから、お前達は逃げるんだ」
その冷静な声は、この場にいる誰よりもIQが高そうに聞こえた。その声の持ち主がビルの上から飛び降りてくる。モヒカンではない。真っ白で美しいオオカミが二足歩行で立っているではないか。いわゆるヘルハウンドだろうか。
サリーの話だと、地獄生まれの『ヘルボーン』はみんなルシファーの手下。このヘルハウンドはそうではなさそうだから、罪人だ。悪魔転生すると色々な異形の姿になるのだろう。
「フィン!」
「仲間を置いて逃げられるわけねえだろ!」
「俺らはまだやれるぞ!」
「邪魔だ。さっさと行け」
フィンと呼ばれた白いオオカミの獣人は、ヤンキーどもの暑苦しい言葉をものともせず一蹴する。やっとまともな知的生命体が出てきたか。
「待ってください。我々はパンをお渡しします。代わりに、野菜の種子を貰えませんかね。文明人らしく物々交換しましょう」
「……文明人? なんだそれは?」
妙だ。彼らは元人間の悪魔ではないのか? それなら現代知識を持っているはずだが……500年経ってもこのありさまを見るに、まさか知識がないのか?
「文明」という言葉は、日本においては明治時代に西洋の"Civilization"の訳語として定着した。この言葉を知らないということは……知識の水準が近代化以前で止まっているとは考えられないだろうか。
そういえば、彼らは銃も使わなかった。こういう世の中ではまず誰もが手に入れたいと思うものだ。日本は銃社会ではないから、暴力団の事務所から手に入れるか、警察署に侵入するか、エアガンを改造するくらいしかない。新宿ならその全てをお手軽に試せそうなのに、誰一人として銃を使わないのは違和感がある。
「……サリーさん。悪魔転生すると記憶を失うんでしょうか?」
「いや、そんなことはないはずだが……」
私は顎に手を当てながら、モヒカンたちと白いオオカミの獣人の顔をまじまじと見る。彼らがこの世界の平均的な知識レベルなのか、ただことさら学がないだけなのか判然としない。
「あー……それで、取引に応じていただけると嬉しいのですが。そう言えばケルビーさん、白パンはいくつあるんです?」
「んー、30個くらいですね」
それを聞いてサリーが笑い声を上げた。
「お前は天性の盗っ人かもしれんな、ケルビー」
「だ、だって、荒廃した地球では何が起きるかわかりませんから……!」
確かモーセの十戒に「汝、盗むなかれ」とか書いてなかったかな?
でも天界では誰も飢え死にしないのだから、どうか赦してあげてほしい。
「お手柄ですよ、ケルビーさん。それなら我々の分を除いて27個と野菜の種子を交換しましょう」
「野菜の育て方なんて知っているんですか、ルシエルさん」
「一時期、家庭菜園に凝ってましてね」
というのも、室内に緑があると空気清浄効果が期待できるのだ。植物は室内の毒素を吸収し、空気の質を改善するため、結果として集中力の向上やストレス軽減に繋がる――という論文を読んで以来、部屋が温室と化すほど植物を配置したことがある。
まったく、研究や開発において、集中力とメンタルの安定は何ものにも代え難い。
その時、白いオオカミの獣人・フィンが口を開いた。
「……お前たちは、強いな」
フィンは体をかがめながら、私達の周りをゆっくりと歩く。本物のオオカミのごとく、獲物が隙を見せるのを待っているかのように。
結局、この男も脳筋なのだろうか?




