亡霊に憑かれし家系
静かな坂道をのぼった先。
霞ノ原市の住宅街の外れに、その家はあった。
瓦屋根の平屋。
庭には手入れの行き届いた枯山水と、杉板張りの道場。
まるで時間の流れを拒んだような――そんな場所だった。
「ご立派な家ねぇ~。なにしてる人なのかしら?」
「あぁ、朝凪さんかい? そうか、新しい人は知らんよね」
「……この家は、ちょ~っとばかし、変わっててね」
「え?」
「代々、剣ばっか振ってるんだよ」
「そうなんですか?剣術道場ってこと?」
「いや、それが違うんだよ……。
誰かに教えてるわけでもない。 誰とも交わらず、ただ――ひたすら、
剣を振ってるだけ」
「えっ?!なんですか、それ……?」
「さあね。あそこは“剣の亡霊に憑かれた家”だなんて、
言う人もいるくらいだ」
「またまたぁ。なんか……、まるで、江戸時代からタイムスリップしてきた
みたいな話ですねぇ」
「その通り!!要するに、時代錯誤の変人ってわけさ……っ!」
「あんたっ。滅多なことを言わないの!燈也くんは、礼儀正しい良い子よぉ~?」
──その朝凪家の敷地奥。
板張りの道場に、俺は立っていた。
年季の入った木刀を手に、正面に一礼する。
目の前の壁には、無数の木札が掛かっている。
文字の擦れたもの、筆が途中で止まったやつもある。
誰にも知られることのなかった――
“名もなき剣士たち”の証だ。
俺は、その札を見つめる。 深く、静かに頭を下げる。
着ているのは剣道着でも武道着でもない。
どこか和装っぽいけど、異国の意匠も混ざってる――
現代にはまったく馴染まない、“剣士の装束”。
音もなく、真剣を振り上げる。 ひと振り。
また、ひと振り。
意味など、知らず。
でも毎朝、こうして振ってる。
儀式のように、ずっと繰り返してきた。
門下生なんていない。
この道場に出入りしてるのは、爺ちゃんと俺だけだ。
俺は、今日もまた“その剣”を振っていた。
門下生などは存在しない。
三歳のころから、祖父――朝凪無剣に教わって、
"人を殺すための剣"を振ってきた。
戦う場所すらない。
そんな平和な世界で。
なぜ朝凪は、孤独に剣の道を歩み続けるのか?
もはや道ではなく、ただの狂気かもしれない。
それでも。
朝凪は、今日も剣を振る。
代々そうしてきたように、その意味もわからぬまま、ただ振り続ける。
そのときだった。
ジジ……ッ
耳の奥を、金属の擦れるような音が走った。
「うっ……?!」
ザァァァ……
突然――視界が真っ暗になり、灰色に支配された。
「……っまたかよ!」
昔から、稀に起こる。
爺ちゃんいわく、朝凪の血に流れる現象らしい。
一生に数回あるかないか……って話だったのに。
最近、それが頻繁に起きる。
特に――アーサーが転校してきてから。
まるで何かに干渉されてるみたいだった。
それだけじゃない。 最近の俺には、さらに奇妙な変化があった。
「侍……?」
これまで灰色だけだった景色の中に、うっすら“誰か”の姿が見えた。
そのとき。
「おう、やっとるかねえ」
道場の入口から入ってきたのは、爺ちゃん。
手には、たっぷりの生クリームと果肉と氷が乗ったドリンク。
「爺ちゃん!……何食ってんの?」
「近所にできたカフエで、買ってきたんじゃ」
「カフエじゃなく……、カフェでしょ!」
「ほほっ。どっちでも一緒じゃろ」
「……どうかしたか?剣が転がっているが」
「あぁ……またあれだよ。最近、特に多くて」
「ふむ」
「病院に行ったほうがいいかなぁ?」
「いや、絶対にやめておけ」
「え?」
「……霞ノ原病院は、胸の小さい女ばっかりじゃ。がっかりするだけじゃぞ?」
プラスチックのスプーンで氷の塊を頬張りながら、無剣は
そんなことを言った。
「なんだよ、それ!!そんな目的なわけないだろ!!
爺ちゃんみたいにスケベじゃないんだよ!!」
「ふぉふぉっ」
「はぁ……もういいよ。爺ちゃんに言ったのが、間違いだったよ」
俺は、呆れながら口にした。
「その通りじゃ。ワシみたいな年寄りに、"ふぁんたじぃ~"なんか、わかる
はずないじゃろ」
「はいはい、そうだね。……って、ちょっと?!道場に、こぼさないでよ!氷!」
「おおっと、すまんすまん」
「……ったく。爺ちゃんだけが頼りだと思ってたのに。
これじゃ、あの夢のことも、誰にも言えないな。やっぱり」
「夢?……はて?初耳じゃな。何のことじゃ?」
「何年か前からかな。同じ夢ばっか見るんだよ」
「スケベな夢か?」
「違う!!!!」
「……まぁ、こんな話しても、しょうがないし」
「ふむ」
「大昔の夢を、見るんだよ。たぶん、円卓の騎士くらいの時代……
しかも――色々とエグいやつ……」
びしゃっ……!!
「じ、じいちゃん?!」
無剣が落としたカップの中身が、床に散乱する。
「あ~あ……っ、びちゃびちゃじゃん?!」
昼下がりの道場、鳥が鳴いていた。
「……とう、―や。お前、いく……つになった?」
「はぁ?十六だよ、十六!知ってるでしょ?!」
雑巾で畳を拭きながら答えると、 爺ちゃんはどこか真剣な顔で俺を見ていた。
「そ、うか……もう、十六か」
「?」
爺ちゃんのらしくない反応に、俺は顔を上げた。
その表情は硬く、わずかに汗が浮かんでいた。
「では、精進したまえ――」
「ちょっと?!片付け手伝ってよ! 自分でこぼしたんでしょ!」
「すまんが……急遽、用事ができた」
「もぉっ。ほんと、自分勝手なんだから!」
俺は、地団太を踏み、 やけくそ気味に箒を掴んだ。
結局、道場掃除はいつも通り俺の役目だった。