第15話 最後の対話
「なぜ……反論しなかったのだ、ルシエル」
転移装置へと続く長い廊下を歩きながら、メタトロンが私に尋ねる。メタトロンは最後に私と2人きりで話したかったらしく、他の天使の同行を拒否していた。私が暴れ出しても対処できる自信があるのか、縄も解いてくれている。
「天界は飽きたからですよ。あなたの顔色をうかがうことにもね」
その返答が気に入らなかったのか、メタトロンはむすりとしている。
「それがお前の本性か。お前はいつも物事をおちょくっているように見える」
「ユーモアがあると言ってください。ご存知ありませんか、智慧のある者ほどユーモアがあることを。なぜなら感情調節には『笑い』が大きな効果を発揮すると知っているからです」
もし私の頭の中をのぞける者がいるとしたら、「この男、けっこうふざけているな」と思われるだろうか。これは辛い感情をやわらげるためだ。遊び心と想像力をもって人生に臨むため。困難な状況に直面した時、ユーモアを使って状況を捉え直せば、ネガティブな感情に呑み込まれずに済む。
だからどんな状況でも楽しくて明るい面を見つけようとしたり、なんてことのない日常に面白みを見つけるよう心がけている。ちなみにこれは自己効用的ユーモアとも呼ばれる。
「あなたもユーモアを身につけるべきですよ、メタトロンさん。そうすれば……」
もう上司ではないので「さん」付けで呼んであげよう。
「……そうすれば、何だ?」
「では答え合わせといきましょう。神様の声は聞こえてますか?」
その瞬間、メタトロンは立ち止まった。天使は不老だというのに、100歳くらい老け込んだように見える。しばらく待ってもうんともすんとも言わないので、私はため息を漏らした。
「……とても残念ですよ。もし新人類創造プロジェクトが上手く行ったら、新しい世界について神様にお願いしたいことがあったのに」
どんなお願いだ? と聞いてくれるのを期待していたのに、メタトロンはまだ憮然としている。憮然というのはよく誤用されるが、ぼんやりしているという意味だ。
「いつから聞こえていないんですか? 旧人類の滅亡後?」
「……黙れ」
ようやく口を利いてくれたが、メタトロンの言葉にはまるでユーモアがない。
「神の声なら聞こえている。お前の予想はまったくの的外れだ」
「ああ、そうですか」
それならそれでツッコミどころが山ほどあるが、これ以上、メタトロンを追い詰めるのは気の毒に思えてくる。
そもそも私は天界を後にする身だ。彼らのことは彼らが決めればいい。惜しむらくは旧人類の膨大なデータだが、こうなっては諦めるしかあるまい。
それから私達は無言で歩き続け、やがて転移装置の前にやって来た。
目の前にあったのは、人間界でも存在しているか怪しい手動式エレベーターだった。真鍮製の格子扉の上には半円形の表示盤があり、針が「天界」を指している。神聖な転移装置にしてはずいぶんと、こう……レトロな佇まいではないか。
「地球に行きたいそうだな。どこに下ろして欲しいか、希望を聞いてやる」
「では日本の東京辺りに」
メタトロンは小さく頷くと、パチンと指を鳴らす。表示盤の針が90度、回転し「地球」を指した。本当に東京に下ろしてくれるのか不安だ。
「……最後だから伝えておこう。今の地球がどうなっているか」
そんなふうに言われると、かなりヤバいところになっていそうだ。
「地獄のキャパオーバーの話は聞いているな? 100億人の人類の魂が地獄へ一気に流入した。そのインパクトが予想もしない現象を引き起こしたのだ」
「あー……たぶんですけど、地球に地獄の連中がなだれ込んだとか言わないでくださいよ」
フッと、メタトロンが口の端を少し上げる。彼が笑う表情を初めて見た。
「まったく。お前は勘が鋭すぎるな」
「時には憎たらしくなりますね。自分の勘が」
「初めて意見が一致したな」
「というと……地球はもはや地獄みたいな場所になっていると」
「詳しくは知らんが、混沌としていることは確かだ。何がどうなっているのか知りたくもない」
そう言うと、メタトロンは挑発的な笑みを浮かべる。
「ふん、お前のそのユーモアとやらで乗り切ってみろ。そうすれば私も――」
その先の言葉は聞けなかった。背後からケルビーの声が被さってきたからだ。
「待ってくださーーーい」
パンパンに何かが詰まったリュックサックを背負って、ケルビーが走ってくる。彼女の隣にはもう一人。なんとあれは! 『悪魔の頭部を素手で引きちぎった』サリーだ。
「メタトロン様、私達もルシエルさんに付いていきます!」
私もメタトロンも、予想外の展開に意表をつかれている。
「お前達もこの男に加担するというなら……天界に戻すわけにはいかん。追放だ。それで本当に良いのか?」
言葉の代わりに、ケルビーは手動式エレベーターの中に勢いよく乗り込んだ。サリーもその後に続く。
「お二人とも……今さっき聞きましたが、地球は魑魅魍魎が渦巻く、混沌とした大地になっているそうですよ」
「えっ!」
サリーの方は、事情を知っているらしく落ち着いている。
「ああ、地獄に変なゲートが開いていてな。あれを閉じるのがオレ達の役割だった。全然、間に合ってないけどな」
「ま、まあ。サリーさんがいれば何とかなりますよ、きっと」
断固として、2人はエレベーターを下りる気はないらしい。まったく不思議なものだ。彼らには何の利益もないどころか、むしろ大きなリスクを背負うことになるというのに。天使にとってはたったの100年。私は彼らに何をしたのだろう?
いや、きっと神がいないという説を聞いて、天界にいても意味がないと悟ったのだろう。私は彼らに自分の強さを示しているし、私と一緒ならば、荒廃した地球に行くのも悪くないと思ったのかも知れない。
まあ、そんな小難しいことを考えなくても単に友情だと考えるべきかな? 何しろ捻くれているものだから……それでも、私にも人並みの感情はあるようだ。胸の奥が、なんとも言えず温かくなった。
「ありがとうございます。本当に」
心からの感謝を伝えながら、私もゆったりとエレベーターに乗り込む。
その様子を、メタトロンは何か眩しいものでも見るように目を細めている。こちらは3人いるので、たった1人のメタトロンが何だかちっぽけに見える。実際、神がいないという秘密をこれからもたった1人で抱え続けることになるのだ。
「……勝手にするがいい」
やがてメタトロンはそう言い捨てると、パチンと指を鳴らしてエレベーターの扉を閉める。
「また会いましょう。数百年後か、一千年後かに、いつかまた」
だがメタトロンは返事をせず、エレベーターは下降していく。
しばらくの間、私達は無言でエレベーター内の金色の壁を見つめている。本当に天界を出ていくのだという高揚感で、ほとんど放心している。
1分くらい経った後、私はケルビーのパンパンに膨らんだリュックサックを指差した。
「ずいぶん大荷物ですね。何が入っているんですか?」
「白パンです。厨房から大量にくすねてきました。ルシエルさんの評議会を見ようと、みんな持ち場を離れてましたからね」
「おやおや……真面目な人や過度な道徳観念に縛られていた人は、一度その枠から外れると、今度は極端に振り切れてしまう。その好例ですね」
「私を心理的に分析するのやめてもらっていいですか?」
それからサリーの方を見上げる。
「君はどうしてついてきたんです?」
「お前はオレを成長させてくれるからな」
「それはどうも。私も君から学ぶことは多いですよ。主に戦闘面において」
「バカを言うな。お前は訓練で一度も本気を出してなかっただろ、ルシエル。光魔法を隠していたからな」
「バレてましたか」
「地球に行ったら、お前の本気を見せてみろよ」
そこで私は不敵な笑みを浮かべる。
「ええ、本気を出せる相手がいたらね」




