第9話 武装天使との訓練②
「貴様……私を愚弄しているのか?」
まあ、新人がいきなり「教官と戦いたい」などと言い出したら、怒られるのは当然だ。
「いえいえ、滅相もございません。軍隊に入るのは初めてでして勝手がわからず。教官には口先だけではなく、実技でご指導いただけると思っておりました」
言うまでもなく、私は教官を煽っている。敬語で煽るのは効果的だ。言葉の表面的な丁寧さと、実際の意図との間に大きなギャップがあることで、相手は「馬鹿にされている」と強く感じる。敬語という「建前」の裏に「本音」の攻撃性が透けて見えるから、余計に苛つくのだ。
私はマスクの奥で目を細めながら、教官の様子を観察する。仮面を付けているので表情は見えないが、肩をいからせ、握りこぶしに力が入っている。
しかしどうにか冷静を保ったふりをして、遠巻きに見ていた武装天使たちの一人に声をかけた。
「よかろう。サリー、貴様が相手をしてやれ」
さすがにいきなり教官が出るような真似はしないらしい。そのわずかばかりの分別を、もっと言葉遣いにも分けてもらいたいものだ。
「うす」
短く言いながら出てきたのは、短髪の大男だった。仮面を付けているので、『13日の金曜日』に登場する殺人鬼ジェイソン・ボーヒーズに見える。ボクシングの階級で例えると、ヘビー級くらい。つまり最重量級だ。ジャブ――力を入れずに素早く繰り出すパンチ――で、一発KOされてしまいそう。
一方、私はもしプロになっていたらクルーザー級か、ライトヘビー級くらいか。ヘビー級の1つか2つ下だが、ボクシングにおいて階級の壁は非常に大きい。
要するに、誰が見ても明らかに私が勝てるとは思えない相手だった。
なるほど、これで教官の底意地の悪さは理解できた。彼は私を指導するつもりはない。潰す気なのだ。
「オレは悪魔の頭部を素手で引きちぎったことがある」
開口一番、サリーは衝撃的なことを言う。
「おお、それは恐ろしい」
「拳で戦いたいそうだな。だったら、オレもそうしてやる」
「よいのですか? 教官は『拳など何の役にも立たない』とおっしゃっていましたが……部下の方は違うご見解のようですね」
「むうぅ」
唸りながら、サリーは困ったように教官を振り返る。教官をママだと思っているジェイソンのように。
一瞬、教官は言葉に詰まったが、すぐに威厳を取り繕った。
「かまわん。新人の教育には拳が有効だ」
教官のお墨付きを得ると、サリーは拳と拳をバンッと突き合わせる。どうやったらそんな音が出せるのか。
とはいえ天界にはボクシンググローブがないので、手に包帯を巻くことになった。
準備ができると、私とサリーは広間の中央で対峙する。この圧倒的な体格差の2人が戦うというので、他の天使たちも興味津々。取り囲むように集まってくる。ケルビーは心配そうに私を見ていた。
「せっかくなのでボクシングと似たようなルールにしましょう。ダウンして10カウント経ったら負けです。ダウンというのは、両足以外の体の一部が地面についた場合ですね」
「10カウントと言わず永遠におねんねしてもいいんだぞ、お坊ちゃん」
……この男は本当に天使なのか? でも金の輪っかと翼もあるからそうなんだろう。
ちょっと信じられなくて思わず凝視していると、教官が一歩前に出てくる。
「レフェリー役は私がやろう」
そう言うや否や、教官は私とサリーの間に手を入れて、勢いよく振り上げた。
「試合開始!」
その合図とともに、私は気を引き締め、軽やかにステップを刻み始める。軽く跳ねるような動作で、筋肉を軽く緊張させて「いつでも動ける」状態になる。
それを見たサリーは両手を広げて、お腹をがら空きにする。
「さあ、来いよ。一発当ててみな。プレゼントだ」
「それでは意味がありませんね。私は本気の相手と戦いたいのです」
そう、ここに来た理由を忘れてはいけない。意地悪な教官のことなんてどうでもいい。私はただ、自分の実力を確かめたいだけだ。
「何なら、光魔法を使ってもいいですよ」
「ルシエルさん!」
その言葉を聞いたケルビーが声を上げる。
「魔法は禁じられているはずです。あなたが不利になるだけですよ!」
「どうぞご遠慮なく。拳だけでは不安でしょうから、魔法も併用していただいて構いませんよ」
「てめえ……」
仮面で見えないが、サリーのこめかみには青筋が浮かんでいるに違いない。両腕を広げた体勢のまま大きく仰け反っている。
それを見て周囲の天使たちもざわめく。
「おいおい。サリーを怒らせるなんて……」
「あいつ自殺志願者か?」
「自殺は地獄行きだぞ」
「ケルビー、止めた方がいいんじゃない?」
そんなネガティブな声にもかまわず、私はさらに挑発する。
「あ、すみません。私はカウンターが得意なので、そちらから来てもらえると助かりますね」
そう言いながら私は手のひらを上に向け、くいくいと折り曲げた。
これは最大級の挑発。カウンターが得意という手の内も晒したが、サリーなら構わず突っ込んでくるだろう。相手の得意をねじ伏せてこその完全勝利、とか単純に考えそうなタイプだ。
でも、何なのだろう? 私が煽るたびにサリーはどんどん仰け反っていく。
「お望みどおり――」
そう言いながら、サリーはほとんど地面に手がつきそうなほど海老反りになっている。
「ぶっ潰す」
その刹那――
仰け反り状態からバネのように起き上がったサリーが、弾丸のごとく突進してくる。あんな体勢から重心を一気に前方へ移すとは、尋常ではない全身の瞬発力だ。さすがは悪魔と戦う歴戦の戦士。
やれやれ、あんな化け物に叶うはずがない。第一、私はプロのライセンスも持っていないのだ。戦う度胸は身につけたが、素人ボクサーには違いない。実際に死線を潜り抜けてきた戦士とは天と地ほどの差がある。まるで聖書に出てくる『ダビデとゴリアテ』のように。
ところで、『ダビデとゴリアテ』の物語を知っているだろうか?
羊飼いの少年ダビデが、圧倒的な強者である巨人ゴリアテに挑む物語。まったく、今の状況にそっくりじゃないかね。あれの結末は確か――
ああ、巨大な拳が上から迫ってくる。
その時、周囲の武装天使たちが息を呑んだ。ケルビーは目を覆いそうになる。教官は腕を組んで、内心で(これで終わりだ)とでも思っているだろう。
だが——
次の瞬間、私は影のように横に流れていた。
サリーの拳は何もない空気を殴りつけ、乾いた音を立てて地面に叩きつけられる。ぐらぐらと地面が揺れて、白い床いっぱいに大きなクレーターができた。こんなパンチを喰らったら、体がバラバラになってしまうではないか。
「え……?」
驚きの声を上げながら、サリーが呆然と自分の拳を見つめる。確実に命中させるはずだったのに。
そして私はその横で、まるで最初からそこにいたかのように、優雅に立っていた。
しばしの間、訓練棟が静寂に包まれる。
「今……あいつの動きが見えたか?」
「いや、一瞬キラキラ光ったような気はする」
「でも光魔法は禁止されているんだよな」
「それに詠唱もしてなかった」「魔法は使ってない」
「じゃあどうやって……」
「あれは汗の光だよ」
「そうなのかなあ」
「あまりにも美しい動きだから、輝いて見えたのさ」
もちろん、私は光魔法を使ったのだ。ボクシングは素人かもしれないが、魔法の扱いならお手のもの。得意なことで勝負をすれば、巨人ゴリアテだって倒すことができる。
それにしても成功してよかった。実戦で使うのは初めてだったから。
まず、私は光エネルギーを電気エネルギーに変換した。これが可能だとわかったのは、天界の照明を分析したからだ。自分の部屋にある照明を取り外して分解したところ、仕組みは人間界と同じ、蛍光灯だった。つまり電気を使っている。
でも、なぜ光魔法があるのにわざわざ電気を使っているのか? 直接、光で照らせばよいではないか。
これは少し考えればわかる。光は「直進する」が、壁や物質を曲がって伝わるわけではないので、建物の照明を全て光魔法で賄うのは非効率。光は伝達に不向きなのだ。
だから電気を使っている。配電はずっと簡単だ。それならどこかに発電機があるのか、とケルビーに尋ねると「ない」と言う。そこで照明はどうしているのか聞いてみたのだが、魔法に関わる知識を教えてはダメ、とメタトロンに口止めされて聞けなかった。
もっとも、発電機がないのに電気を使えているのだから、光魔法を電気に変換できるという説は十分に説得力がある。光と電気は、どちらも電磁力に関わる現象だから、魔法的な親和性があるのだろう。光魔法という系統の中に電気の魔法も含まれているのかも知れない。そう仮説を立てたら、あとは試行錯誤するのみだ。
そこで『ルクス』で生み出した光を電気エネルギーに変換してみる。イメージとしては太陽電池だろうか。光子の衝突、電子の励起、電位差の発生、一方向への電子の流れ。ものは試しに、すべてを順序立ててイメージしていくと――
パッと、蛍光灯が点灯した。実験成功だ。
そしたら次の段階だ。
と、その前にサリーの相手に戻ろう。彼は再び地面を蹴り、一気に距離を詰めてくる。
その時、私は心の中で詠唱する――『ルクス』。
色々と試したところ、詠唱したほうが集中力が高まって制御しやすくなるとわかった。だが、私は魔力操作が得意なので、無詠唱でも十分に制御できる。ひょっとすると、魔法の名称に大して意味はないのではないか。単にイメージを結びやすくなるというだけで。
たぶん、光を電気に変換するのにも何らかの詠唱が必要だったのだろう。だが、私は科学的知識に基づいてイメージを具体化できる。
さて、今の『ルクス』で私は皮膚全体に「微弱な電界」を展開した。接触物が電界に侵入すると静電容量の変化を瞬時に感知し、その刺激が神経を介して反射のように筋肉が動く。人間界でもスマートフォンのタッチパネルが同じ原理を使っている。
まるで全身が「触る前に感じる超敏感な触覚」になったようなものだ。サリーの拳が届く前に――ほらっ、体が勝手に避けてしまう。
ただし、どの方向にどう避けるかや、筋肉の制御にはさらに高度な命令式が必要になる。これがなければ、攻撃を検知しても体が思うように動かない。私は脳の判断フェーズを省略して、最速で回避するシステムを作りたかった。
そういうわけで、仮説と検証の繰り返しだ。魔法はイメージの精度がものをいう。ということは、命令式をプログラミングのように組み立てることで、その精度を上げられるのではないか。
そこで私は数学と物理学と生物学の知識をフル活用して緻密なプログラムを生成し、イメージを結んだ。「電界での刺激検知 + 条件分岐による物理処理実行」という魔法システムの構築。最初は全く違う筋肉が動き、部屋の壁に体を何度も打ち付けたものだが……プログラムというのは実装して初めて問題が見えるものだ。体を張った試行の果てに、私はついに完全自律回避システムを完成させた。
でもそれだと名前が長いので、この回避魔法は『イージス』と呼ぶことにしよう。
しかも『イージス』はあまり魔力を消費しない。電界の範囲が数十センチくらいだから。ただ、魔法発動時に少し光るので、回避する直前だけ『ルクス』を唱えている。観客たちには私が一瞬、ピカッと光って高速移動しているように見えるだろう。
以上、種明かしは終わり。サリーは何度もパンチを繰り出してくるが、私は避け続ける。
「逃げてばかりだな、腰抜けやろ――がっ!」
言い終わらぬうちに、私は回避してからボディーブローを入れる。
「……ふん。軽いパンチだな」
その点についてはぐうの音も出ない。しかし軽いパンチでも、何度も喰らえばダメージが蓄積する。私は連続でパンチを当てる、当てる、当てる。
でもサリーの方はガードを上げてしまった。私はそれでも攻めに徹する。ここで休ませてはならない。
「ほう、その構えは『カメさん戦法』というやつですね。それも教官に教わったんですか?」
安い挑発でも、頭に血が上ったサリーは真に受ける。彼は再び攻撃に転じた。私はまた何度も何度も回避する。
「へっ……防戦一方なのはどっちだ。はあはあ……決定打がねえから、オレを倒せねえんだろ」
明らかにサリーの息が上がっている。
それもそのはず。ボクシングの1ラウンドは通常3分だ。でもこれはボクシングではない。もう3分以上は休憩なしで動き回っている。私は光魔法による反射で最小限の回避と、軽くパンチを入れたくらいなのでそれほど疲れていない。
一方、サリーは重い体重で動き続け、疲労が蓄積している頃だろう。
「――『ルクス・パンチ』」
するとサリーが拳に光をまとわせる。『ルクス』の応用だろう。訓練棟の広間の明るさを二段階くらい上げたかもしれない。近くにいると非常に眩しい。おそらく目くらましをした隙に、拳を叩き込むつもりだろう。私は「うっ」と言いながら、思わず手で目元を覆う。
私が怯んだところへ、サリーが大ぶりのパンチを振り下ろしてくる。だが、怯んだというのは嘘だ。
そもそも『ルクス』は波長と振動を操る力。私の白いマスクを通る光は、波長の調整で眩しい短波長の光を遮断し、振動制御で特定方向の強烈な反射や閃光もカットする。魔法名は考えてない。ただの偏光サングラスだ。
なぜそれを試したかと言うと、初日に『ルクス』を暴発させて、もう眩しいのは懲り懲りだと思ったからだ。
さあ、戦いを終わらせる時だ。サリーは私の目が眩んだと思って、大ぶりの攻撃をしてきた。よりにもよって、カウンターが得意なこの私に。
カウンターとは、自分の速度 + 相手の突進速度により衝撃力が倍増以上になる技だ。
しかも攻撃中の相手は防御が疎かになっており、予期しないダメージによって精神的にもキツい。
私は華麗に回避すると、同時に強烈なアッパーをサリーの顎に叩き込む。顎にアッパーカットを受けると、脳震盪を起こし意思に関係なく立っていることができなくなる。大柄な体が仰け反り、後退り、そして――倒れた。
私は手首をひらひらしながら、教官に視線を向ける。
「カウントを」
教官はハッとして、カウントを開始する。
「1、2、3……」
そこで、倒れたサリーがほんの少し動く。
「4、5、6……」
サリーはうつ伏せになって膝を立てようとしている。
「7、8、9……」
なんと! 立ち上がった。大したものだ。長時間の戦いによる疲労と、パンチのダメージも蓄積している。それにカウンター・アッパーはこの上なく見事に直撃したというのに。
だが次の瞬間――
「え……エレガント」
そう言うと、サリーは再び崩れ落ちるように倒れてしまった。
ああ、言い忘れていたけれど。
電流をひとつまみ、顎から脳に流し込んだことは言ってなかったかな?
「……10」
カウント終了。それと同時に、大歓声が湧き上がった。




